偽りにあらねど多き不義をもて
歩みし生の旅のさびしさ(京都大原三千院にて)
漁山(ぎょざん)という風変わりな呼称をもつ洛北大原の地一帯は、慈覚大師円仁が唐からもたらした声明(しょうみょう)、すなわち、大勢の僧侶らによる読経をはじめとする仏教音楽の修行の場として知られ、古来、天台浄土教の聖地として極楽往生を祈願する人々や隠棲を願う人々の心を魅了してきた。そして、その大原というと、多くの人がまっさきに想い起こすのは「京都大原三千院……」という歌の文句でも名高い三千院だろう。
三千院は伝教大師最澄の開基になる寺院だとも伝えられている。青蓮院、妙法院、曼殊院、毘沙門堂とならび天台宗五箇室門跡寺院の一つとして昔から天台座主を輩出してきた。ちなみに述べておくと、門跡寺院とは代々皇子や皇族が住職を務める寺院のことで、三千院の場合は宮門跡、すなわち親王にあたる方々が歴代の院主となる寺院であった。
三千院の御本尊は薬師瑠璃光如来であるが、この仏像は秘仏とされ一般公開はされていない。そのかわり、平安期の寛和二年(九八六年)に恵心僧都によって建立されたという往生極楽院には、阿弥陀如来を中心にして、向かって右手に観世音菩薩、左手に勢至菩薩の合わせて三体の仏像が安置され、極楽往生をと祈る信心深い人々に悠久の時を超えて慈悲の眼差しを送っている。また、補陀落浄土を模して配置されたとかいう二十五菩薩の慈眼にあふれた石庭の脇には観音堂が設けられていて、中に安置された高さ三メートルにも及ぶ観音像が迷える衆生に向かって救済の手を差し延べている。
久方ぶりにそんな大原の三千院を訪ねたのは、晩秋のある晴れた日の昼下がりのことだった。それももういまから十年ほど前のことである。「一隅を照らす。これ則ち国宝なり」という有名な伝教大師の言葉をあらためて心に留めおきながら山門をくぐると、眼前に手入れの行き届いた美しい庭園が現れた。千年を超える歴史を誇るその庭にはまだふんだんに紅葉の錦が残っていて、胸に湧きつのる旅愁をしばしのあいだ慰めやすらわせてくれもした。
一隅をさえも照らし出すことのできない愚かなこの身にはほかならなかったものの、この日はべつだん薬師瑠璃光如来や阿弥陀如来に救いを求めてこの寺を訪ねたわけでもなかったし、ましてや来るべき日の極楽往生を願って仏陀の前に立とうと思ったわけでもなかった。ただなんとなく古都の晩秋の風情を楽しみ味わいたくて、特別な目的も思いもなくふらりと足を運んできただけのことだった。
ところが、寺内のあちこちを一通りめぐり終える頃になって、なぜか胸中に懺悔ににも似た奇妙な想いが湧いてきた。「このままではお前に極楽往生など許されないことは誰よりも私たちがよくわかっているけれど、せめてすこしくらいはおのれの生の旅路を反省してみたらどうなんだ」という、如来様のものとも菩薩様のものともつかぬ声がどこからともなく聞こえてくる気がしたのである。
人間社会というものは厄介なものである。すべてにおいて自分の本心の通りに振舞おうとすれば、必ずといってよいほど他人とのあいだに軋轢(あつれき)が生じる。ごく身近な者たちとのあいだにおいてさえもそうである。一心同体という言葉の響きそのものは美しいものの、二人の人間が文字通りの意味で一心同体になることなど現実にはありえない。そもそも、そんな言葉が存在すること自体、そうなることが如何に困難であるかを物語っているといってよい。人間というものに個性が存在するかぎりは、一心同体とはいっても、根も幹も異なる二本の樹木の枝のうち何本かが繋がっている「連理の枝」状態くらいがせいぜいのところなのではないだろうか。ましてや、あまり身近ではない人間同士の関係ということになると、推(お)して知るべしというところだろう。
本心を直接相手にぶつけると互いの関係が修復不能な状態に陥るとか、そうではなくても必要以上に相手を傷つけてしまうと思われるようなとき、不本意ではあるけれど、我々は自分の真意とは異なる言動をしてしまう。しかも、不本意だと感じるうちはまだよいのだが、そんな言動が度重なるうちに、そんな時にはそう対応することが当然だと思うようになり、やがては申し訳なさもやましさも湧いてこなくなってしまう。
ただ、意図的に相手を騙し直接になんらかの社会的不利益や損害を与える行為ではないのだし、もともと相手になるべく失望感や不信感、不快感などを与えることなくなんとか自分の本心を守り通すために生じる言動だから、それらは「嘘偽り」というのとは少々異なっているような気がしてならない。あえて言葉を探せば「不義」ということになるのだろうか。もちろん、不義とはもともと「この世の道義に反する行為、すなわち、本来あるべき正しいおこないに反する言動」という意味なのだから、その語意のなかには、当然、嘘も偽りも含まれていることになる。しかし、その言葉のどこかには、ぎりぎりのところで個としてのおのれの魂の存在を守り維持しようとする人間の内なる叫びや、そのゆえに起る悲しいまでの反社会行為が含まれていることは明らかだ。
そして、ほかならぬこの私もまた、そんな意味での多くの不義を重ねに重ねながらこれまでの人生の旅路を歩んできた。どうやら、そんな不義の権化のような私に、晩秋の三千院の大気の中に溶け込み漂う仏性のようなものが、「お前の重ねた不義をあえて責めはしないが、すこしくらいは不義だらけの人生を反省し、たとえその結果がどうなったとしてもたまには真摯に生きてみたらどうなんだ」と語りかけてきたようなのだった。
その声なき声に促されながら、あらためておのれの重ねた大小の不義の数々を振り返っていくうちに、なんとも言葉には尽くし難いさびしさが心の奥にふつふつと湧き上がり、やがてそれはじわじわと全身を覆い尽くしでもするかのように体内に広がっていった。そして、ついには、私の身体全体が目に見えない「さびしさのバリヤー」によってすっぽりと包み込まれる有様となってしまった。
ただ、そのさびしさとはよくあるような表面的なさびしさではなかった。明らかに、それは、どこから来てどこへと行くのかわからない生の旅路をただ独りであてどもなく歩き続けていかなければならないという、人間の宿命ともいうべき「根源的な存在の不条理」に端を発するさびしさでもあった。そして、そのとき、私は、はからずも大和斑鳩の法隆寺夢殿の秘仏救世観音(ぐぜかんのん)を前にして会津八一が詠んだ有名な一首を想い出した。当時まだ学生だった私は大和斑鳩の地で初めてその歌に出合っていたく感動し、それを契機に会津八一に傾倒し、その歌集や随想集、書簡集を読み漁ることになった。その時に私が感動したのは、分かち書きで表記された次ぎのような短歌であった。
あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ (天地に我独り居て立つ如きこのさびしさを君は微笑む)
青白い月光の降り注ぐはてしない無人の氷原上を、身も凍るような寒風にさらされながら、目的地も行く手の様子も知れぬままに、行き倒れ覚悟でたった独りどこまでも歩き続けるときのような孤独感と寂寥感、そしてまた、救い難い迷いと矛盾と過誤と苦悩に満ちみちた人生に身を委ねつつ、なんの救いもないままに独り自力で立ち続けるしかないときの絶望的なまでの孤立感――そんな深くてやり場のない人間のさびしさを救世観音は永遠の微笑み、すなわちその慈眼をもってじっと見守り包み込んでくれている。あえて私流の比喩を交えながら手短かにこの歌を解釈すると、そのようなことになるのだろう。
慈眼とは、仏の永久(とは)の眼差し、すなわち、あの弥勒菩薩像の半眼の両目と口元に浮かぶ微笑みに象徴されるような、「苦悩に満ちた人間の生に対する無条件の肯定と、生きとし生けるものへの深い慈悲」とを湛えた仏陀の眼差しのことである。その真偽のほどはともかく、かつてフェノロサをはじめとする一部の美術研究者らはその微笑みの起源を古代ギリシャの彫像に求め、アルカイック・スマイルと呼び名づけたりもした。ちなみに述べておくと、会津八一自身は、自註鹿鳴集のなかにおいて、古代ギリシャ彫刻の生み出された時代から仏像の造られた奈良時代までに千二百年もの歳月が流れていることを理由とし、それらの研究者たちの唱える古代ギリシャ起源説にはすくなからず疑義を呈している。
「わたしにはあなたがたを助けることはできません。どんなにその生の旅路が辛いものであろうとも、つまるところ歩くのはあなたがた自身なのですから……。でも、わたしには、あなたがたの旅行く姿を永遠の凝視をもっていつまでもじっと見守り続けることはできるのです。微笑みをもってあなたがたの生のすべてを肯定してあげることはできるのです。迷うこともあるでしょう、過ちをおかすこともあるでしょう、苦しむこともあるでしょう、そしてまた悲しむこともあるでしょう、人間とはもともとそういうものなのですから……。でも、それはそれでよいではありませんか、それこそが生きるということにほかならないわけなのですから……。さあ、もう一度立ち上がり歩いて行きなさい。わたしはあなたがたをいつまでもいつまでも温かく見守ってあげますから……」
かつて夢殿の救世観音の前に立ったとき、歌人会津八一は、静かな微笑みを湛えながら、そう観音が語り囁きかける声を聞いたに違いない。会津八一のその歌に感動し開眼させられた私自身が、あるときそれを耳にしたのとおなじように……。
大和斑鳩と京都大原と場所こそまるで違うけれど、この三千院の如来や菩薩たちは、歳を重ねて少々ふてぶてしくなってしまった私に、この人生を歩むにあたって忘れてはならない、根源的な存在の不条理に因する「生のさびしさ」をもう一度自覚するように諭し促してくれたのであろう。柄にもなくそんな想いにひたりながら、私は三千院をあとにし、おなじ大原の里にある寂光院目指して畑中の道を歩きだしたのであった。