ある奇人の生涯

119. 穂高町の新居へと移転

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

悲惨を極めたベトナム戦争の集結、さらにはロッキード事件にからむ田中角栄元首相の逮捕などのような様々な社会的事件を経て、日本は不確実性の時代なども呼ばれる不安定な時代へと突入していった。一九七〇年代末期のこの時代に入ると、日本は出口の見えない経済不況に直面することになった。もっとも、松本での石田の生活そのものはそれまで同様比較的安定したものだった。

だが、どうしたものか、この頃、石田はひどく体調を崩してしばらく仕事を続けることができなくなってしまった。突然に肺に穴が開く原因不明の気胸を起こしてひどい呼吸困難に陥り、さらに余病をも併発した石田は、信大病院に担ぎ込まれて大きな手術を受けざるをえなくなった。もともと相当にわがままなところがあり、入院生活など大嫌いな石田ではあったけれども、完全回復を期するためには医師の指示におとなしく従うほかはなかった。また、無事に退院しても、元通りの体力を取り戻すまでには当然それなりの時間が必要であった。

ただそれに伴って、英会話塾ESSMのほうはどうしても長期にわたって休塾するしかなくなった。石田のかわりに講師を務めてくれるような人物は当面見当らなかったし、また、たとえそんな人物がいたとしても、彼と同レベルの指導をおこなうことなど所詮無理な話であった。その頃たまたま石田には「ゴットファーザー」の翻訳の下仕事が持ち込まれており、彼はそれに取りかかろうとしていたところでもあった。だが、想像もしていなかった入院騒ぎのためにどうしても対応ができなくなり、結局、のちに映画化もされ大変有名になったその作品の翻訳を手がけることは叶わなかった。

石田に仕事が出来ないとなると、その間は英会話塾による収入がなくなることを覚悟しておく必要があったし、しかも休塾のままだと塾用の教室賃貸料金だけは払い続けなければならなかった。そのため、石田はESSMをいったん閉塾しようと決意した。いっぽう、養子の俊紀のほうは石田と相談のうえ、そのかなり以前からチンチラを飼い始めていた。高級な毛皮の素材になるチンチラの飼育がそれなりに成功すれば、生計の安定に十分役立つはずであったし、実際、その飼育は一時期それなりの成功を収めもしていた。幸い、石田の手術は無事成功し、しばらく入院生活を送ったあと、自宅から通院しつつ体調の回復を目指すことができるようになった。そこで石田のほうも、一時俊紀と一緒にチンチラの飼育に取り組んだりもしていた。

やがて体調を取り戻しすっかり元気になった石田は、気分を一新する意味でも、また、より自然環境のよいところで落ち着いた老後の生活を迎えるためにも、松本市街からすこし離れた安曇野のどこかに一戸建ての家でも購入し、そこに転居したほうがよいのではないかと思うようになった。そして、どうせならその新居でチンチラをも飼うことができればよいのだがとも考えた。幸い、いくらかの貯えはあったので、頭金だけを支払いローンを組むことができれば、そんな思いを実現することは可能でもあった。

俊紀ともあれこれと相談し、のちのちのためにはそうしたほうがよいだろうという結論に達した石田は、早速に適当な土地物件を探しにかかった。そして、あちこちをめぐり歩き、いくつかの候補地を検討したうえで最終的に選んだのが、北アルプス連峰東側山麓端に位置する穂高町有明の地であった。国道筋や碌山美術館などのある穂高駅周辺からはすこしばかり離れていたが、山側は広大な赤松林に覆われ、反対の平地側には美しい田園風景が広がり、さらに中房温泉や穂高温泉郷にも近いという有明一帯の環境はなんとも魅力的なものであった。背後の有明山の特徴的な姿も石田の心をすくなからず揺さぶった。

しかも、石田らが候補地として案内されたのは、深い赤松林の端線近くに位置し、すぐそばを綺麗な水を湛えた農業用水路の走る願ってもないような場所であった。そこに家を建てれば、西側に開ける美しい安曇野一帯の風景を屋内にいながらにして一望できるという贅沢を味わうこともできた。もちろん、周囲にはまだ一軒も民家など建っていなかったから、チンチラを飼うにも好都合だった。それらの飼育にともなう動物臭その他の衛生的な問題で必要以上に隣近所に気配りする必要もなかった。

また、糸魚川線や国道をはさむ反対側の山裾には大きなワサビ園などもあり、そのすぐ近くには、清冽な湧水を源とする万水川が流れていた。だから、碌山美術館周辺を抜けてその周辺までのんびりと散策をするにもよいし、その意味からしても有明というところはほどよい距離に位置していた。冬場はかなり冷え込みが厳しく、それなりの積雪もありそうだったが、それほどの豪雪地帯ではないようだったから比較的短い期間だけ辛抱すればよさそうだったし、いざとなれば食料をストックしストーブを炊いて家の中に篭っておればなんとかなる感じでもあった。

しかも、既にその頃には、ロックンロール歌手として一世を風靡したあのミッキー・カーチスの両親が穂高よりもずっと北に位置する大町市郊外の青木湖畔に居を構えるようになっていたから、上海以来の旧交を温めるうえでも穂高町有明の地はまたとないシチュエーションだともいえた。俊紀の賛同を得た石田は、有明の現地を目にしてからほどなく、その土地を購入し家を建てようと決断した。そして、森閑とした赤松林に背後を囲まれた平屋建ての石田邸が建造され、一九七九年、石田ら二人は住みなれた松本から穂高町のその新居へと引っ越した。土地を購入し新居を建てるに先だって当然ローンを組む必要があったのだが、その連帯保証人になってくれたのは、当時すでに横浜国大教育学部の英文学教授として高名を馳せていた、ほかならぬ旧友、加島祥造であった。

いっぽう、ジョンとミサ夫妻も若狭での原発の完成と稼働開始を見届けると、まるで石田の転居に時を合わせでもするかのようにして高浜から東京の世田谷へと転居した。ミサが以前に話していたように、ジョンはウエスティング・ハウス社をほどなく退社し、日本とイギリス、フランスの間を行き来しながら悠々自適の老後を送るつもりらしかった。もちろん、ミサの夫のジョンが日本人の気質や日本での生活にすっかり慣れ親しんでくれるようになったので、そのような運びにいたったのだった。

穂高有明での石田ら二人の当初の生活はそれなりに順調かつ快適だった。通常は、手際よく料理を作るのが得意だった石田のほうが調理を担当、食後の後始末のほうを俊紀が受け持った。しばらくして生活のペースが掴めるようになり、周辺の様子も一通りわかってくると、石田は穂高町の中心部に近い穂高病院の真向かいに再び英会話塾を開いた。そして周辺の主婦などを中心とした人々を募って以前のように英会話の授業をするようになった。独特のカリスマ性を秘めた石田のことゆえ、むろんそれなり数の受講者が集まった。もちろん、加島祥造らから依頼される翻訳の下訳作業も以前のように次々と引き受けた。なんとも静かな環境で、余計な雑念などがはいったりしないので、松本にいた頃よりも仕事の進捗状況はよいくらいであった。

養父に負けずとばかりに、俊紀のほうも再びチンチラの飼育に取り組み始めた。高級毛皮の素材であるチンチラの増殖で大きな成功を収めればそちらのほうでも十分な収入を見込めるとあって、俊紀は俊紀で懸命だった。だが、そんな俊紀の願いにもかかわらず、チンチラの飼育は思っていたほどにうまくはいかなかった。どうやら、松本の場合と違い、穂高有明周辺の諸々の自然条件はチンチラには不向きなようなのだった。その原因をなんとか突き止めようとしてはみたがうまくいかず、そのため、せっかく飼い始めたチンチラの数がだんだんと減っていくありさまだった。そして、チンチラ飼育に関するかぎりは、当初の目論みはすっかり外れてしまったのだった。結構意気込んでいた二人はすくなからず気落ちもしたが、さすがにそればかりはどうしようもないことであった。

穂高町に転居してしばらくしてから、石田の生活ぶりを見たいといってミサが安曇野にやってきた。せっかくのことなので石田は松本を中心とした安曇野一帯をあちこち案内してまわり、そのあと穂高の新居にミサを通したのだが、彼との毒舌の応酬は相変わらずだった。

「タッツァン、まあよかったじゃない、なかなかいい新居ができて……。静かだし、景色も空気もいいしね。でもさあ、このあたりだとドラキュラの餌食になりそうな若い美女はそんなには見つからないかもね?」
「でもさあ、和製ドラキュラ伯爵の棲息地としてはムード的にみて最高なのさ。夜になると裏の林の奥でフクロウが鳴いたりするし、蝙蝠だってしょっちゅう飛んでるし……、近くにお墓がないのだけはちょっと残念なんだけどね」
「そりゃたしかにそうだけど、たまには栄養分を補給しないとドラキュラだって生きてはいけないでしょう?、チンチラを代用するわけにもいかないでしょうにねっ!」
「でもさあ、バアサンになったミサの血を吸ったりするよりはチンチラの血を吸ったほうがまだずっとましだよな」
「私だって、どうせ襲われるんだったらもっと若くてハンサムなドラキュラのほうがいいに決まってるわよ!」
「まあ、もうすこし落ち着いたら、また若い旅人でもとって食うことにするさ。べつに美男だってかまやしないんだし……。自分の精神を若く保つための糧になりさえすれば、もう老若男女なんだってかまやしないのさ」
「ドラキュラもすっかり落ちぶれたもんだわね!」

ミサはそう応じながら石田のそんな言葉を冗談だと聞き流したが、ある意味で石田のほうは本気だったとも言えないことはなかった。養子となった俊紀は言うに及ばず、実際そのほかにも、石田ドラキュラの被害者が続出し始めていたからからだった。

しばらく間をおいたあと、今度は石田のほうがミサに向かってからかうような調子で問いかけた。
「それはそうとさ、ミサのほうは世田谷の魔女屋敷とやらにしばらく棲むことにしたわけかい?、ジョンにすればもずいぶんと迷惑な話にも思われるんだけど?」
「魔女屋敷にするんなら、イギリスやフランスの家のほうがずっとそれに向いてるわよ。でもね、ジョンは世田谷のいまの住まい気に入ってるみたなの。日本でもいろんな友人知人が増えてね、結構楽しくやれそうなの。いまは未亡人になっている、歌人の斉藤茂吉の奥様なんかとも結構意気投合気しちゃって、時々お付き合いしてるわよ」
「斉藤茂吉の奥さんってもうかなりのお歳なんだろうにさ……。ミサのことだから、どうせまたロクでもない誘いかけなんかたりしてるんだろう?」
「いえいえ、とんでもない!……、あの方は精神的にはとってもお若くて、私なんかよりもずっとずっと魔女の資質がおありだわ。お元気なうちにどこか海外にでもご一緒にと思ったりもしてるの」
「なるほど、大魔女様っていうわけか……、そりゃまそうだろうなあ……、大歌人斉藤茂吉の奥様を務めたくらいの女性ともなると……」

晩年になってから、高齢にもかかわらず、斉藤茂吉未亡人が南極上空飛行などをはじめとし、世界のあちこちを旅して回ったのは有名な話だが、ミサはその一端を陰でサポートした人物らの一人もであった。
「話はもとに戻るけどね、ともかくもタッツァンがゆっくりと余生を送れる場所ができてほんとによかったわ。放浪のドラキュラというのはあんまり様にならいないものね」
「ローンが焦げついたらミサに尻拭いしてもらうさ!、連帯保証人は魔女ということでね」
リビングルームの窓越しに安曇野の風景を眺めながら、しばし石田とそんなとりとめもない会話を交わしたミサは、「そのうち、また来るわね」と言い残して翌日東京へと戻っていった。

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