初期マセマティック放浪記より

197.声に出して読みたくない日本語

出版界はいまちょっとした日本語ブームのようである。街中の本屋の店頭に各種の日本語関係の新刊書が山積みになっているのは皆さんもよくご存知だろう。もちろん、その火つけ役となったのは、斉藤孝著の「声に出して読みたい日本語」という本である。この本が大評判となったために、柳の下の泥鰌(どじょう)を狙ってか、「日本人なら知っておきたい日本語」だの「常識として知っておきたい日本語」だのといった、「なんとかかんとかしたい日本語」なる類書が続々と店頭に並びはじめた。そればかりではなく、「なんとかかんとかしたい諺」、「なんとかかんとかしたい名言」といったような本までが相次いで出版されるようになってきている。

こうなってくるともう、妖しく輝く色とりどりのネオンのもつ相乗効果で次々にお客を誘い込む国内各地のラブホテル群のありようとたいした違いがなくなってくる。よくもまあそこまでやるよなあ、というおもいがするいっぽうで、いよいよそこまできたかという危惧感をも懐かなくもない。「日本語、日本語」の大合唱は、「ニッポン、ニッポン」のサッカーの大声援に通じ、やがて「日の丸万歳!、日本民族万歳!、天皇陛下万歳!」の一大唱和へと向かって熱狂の度を増していきかねない勢いさえも感じさせる。

むろん、その種の本の筆者らにそのような意図や狙いがあるというのではないのだけれども、この国には、そんな唱和の声がいま一度国中に高らかに響きわたることを希(こいねが)う人もすくなくないのは事実である。内心では「声に出して読みたい日本語」のなかに教育勅語や戦陣訓を収録してほしいとおもっている人だっているだろう。

そもそも、「声に出して読みたくない日本語」しか書けない私のような泡沫ライターが、「声に出して読みたい日本語」についてあれこれと述べるのはどうかともおもう。しかしながら、この種の本を書く人々の日本語文そのものが「声に出して読みたい日本語」であるのかどうかはまたおのずから別問題であろうから、あえてこのような駄文を綴ることを私にも許してもらうことにしたい。

おもしろいことに、「声に出して読みたい日本語」には現代作家の文章は一篇も収録されていない。同書の中に収録されているのは、三島由紀夫や川端康成以前の文章ばかりなのである。いくらなんでも現代作家の文章がすべてが「声に出して読みたくない日本語」であるわけでもないだろうから(もしもそうだとしたら、それこそ大問題である)、そうなってしまったことの裏にはそれなりのやむをえぬ事情があったに違いない。

現代作家の文章の場合には著作権や印税などの関係で引用するのが難しいとかいったような事情もあったのだろう。また、たとえ文章の収録が可能である場合でも、その文章を選択した理由やその選定法、判断基準などの是非が問われることになりかねないといったような問題もあったに違いない。むろん現代作家たちへ及ぼす直接間接の影響などについての配慮もなされたことだろう。だがそれでもなお、現代作家の文章がまったく収録されていないというのはなんとなく心にひっかかる。私なら「声に出して読みたくない日本語」と感じるようなものなどが一部に収録されているのも気にはなる。

いっぽう「声に出して読みたい日本語」の中には、少年期や青年期に暗唱し愛唱した名文や名詩、名歌、名句なども数多く収録されており、それらの名文や名詩名歌の類から私自身おおいに影響を受けたことも確かである。下手な短歌を詠んだりすることもあって、言葉のもつ韻律やリズムには常々かなりこだわるほうである。文章を書くときにも、実際に声にこそ出さないが、声に出して読んだとしてもなるべく自然な響きと流れになって聞えるようにと、心中で声を出しリズムをチェックしながら筆を進めるように心がけている。そんな場合に拠り所となっているのは青少年期に親しんだ名文や名詩名歌のリズムや響きなのだから、斉藤孝氏の主張には共感を覚えるところもすくなくない。

だが、すくなくとも私たちの世代の場合には、大自然やその中での実生活を通して得られる諸々の深い感動や喜び、悲しみ、苦しみといったようなものが先にあり、それらを表現するにはあまりに未熟な言葉しか持たない未成長な少年青年としてのおのれが先に存在していた。そんな状況の中で先人の名文や名詩名歌にめぐりあうことによって、言葉の力に心から感動し、様々な心象を的確に表現する技術にすこしづつ開眼していったものである。城跡の夜空に昇る満月の美しさを知ってはいたがその美しさを表現するすべを持たなかった田舎育ちの少年が、土井晩翠の「荒城の月」の歌詞に初めて出逢い、言葉の力に圧倒され、眼を開かれた光景を想像してもらえばよいであろう。

しかしながら、いまや時代はすっかり変わってしまったようである。自然の中での体験もなく、昔のような生活感覚もそなえていない子どもたちの心の中に、かなり時代的にはずれのある名文や名詩名歌の一端を朗読させ暗唱させてまず刷り込むことが奨励される。教育に自信を失った教師たちのある者は、これ幸いとばかりに先を競ってこの種の本を購入し、無批判なままにその手法を踏襲、教育の現場で即刻実践しようとする。何もしないよりはましであることは確かだが、そんな名文や名詩名歌を体内深くに刷り込まれた子どもたちは先々どんな自然観や生活観を形成していくのであろう。また彼らは将来どのような美しい日本語を使いこなし、どのような名文を書き綴るようになるのだろう。その子どもたちが、将来、論語読みの論語知らずにならなければよいがとおもうのはこの私だけなのだろうか。

「読書はスポーツだ」と主張する斉藤孝氏は、美しい日本語なるものを繰り返し声に出して読み、その響きを全身に叩き込むことによって、健全かつ明朗な精神の持ち主を育成することができるとも考えているようだ。時代の状況が状況であることもあって、その主張にはそれなりの説得力が感じられないこともない。すくなくとも非常手段として、あるいは試行的なプロジェクトとして一部にそのような言語教育法が存在してもよいのかもしれないとはおもう。

しかしながら、文学の世界などおいて名文や名詩名歌といわれるもののほとんどは、社会生活に適合できず深く傷ついた精神や、焦燥、不安、恐怖、懊悩、生活苦、病苦、失恋、嫉妬、敗北、服従、諦念といったような、屈曲し抑圧された人間心理のもとにおいて生み出されてきたと言ってよい。それらの名文や名詩名歌の創作者たちの大半は、けっして健全でも明朗でもなかっただろうと考えられるのだ。すくなくともそのことだけは忘れないようにしておくことが必要だろう。

「声に出して読みたくない日本語」しか書けない私は、すこしでも自己啓発をしようかとおもって書店に出かけ、「日本人なら知っておきたい日本語」や、「常識として知っておきたい日本語」、「正確に知っておきたい日本語」、「いつまでも忘れたくない日本語」などといった本を次々に手に取り立ち読みしてみた。その結果、私は自分が、日本人でもなく、常識人でもなく、さらには美しい日本語も正確な日本語も知らない人間であることを悟らされた。明らかにライターとしては失格だと言うほかない。

どうやら泡沫ライターとしての私に残された道は、「『なんとかかんとかしたい日本語』の本を書いた人たちの日本語」という本が刊行されるのを待ってそれを熟読し、おのれの教養と日本語の表現力を高めるべく、再度文章修行に勤しむことであるらしい。それにしても、「声に出して読みたい日本語」は売れに売れているそうだが、講読者のうちで実際に声に出して読んだ人はいったいどのくらいいるのであろうか……。
2002年8月21日

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