初期マセマティック放浪記より

88.種子島銃余談

フランシスコ・ザビエルがポルトガル船に乗って錦江湾に入港、鹿児島に上陸したのは、鉄砲伝来から六年後の天文十八年(一五四九年)、いまから約四百五十年前のことである。ザビエルは鹿児島をあとにすると、翌年には海路平戸に入り、さらにそれから畿内へと向かい、当時我が国の交易の中心地だった堺などを視察している。

ザビエル一行は、フィリピン方面から黒潮に乗って琉球諸島、奄美諸島沿いに北上、おそらくは種子島、屋久島近辺を通って錦江湾に入ったとおもわれる。自然に恵まれた風光明媚なこの東洋の島国にザビエルらはそれなりの感銘を覚えたことであろうが、まさかその地で大量の鉄砲を目にすることになろうとは、夢にも想っていなかったに違いない。しかも、皮肉なことに、それらの鉄砲のほとんどは、彼の乗る船の船員らと同国籍のポルトガル人がわずか六年前に種子島にもたらした鉄砲を複製したものだった。

キリスト教布教の父として仰がれるザビエルだが、彼はいっぽうで、キリスト教の国外布教活動のスポンサー的存在であったポルトガル国王に対し、日本の軍事力や経済力に関する詳細な分析レポートを送ってもいる。この国を軍事力で制圧するのは難しいという主旨のことを述べた彼のレポートの裏付けとしては、まず、当時の国内各藩の高度に組織化された武士集団の存在や商業の中心地堺などにみられる経済力の大きさなどが挙げられるだろう。

だが、そのほかに、彼が多数の鉄砲の存在とその製造現場を目のあたりにし、その技術の高さに驚かされたらしいことなども、その情勢分析に少なからぬ影響を与えたに違いないと考えられる。ザビエルのレポートの内容からは多分にそのようなことが推測できるからである。実際、ザビエルが畿内を訪ねた頃には、堺や国友周辺の刀工集団の多くは、事実上鉄砲工集団へと変容を遂げていた。

国友の刀工を中心とした鍛冶集団の場合は、種子島領主より将軍足利義晴に献上された火縄銃を借り受け、それをもとにしてほどなく大量の鉄砲製造を行うようになった。くしくも、ザビエルが鹿児島に来訪した天文十八年には、薩摩の加治木城において鉄砲合戦が行われており、また、同じ年に織田信長は国友の鉄砲工衆に五百挺の火縄銃を発注している。記録によると、鉄砲隊が出現しはじめたのもこの頃のようである。それらの動きに合わせるように、やはりこの年、堺の豪商今井宗久らも本格的な鉄砲大量生産に乗り出している。

我が国においてそれほどまでに急速に鉄砲が普及した背景には、古来の刀剣製造技術に代表されるような高品位の鋼鉄の精製技術、ならびに生産された鋼鉄の高度な精錬加工技術の存在があったとおもわれる。古代に朝鮮半島から移住してきた製鉄技術をもつ工人集団(現代風に言えば先端科学技術者集団)は、我が国で飛躍的にその技術を高度化し発展させていった。その最大の理由は、鋼鉄の精製と精錬加工に適した自然条件がたまたま我が国にはそなわっていたからである。

コークスを用いた溶鉱炉によって大量の鉄鉱石を溶かし鉄を精製する方法は、ずっとのちにヨーロッパで開発されたものである。また、鉄器を初めて用いたことで知られる古代のヒッタイト族などの場合は、その地方に多数散在している隕鉄を溶融加工したと言われている。もちろん、上質な磁鉄鉱を産出する地域では、直接にそれらを用いたりもしたらしい。しかし、古代東アジアにおいて一般的だったのは、砂鉄を大量に集めてそれから鋼鉄を精製する方法で、もちろん、朝鮮半島から渡来した昔の工人たちも「たたら製鉄」と呼ばれるこの方法を用いていた。

砂鉄を含む厚い砂層のある傾斜地に上部から大量の水を注入し砂もろとも流し出す作業を繰り返すと、比重の重い砂鉄が濃縮されたかたちで流路の底部に沈殿する。それらを集め同様の原理でさらに濃縮していき、鉄分の濃度が十分に高まったところで乾燥させるのが、たたら製鉄の第一段階である。山陰地方各地の海岸や海岸近くの山地には、とくにこの一連の作業に適した砂地や砂層と水利のよい傾斜地が数多く存在していた。要するに、原料とそれを処理する自然条件に恵まれていたわけである。この初期作業そのものも相当な自然破壊をもたらすものであったらしいが、当時の低い人口密度や自然のもつ復元力から考えて、それなりの適地が日本各地にはあったようである。もちろん、山陰地方一帯などは、地理的にみても朝鮮半島から日本海を渡って工人たちが移住してくるのに格好な場所でもあった。

しかし、「たたら製鉄」にはもうひとつ絶対に欠かせない要素があった。言うまでもなく、それは鉄を溶かすに必要な「火力」である。「たたらを踏む」という言葉の語源にもなっている「たたら」とは、鉄の精製や精錬に用いた足踏みの「大型鞴(ふいご)」のことである。どうしても想像のつかない人は、宮崎駿のアニメ作品「もののけ姫」の冒頭の場面を想い出してもらえばよいだろう。巨大な鞴(ふいご)で人工的に空気を送って火を煽り、鉄を溶融したり鍛錬したりするのに必要な高温を生み出すわけである。

もちろん、いくら大きな鞴があっても、燃料となる木材や木炭が大量になければ話にならない。濃縮した砂鉄を溶かして粗鉄をつくり、それをまた何度も高温に加熱して鍛錬をを繰り返し、刀剣の刃などに用いる玉鋼(たまはがね)を得るまでには、途方もない量の木材と労働力を必要とした。一説には、精製技術が十分に発達していなかった初期の頃には、砲丸玉ほどの量の玉鋼を精製精錬し、それらをもとにわずかな数の刀剣を造るだけでも森林何十ヘクタール分もの木材を必要としたという。したがって、たたら製鉄法による鉄器の製造には想像を絶する自然環境破壊がともなったことは間違いない。

製鉄技術をもつ工人集団が朝鮮半島から我が国に移住してきた理由の一つは、木材を切り尽くし、製鉄に必要な燃料の入手が困難になったことであると、作家の司馬遼太郎がどこかで書いていたような記憶があるが、たしかにそういった事情はあったのだろう。朝鮮半島東岸一帯は花崗岩質の固い土壌が多く、植物の繁殖にはかならずしも適してはいない。そのうえ、地理的ならびに気象学的な理由によって日本よりずっと雨量が少ないから、森林がいったん皆伐されてしまうと、その復原には途方もない時間がかかってしまう。現在も朝鮮半島東岸に樹林帯が少ないのは、古代の製鉄作業にともなう森林伐採の影響だという説もあるくらいだ。

ところが、幸いなことに、我が国には森林形成に適した豊潤な土壌と、その土壌の上に発達した豊かな森林が存在していた。しかも、その森林、とくに照葉樹の雑木林は、大量に伐採してもそんなに年月を要せずに復原する力と条件をそなえていた。そして、その森林復元力の秘密は、太平洋を流れる暖流黒潮と日本海を流れる黒潮の分流対馬海流、オホーツク気団と小笠原気団の間に形成される梅雨前線や秋雨前線、さらには夏から秋にかけて次々に日本周辺に来週する台風にあったとおもわれる。

我が国は平均日照時間もそれなりに多い上に、両海流に挟まれている関係で平均気温も高い。夏場に太平洋側から大陸に向かって吹きぬける南東の季節風は、黒潮の流れる太平洋から立ち昇る多量の水蒸気を日本の内陸へと運び、山脈にぶつかったそれらの水蒸気は大量の雨となって山野に降り注ぐ。逆に、冬場には、大陸から太平洋に向かって吹き出す冷たく乾いた北西の季節風が、日本海を吹き渡るときに対馬海流の表層から絶え間なく激しく立ち昇る水蒸気を吸収し、それを山陰や北陸、東北地方西岸側の内陸に運ぶ。もちろん、それらの水蒸気は、日本人なら誰もが知っているように大量の雪となって山野を埋め尽くす。

おまけに、梅雨前線や秋雨前線伝いに次々とやってくる移動性の低気圧や、夏から秋にかけての台風は、洪水をもたらすほどの大雨を降らせる。このような気象条件のもとでは、我が国の森林が朝鮮半島や中国大陸一帯のそれよりはるかに大きな復元力をそなえていることは当然のことだろう。いま日本各地を旅してみるとよくわかるが、安い外材の輸入や化石燃料の普及で伐採されることの少なくなった我が国の山林は、かつての濫伐状態からかなりのところまで復原を遂げつつある。むろん、ブナや檜、杉の森林を昔の自然林の状態にまで完全に復原するとなるとそう簡単にはいかないが、それでも一時期よりはるかに事態は好転している。恵まれた気象条件の国に住む我々にとっては、しごく当然のことのようにもおもわれるかもしれないが、自然条件の異なる他国の状況を考えるとこれは大変なことである。

私が子供の頃に育った鹿児島県の甑島では、当時、薪として大量の照葉樹の林を毎年のように伐採していたが、なんの手入れもせずに数年放置しておくだけで復原していたようにおもう。先年、二十数年ぶりに帰島してみたが、近年は九州の離島も化石燃料や電力に熱源を依存するようになり、それにともなって樹木の伐採はほとんど行われなくなったらしい。そのため、かつて薪の切り出しが行われていた山々の照葉樹林は、分け入るのも困難なほどに鬱蒼とした密生林に変わっていた。

たたら製鉄に絶好の自然条件をもつ我が国に移住した工人たちは、その技術にいっそうの磨きをかけるとともに、国中にその熟練の業を広めていった。やがて、国内の各地には、きわめて高品質な玉鋼を生み出し、それらをもとに、もはや芸術作品としか言いようのないような刀剣類を造る刀工たちが続々と誕生した。彼らのある者はまた、刀剣類のみでなく、鎧兜から各種の精巧な装飾品、堅牢な実用品のにいたるまでの優れた金属製品を生み出すようになっていった。

日本の場合、大乱が起こった場合でも、たいていは支配者層が入れ替わるだけで、多くの刀工をはじめとする工人たちが、伝統的な技術を絶やすことなく、むしろ発展的に代々職人技を継承していけたことも幸いであった。異民族の侵略や無差別大量殺戮などによって、各種の伝統技術が途絶えてしまうような状況にあったら、ポルトガル人がもたらした火縄銃の複製銃、さらにはその改良銃を驚くほどの短期間で製作することは不可能であったろう。

火縄銃の製造過程においてもっとも重要なのは、鋼鉄製の細長い銃筒と、日本の鉄砲工たちが「からくり」と呼んだ精巧な点火発射制御装置であるが、手本があったとはいってもそれらの主要部分を複製することはけっして容易なことではなかった。だが、幸いなことに、鉄砲伝来当時の我が国には、伝統的な刀剣造りを通じて鋼鉄の扱いに熟達していた刀工や、精巧な金属装飾品の細工技術をもつ金具師たちが少なからず存在した。彼らは、長年にわたって蓄積されてきた技術の粋を尽して、それらの難題解決に見事成功したのである。裏を返せば、当時の我が国には、伝来の鉄砲の構造を解析し、短期のうちにその複製を生み出すだけの高度な技術力がすでにそなわっていたのだった。

鉄砲伝来当時、我が国には硬い鋼鉄の棒に旋盤で銃穴をあける技術はなかったが、玉鋼を扱い馴れた刀工たちは、特殊な方法を案出し、その問題を解決した。まず、真金というまるく細長い心棒をつくり、その上に瓦金という鋼板を筒状にまるめたものを巻きつけ、何度も焼きを入れて鍛錬する。瓦金の鍛錬が終わると、さらに瓦金の上から細長い鋼板を螺旋状にぐるぐると二重に巻きつけ、またもや焼入れと鍛錬を再三再四繰り返す。そして最後に心棒の真金を抜き取り、先目当(照準)をつけて銃筒を完成する。それが刀工たちの考えた銃筒の製造法だった。

「からくり」、すなわち点火発射制御装置については、いったんその構造と原理が理解されると、熟練した金具師たちにとってその製作はそう難しいことではなかったようである。彼らは、真鍮と鉄とを素材にして、外来の火縄銃などのものよりもずっと優れた我が国独自の「からくり」を次々に創り出した。雨にも耐え得る着火装置や暴発を防ぐ安全装置などの工夫には目を見張らされるものがある。銃床、床尾、弾丸、火薬といったものもむろん重要ではあったが、それらのものの製作には、熟練職人たちはほとんど苦労しなかったようである。

種子島に鉄砲が伝来してからちょうど十年後の一五五三年には国内各地で大量の鉄砲が製造されるようになり、この年、織田信長は本格的な鉄砲隊を編成した。また、鉄砲の普及とともに根来流、稲富流をはじめとする鉄砲術の各流派が生まれ、鳥射術や曲射術(放物線軌道によって遠方の的を狙う方法)などのような高度な射撃術も編み出されはじめたようである。熟達者になると、丸い鉛玉を撃ち出す初期の火縄銃でも二、三百メートル離れた的を正確に撃ち抜くことができたとも記録されているから、鉄砲術はわずか十年前ほどで各段の進歩を遂げていたことになる。

ところで、このように短期間で驚くほどの速度で国内に広まった鉄砲だが、それらが陰で果たした役割というものについては、私は歴史ではほとんど教わった記憶がなかったし、自分自信でそれについて深く考えてみる機会もなかった。だが、たまたま松本城鉄砲蔵で目にした資料などをもとにあれこれと想いをめぐらすうちに、歴史的にみて鉄砲には一つの重要なはたらきがあったのではないかと考えるようになった。
2000年6月28日

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