初期マセマティック放浪記より

79.人生模様ジグソーパズル

「これからどちらへ?」――信州穂高駅前で観光案内板を眺めていた私は、いきなり肩ごしにそう声をかけられた。「はあ?」と戸惑い気味に振り返ると、見知らぬ老人がいたずらっぽい笑みを浮かべて立っているではないか。一瞬言葉に窮した私に向かって、謎の老人は、「昨日もあなたとお会いしましたよ」と追い打ちをかけてきた。生まれたばかりの樹々の緑が西陽をふくんでやわらかに輝く、ある晩春の夕刻のことである。

前日、私は、穂高駅に近い碌山美術館を訪ねたばかりだった。どうやら、私が美術館の中庭のベンチにすわり、深い想いに耽っていたとき、老人は客人を伴ってその場を通り合わせ、私の姿を記憶に留めたものらしい。よほど情けない顔でもしていたのだろう。
遠来の客をいま見送ったばかりだが、こんな日の夜はいささか淋しい。こういうときには、一夜の宿を供するふりをして道に迷ったうまそうな旅人をとって食うにかぎる――安達ケ原の黒塚伝説を想わせるそんな意味の言葉を吐いた老人は、私の眼を見てにやりと笑った。相手が妖艶な美女にでも化けて誘惑してくれなかったのは残念だったが、こちらも人を食ってきた身、この際、人に食われてみるのも悪くないと、私はその誘いにあえて乗ることにした。

山裾の深い林の中にある洋風の屋敷には、見るからに異様な気配が立ち込めていた。老人は、上質の黒毛布を二つ折りにして仕立てたという手製のドラキュラ風マントに着替えてふいに現れ、私の背筋をぞくりとさせた。遠くでフクロウが鳴くというおまけまでついた、この現代の魔宮から無事生還を果たすには、こちらも相手を化かし返すしかないようだった。

我々は夜を徹して奇妙な対話を繰り広げた。嘘のなかの嘘にもみえて、この世でいちばんの真実のような、大詐欺師同士の対決に似て、実は聖なる二人の高談のような、それはなんとも不思議な歓談だった。

生涯に四十余の職業を体験したという老人は、己の人生を系統だてて語る好みはないと嘯き、どうしても自分の過去に興味があるというのなら、ジグソーパズルを解くように様々な話の断片を繋ぎ合わせ、勝手に全貌をつかめばよいと笑って、私を煙に巻いた。東京に戻ったあと、私は、お礼の意味を込めて、次のような一篇の戯詩を書き送った。

風の対話

別々のところから旅してきた
透明な風と風の出逢いのように
光を発して瞬時にお互いの体を通り抜け
そしてすぐさま別れました

嘘のなかの嘘のような
真実のなかの真実のような
古くからある話のような
誰も知らない奇談のような
大詐欺師同士の対決のような
聖なる二人の高談のような
それは不思議な出来事でした

どこかで聞いた小噺のような
初めて耳にする物語のような
リアリティなど皆無のような
しかしなぜか信じられるような
モームの語る世界のような
モームその人のおとぼけのような
それは奇妙な対話でした。

手紙を投函しながら、もしかしたら、もうあの屋敷は影も形もなくなっているかもしれないという想像をめぐらせたりもしたが、幸いその手紙は無事老人の手元に届いたようだった。それからというもの、私は、老人お気に入りの十三日の金曜日を選んでは穂高に出かけ、ジグソーパズルに挑戦した。その結果浮かび上がった老人の人生は破天荒そのものだった。

旧制福岡高校卒業後に上京、本郷赤門前のカフェバーのボーイを振り出しに、貨物船の船員、さらには中国の青島で香具師の右腕を務めた若者は、やがて大連に移って同地の外国銀行の有能な行員となり、ついには上海に出て日本語学校を開校、一躍その地の名士となる。かつてミッキーカーチス氏の母堂はその日本語学校の教師を務めておられたという。

敗戦後いったん帰国した彼は、天運と才覚の赴くままに戦後初の民間日本人として渡英、BBC放送日本語部のアナウンサー兼放送記者となって「ロンドン今日此の頃」という番組を担当するようになる。1953年には、エリザベス女王の戴冠式出席のため訪英した皇太子(現天皇)をNHKから派遣された藤倉修一らと共にサザンプトン港に出迎え、各地を案内するとともに、戴冠式前後のロンドンの様子を日本国民に伝えるため連日のようにマイクをとった。

のちにBBC放送を辞して帰国した彼は、松本で英会話学校を開くかたわたら、シャーロックホームズをはじめとする英米文学の陰の名訳者として、大久保康雄をはじめとする著名な翻訳家や英文学者たちのゴーストライターを演じもした。すでに齢八十を超えたこの石田達夫という老人の数奇な生涯を、私はいま少しずつ筆に托しはじめたところである。
2000年4月26日

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