初期マセマティック放浪記より

183.この写真の人物は?

定塚さんの六十年の軌跡を辿るに先立って、添付されていた私信に目を通していると、最後のほうに――自分史には断りもせず、写真と文章、短歌を勝手に載せさせていただきました。お許し下さい――と書かれていた。たぶん、事前に通告すると私のほうが尻込みしてしまいかねないと考えたのだろう、定塚さんは事後承諾を求める手にでたのだった。

エッ、そんな?――と思いながら慌ててパラパラとページをめくってみると、なるほど、あちこちに「本田君」という名前が登場しているではないか。あれあれと思いながら、定塚さんが二十七歳だった頃の足跡を記したページを開いた私は、しばし絶句したまま二枚の写真とその脇の一文に見入った。

――結婚式には本田君が東京から来てくれ、非常に感激した。実際の面会はこの時が初めてあったが、幾寅駅で一見してすぐ本田君と認識できた。この日(十日)は、新居となる公営住宅にて二人で寝食を共にし、これまでの話に花が咲いた。十一日の午前中は、車で新得の花見に行ってきた――
  そう言えば、定塚さんは結婚式当日だというのに、そ日の午前中に自ら車のハンドルを握って、狩勝峠やさらにそのむこう側にある新得まで私を案内してくれた。結婚式の本番を午後に控えなにかと準備もあるだろうにと、こちらは気が気でなかったのだが、なにも心配することはないからと言って、定塚さんは私のために貴重な時間を割いてくれたのだった。

定塚さんの文章そのものはなんとも感慨深いものだったが、問題はその左手にある二枚の写真のほうだった。なんと、一枚の写真にうつる詰襟学生服姿の人物は十八歳の時の私自身にほかならなかった。しかも、「大学受験時の本田成親君」と説明文まで付記されている。大学受験時に撮った入試願書用写真を当時定塚さんに送っていたらしいのだが、そんな写真などもう私の手元には残っていない。なんでまた今ごろこんな写真をと内心赤面する思いに駆られながらも、私は、別人とも見える若々しいその過去の幻影をしばらく凝視し続けた。いかにも純真そうなその細面の姿には、中年暴走族を自称するいまの私のふてぶてしさなど微塵も感じられないのだった。

もう一枚の写真には「結婚式当日、本田君と(新得山)」という説明がついていた。桜の木と車をバックにして二人並んで撮った写真だが、定塚さんも私も理想に燃える青年期の真っ盛りという感じで、理想の燃え滓を燻らせて生きるいまとなっては、これまた気恥ずかしいことこのうえなかった。せめてもの救いは、これらの写真を目にするであろうのが定塚さん側の関係者に限られるであろうことだった。

最近結婚したばかりの娘がたまたま家に戻ってきていて、私の脇から問題の写真を覗き込みながらチャチャを入れてきた。
「へーっ、誰かと思ったら、これがねぇ……、いまよりずっとリコウそうじゃん!」
「そんじゃ、いまはアホかよ?」
「まあ、ホアくらいのところにしておくかな……」
「なんだそりゃ……じゃ、おまえはホアの娘だから、やっぱりアホだよな!」
「ドの字がつかないだけでも私に感謝しないといけないじゃない?」
「ドの字があと三つくらいはつかんと親としては納得がいかんぞ!」

思いもかけぬ写真の登場に半ばうろたえながら、私は娘としばしそんなたわいもない言葉の応酬を繰り返す有様だった。

定塚さんの自分史のさらにあとのほうには、以前に北海道を旅したとき下手な字で書き贈った短歌四首のコピーのほか、拙著、「星闇の旅路」(自由国民社)の中の「富良野の友」と「変貌していた富良野」いう文章までが収録されていた。定塚さんと私との出逢いの時から現在に至るまでの二人の軌跡を手短かにまとめた作品で、友の退職を記念する自分史の中に紹介されるほど出来のよいしろものではなかったが、こちらの事後承諾を前提とした旧友の仕儀ということになるとやむをえないことではあった。

はじめ英語の教師として教壇に立つことの多かった定塚さんは、やがて音楽、なかでも声楽の道に目覚め、ひとかたならぬ研鑽を積んだ末に、音楽の教師として全道に広く知られる存在となっていった。そして、1984年の旭川混成合唱団のカナダ演奏旅行を皮切りに、1987年の旭川市民合唱団ヨーロッパ演奏旅行、1990年のソ連・東欧演奏旅行、1993年の日米合唱交流使節団(北海道民合唱団)のアメリカ演奏旅行、1996年のトゥイマーダ旭川男声合唱団ハバロフスク演奏旅行、2001年の日本・イタリア合唱交流使節団イタリア演奏旅行と、数々の合唱団海外公演の実現に尽力する。

なかでもソ連・東欧公演、アメリカ公演、ハバロフスク公演などにおいては合唱団の指導者としばかりでなく事務局長としても辣腕を揮い、とくにアメリカ演奏旅行においては、国連本部での公演をはじめとするアメリカ各地での数々の公演を大成功に導いた。それらについての克明な活動記録なども定塚さんの自分史に収められていたが、あらためてその足跡の大きさに心うたれる思いでもあった。

それらの記録に目を通すうちに、私は、日米合唱交流使節団アメリカ派遣の前年の秋、東京渋谷のあるお店で、声楽の指導者として世界的に高名なロシアのイエルマコーバ女史を囲み、定塚さんや、やはり北海道の著名な音楽家万城目さんなどとなごやかに歓談したときのことを想い出した。その席で久々に対面した定塚さんは、ずいぶんとその言動に貫禄がつき、それに比例するかのように肉付きも口の悪さも相当なものになっていた。

だが、たゆまぬ努力の結果として、広い世界を駆けめぐるという少年の頃からの夢を果たし、さらにはその夢をより大きく実りあるものに育てて若い世代に伝え託そうと尽力する姿に、私は内心すくなからぬ敬意を覚えたものだった。「超規格外の少年」になり果ててはいても、定塚さんの心の本質そのものは、我々が少年であった頃とすこしも変わることなく純粋であり真摯であることを知って、私は心底嬉しかったものである。

肉付きと貫禄では定塚さんに何歩も譲りはするものの、私もまた自らの毒舌にはずいぶんと磨きをかけ、内向的で赤面症の傾向があった幼い日の姿から大きく脱皮することができた。脱皮し過ぎて周辺の人々に思わぬ迷惑をかけているのではないかと反省もしている昨今だが、一方向にしか時間の流れないこの人生においては、脱ぎ捨てた殻を探し出し纏いなおすことなどいまさらできるはずもない。

定塚さんとは選んだ道も方法もまるで異なりはしたが、私のほうは私なりのやりかたで、かつて離島の磯辺で遠く夢見た世界の一部くらいは現実のものとして自らの足で踏みしめることができるようになった。ささやかではあるが、私たち二人は、ともかくも、少年の頃に抱いたひそやかな想いのいくらかを果たすことだけはできた。紆余曲折はあったにしても、夢を夢のままで終わらせなかったという意味においては、お互い恵まれていたと言ってもよいだろう。

自分史とともに贈られた二枚のCDの一枚は、教職退職記念として特別に作成された「定塚信男歌曲集」であった。シューマンやシューベルとの歌曲を高らかに原語で歌いあげるバリトンの声にうっとりとしながら、私はさらに定塚さんの教育者としての足跡を追い続けた。自分史の中には教育者として関わってきた生徒たちの深い想いのこもる手記の数々や、それに対する定塚さんの感想なども収録されていて、興味深くもあり、また感慨深くもあった。そしてまた、さらにいまひとつ、定塚さんのすぐれた教育者としての一面を窺い知ることのできる資料を、私はその克明な自分史の中に見出すことができたのだった。
2002年5月15日

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