初期マセマティック放浪記より

40.ある沖縄の想い出(12) 物言わぬ無数の魂に捧ぐ

「いくらその場の雰囲気に誘われてとはいっても、夕刻に一人でそんなところを訪ねるなんて物好きな!」と言われれば、たしかにそうかもしれない。だが、生来、私は野次馬根性の塊みたいな人間だし、子供の頃から人が嫌がるようなところを夜遅く歩くのも平気だった。それに、夕刻とはいってもまだあたりはかなり明るかった。だから、沖縄守備軍最後の司令部が置かれ、牛島司令官と長参謀総長が自決したというその洞窟をこの目で見てみたいという意識が潜在的に働いていたとしてもおかしくはない。

問題の洞窟は、摩文仁ノ丘の頂と崖下の海岸とのちょうど中間のところにあった。ぽっかりと開いた大きな洞口付近には、牛島満司令官と長勇参謀総長が昭和二十年六月二十三日未明にこの場所で自決したことを述べた一文と、牛島中将の辞世の句とを記した碑が立っていた。「陸軍大将牛島満」と表記されているところをみると、死後に「大将」への昇格がなされたのだろう。司令官や参謀総長は自決後も辞世の句などの書かれた碑などを立てて霊を弔ってもらい、残された遺族への年金交付額などにも関係する階級特進の配慮がなされたからよいようなものの、なんの見返りもないままに戦場の露と消え、遺骨さえも行方のわからなくなった無名戦士や一般島民の霊などは永遠に浮かばれないだろう。

洞内の入り口に近い部分の壁面や床面のあちこちが焼け黒ずんで炭化したような感じになっているのは、最後の戦闘の際に米軍から火焔放射器や爆雷による攻撃を受けた名なのかもしれない。暗い洞穴の奥にも入ってみたが、一見したところではそんなに奥行きのある感じではなかった。もっとも、洞口一帯は米軍の猛烈な爆撃によって崩壊変形したというから、当時はもっと深い洞になっていたのかもしれないし、洞内の闇に邪魔されなければ、かなり深くまで坑道が続いているのを確認できたのかもしれない。

目が徐々に洞内の暗さになれてくるにつれて、ぼんやりとではあるが洞窟壁面や床面の様子がわかるようにはなってきた。あちこちに白っぽい岩塊のかけらのようなものが見えるのは、隆起珊瑚礁の一部がそのまま残ったものか、さもなければそれらが石灰岩化したものであろうと推測された。場所が場所なだけに、まるで洞内のあちこちに人骨の断片が散らばっているかのような錯覚にとらわれたほどだった。

米軍が摩文仁ノ丘の頂へと進出し、守備軍司令部のあるこの洞窟へと迫ってくる段階になると、守備兵が洞窟近くの水場まで炊事に行くだけでも、五人中二人は銃撃を受けて死亡する状況になったという。炊事当番の兵士たちは、それでも何組かに分かれて命がけの炊事に出かけたが、それはまるで、ロシアンルーレット、すなわち、リボルバー銃による死のルーレットそのままの行為であった。もっとも、爆雷を抱えて敵陣へ突入させられた多数の学徒動員兵や下級兵士に較べれば彼らのほうがまだしもましだったかもしれない。肉弾特攻兵や特別斬り込み隊員は、「死のルーレットの恩恵」にすら浴することが許されなかったからである。
  そんな切迫した状況のもとにあって、この洞窟内においては、八原高級参謀と砂野砲兵隊高級部員の間で、牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りが話し合われていたようである。その結果、二人が洞窟内で自決すると、珊瑚岩が固くて地中に埋めることができないし、米軍にも発見されやすいうえ、腐爛した遺体が洞中に残るのは不様だから、摩文仁の断崖上で自決してもらい、遺骸はそのまま断崖直下の海中に投じて水葬にしたほうがよいということになったらしい。

八原と砂野の両者は残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて布陣している米軍に一斉突撃を敢行させ、その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きを立てた。そして、六月二十二日夜半摩文仁ノ丘頂上を奪回、二十三日未明にそこで両将軍の自決が行われることになった。長さ三十センチ、幅十センチの二枚の板で作った二人の墓標も用意されたという。

しかし、勝利を目前にした米軍の反撃は凄まじく、摩文仁岳山頂の奪回は失敗した。そのため、牛島、長の二人は、やむなくしてこの洞窟入口付近で相次いで自決した。六月二十三日午前四時三十分のことだったと伝えられているが、正確な自決の日時、場所、方法などについては様々な説があり、現在でも真相は明らかになっていない。現場にいたごく一部の者にしかわからない相当複雑な事情があったのではないかと推察される。

一説によると、牛島満司令官は、自決の直前に「沖縄の人たちは私を恨みに思っているに違いない」と述べたというが、それが事実だとすれば、その言葉の背景にあった思いとは、いったいどんなものだったのだろう。その程度の申し開きで沖縄の人々の怨念が晴らされるものではいことは、牛島司令官自身がもっともよく自覚していたはずである。もしもそうでなかったとすれば、問題外と言うほかないが、ともかく、こうして悲惨を極めた沖縄戦は終結をみたのだった。

司令部のあった洞窟を出た私は、下へと続く急な隘路をたどって海岸へと降りてみることにした。細い道の両側に広がる斜面の深い藪や亜熱帯ジャングルの土中にはいまだに数知れぬ遺骨の断片が埋もれていて、現在でも土を掘り返すとそれらの一部が見つかるという話は聞いていたが、なるほど思わせる雰囲気があたり一帯に漂っている感じだった。崖下の海岸は直径二~三メートルほどの大石や大小の岩々の立ち並ぶ荒磯になっていて、南に開けた海上からは強風に煽られるようにして激しく波が打ち寄せていた。

前方にはひときわ高く切り立つ断崖があって、その断崖に遮られるかたちで私の立つ荒磯は行き止まりになっていた。摩文仁ノ丘の南端にそびえる一連の断崖を、摩文仁沖一帯の海上に展開していた米艦の兵士たちは「自殺断崖」と呼んだという。米軍に追い詰められた多数の沖縄島民や敗残兵たちは、次々にこの摩文仁ノ丘の断崖上から海中や崖下の岩場に向かって身を投げた。目前に展開する理解を超えた凄惨な光景に、艦上の米兵たちは言葉を失い唯呆然とするばかりであったと伝えられている。

私はごつごつした大小の岩を伝い歩いて断崖の真下まで近づいてみた。断崖の海に面した部分やその向こう側の様子がどうなっているかはわからなかったが、私の立つ側の足元は角張った大小の岩だらけであった。垂直にそびえる断崖上からこの岩場に向かって飛び降りたらひとたまりもなかったろう。昭和二十年六月二十日前後には、この一帯の岩々は一面朱に染まっていたに違いない。足下の巨岩群が重なってつくる暗く深い隙間の底には、いまもなお無数の遺骨が人知れず眠り埋もれているような気がしてなかった。

遠い日の悲劇を偲びながら、頭上の断崖をじっと見上げていると、突然、私は、全身がある種の気配に包み込まれるような、異様きわまりない感覚に襲われた。身体の奥がぞくっと震え、鳥肌がたつような戦慄感とでも言い表わしたほうがよかったかもしれない。霊気を感じたという表現がもっとも相応しいのは、たぶん、こんな時だろう。私は、自分の心を落ち着けるために、子供の頃から諳(そら)んじている般若心経の一節を反射的に胸の奥で呟いた。

子供の頃に般若心経を憶えたのは、たわいもないことがきっかけだった。ラフカディオ・ハーンの「耳無し芳一」を読んでいるうちに、その身体に書かれたお経の文字が般若心経のものだったということを知った。野次馬精神に誘われるままに、仏壇の前にあった経本の一つを持ち出して調べてみると、たまたまそれが読ガナのふられた般若心経だったのである。意味もわからぬままにその経文を暗記したことは言うまでもない。この経文のもつ深い意味を学んだのはずっとのちのことになるが、そんな般若心経に意外なところでお世話になったというわけだった。

人間の心というものは厄介なものである。特殊な緊張状況や異様な雰囲気の中に置かれたりすると、五感が異常な興奮と混乱を来たし、その結果、平静を失った人の心は幻覚や幻聴の虜になる。ただ、たとえそれらが空なる存在であったとしても、当人にはまぎれもない実在に感じられるわけだから、話はけっして容易でない。

どう見ても私は信心深い人間ではないが、この世の現象界を構成する五蘊(ごうん)、すなわち、色(物質及び肉体)、受(感覚や知覚)、想(各種概念とその構成体)、行(記憶や意志)、識(純粋な意識)の五つの存在からなる集合体はみな空であり、実体がないと説き、究極的にはその教義そのものも空であるとする般若心経の教えは好きである。裏を返せば、信心深い人間でないからこそ、般若心経の教えが性に合っているのかもしれない。それに般若心経は短くて覚えやすいのがなによりもよい。人の心に異常な興奮や妄想が生じたときには、この心経はトランキライザーとしての効き目をもつ。

インド古来のそんな精神安定剤(?)のお蔭で再び冷静さを取り戻した私は、己の心が一瞬感じた幻を、気が向いたときなどに詠む我流の歌に托したあと、夕暮れの迫る摩文仁の断崖をあとにした。たぶん、この摩文仁ノ丘一帯で何かに憑かれたように死んでいった人々が見ていたものも、そして彼らが懸命に守ろうとしたものも、「国体」という仮面をかぶったある種の悪霊だったに違いないと思いつつ……。

忍び寄る霊気に詠う心萎え震えて立てり摩文仁の崖に

大駐車場に戻った私は、大急ぎで慰霊碑「ひめゆりの塔」の建つ地点へと車を走らせた。あたりは夕闇に包まれはじめていたので、ひめゆりの塔やひめゆり部隊の惨劇の場となった地下壕の周辺には人影は見あたらなかった。壕の中に立ち入ることはできなかったので、足元から三、四メートルの深さのところにある洞口を外から眺めおろしただけだったが、何度となく映画や小説の舞台にもなったところだけに、一人そこに立つ感慨はひとしおだった。

沖縄戦における悲劇的な集団死は島内のいたるところで起こっており、数のうえだけのことならひめゆり部隊のそれは死者数全体のごく一部にすぎない。しかし、未来ある若い女子学生の悲壮な集団死であっただけに当時の社会に与えた衝撃は大きく、その悲劇はのちの世まで連綿と語り継がれるところとなった。

従軍看護婦として陸軍病院の外科に配属された沖縄県立第一高女と沖縄女子師範の生徒たちは、ひめゆり部隊を構成し、五月下旬この摩文仁伊原の地下壕にやってきた。しかしながら、六月十八日までにこの壕の周辺は完全に米軍に制圧され、野戦病院は解散のやむなきに至った。ところが、不運にもその命令の伝達が十分に行なわれなかったために、壕内のひめゆり部隊看護婦たちは孤立したまま脱出不可能になったのだった。

状況を察知した米軍は、攻撃を仕掛ける前に何度も洞外に出てくるよう説得工作を試みたが、その説得が功を奏することはついになかった。当時十四、五歳の純真無垢な少女たちは、捕虜になると米兵に暴行され殺されるという守備軍の宣伝を真にうけ、最後まで壕の奥に立てこもりつづけたからである。

米軍によって最終的な攻撃が行われる直前に水汲みに壕外に出た三人と、米軍の攻撃後奇跡的に助かった二人の計五人をのぞく、女子学生一八七名と教師十三名が非業の死を遂げた。伝えられるところによると、女学生たちは白衣を制服に着替え、校歌を歌いながら死んでいったのだという。

これまでと信じて散りし乙女らを同胞(とも)よ愚かと嗤(わら)いたもうな

深まる夕闇のなかで遠い日の惨劇の有様を想像しながら、彼女たちの霊にそんなささやかな鎮魂歌を献げた私は、静かにその場を立ち去った。

もうあたりは薄暗くなりかけていたが、ここまで来たついでなので、私は沖縄本島最南端の荒崎に近いところにある魂魄の塔を訪ねてみることにした。道が細く、かなりわかりにくいところではあったが、「魂魄の塔」のある場所には無事たどりつくことができた。その付近には魂魄の塔のほかに、北霊の塔、島根の塔、東京の塔などの慰霊碑も建てられていた。この一帯は摩文仁ノ丘と並んで沖縄戦最後の激戦地となったところである。戦後この地域に入植した島民たちは山野や畑地に散らばり放置されたままの遺骨を集めて合祀し、慰霊碑「魂魄の塔」を建てたのだった。集められた遺体の数は三万五千体にも及んだというから、いかに悲惨な戦いであったかが想像される。

魂魄の塔の隣には「北霊の塔」が建っていた。沖縄戦における戦死者の出身地は日本の全都道府県に及んだが、そのうちでもっとも多数を占めたのは北海道の出身者たちであった。一万四千名を超えるそれらの戦没者の霊を弔うために、戦後まもなく北海道の遺族たちの手によってこの塔は建てられた。「島根の塔」や「東京の塔」も同様の背景をもつ慰霊碑である。

宵闇の深まる喜屋武岬周辺を一通り巡り終えたあと、私は漁業で有名な糸満を抜けて首里のグランド・キャッスル・ホテルへと戻ることにした。糸満は良港に恵まれ、その地に住む人々の先祖たちは古来独特の漁法で生計を立ててきた。昔の糸満の漁夫たちは、サバニと呼ばれる長さ七~八メートルの船に乗って東南アジアからインド洋にまで出かけたのだという。追いこみ漁や底曳き網、一本釣り、建て網など、糸満の漁夫たちの用いた様々な漁法は、日本国内の各地にも伝え広げられていった。糸満市内をゆっくりめぐり、南海交易や漁労関係の古い資料史跡に接したいという思いはあったが、糸満市街にさしかかったときにはすでに夜になっていたので、それだけは断念せざるを得なかった。

翌日は沖縄を離れる日にあたっていたが、この日の午前中、私は那覇の少し南にある豊見城の旧海軍司令部壕をた訪ねてみた。那覇市街やその沖合いの海を見渡す高台にあるこの地下壕内には、旧日本海軍最後の司令部が置かれていた。摩文仁の守備軍司令部陥落に十日ほど先立つ、昭和二十年六月十三日までに、大田実少将率いる約四千名の将兵はこの壕内で戦死を遂げた。地下三十メートルのところに掘られた司令部壕は、全長千五百メートルに及ぶ大規模なもので、海軍司令室、作戦室、幕僚室、信号室、将校室などが往時のように復元されていた。ひんやりとした空気の漂う壕内の壁面には当時のツルハシや鍬の跡が生々しく残り、その痕跡を仲立ちにして、最期の瞬間を前にした将兵たちの低いざわめきがいまにも耳元に響いてきそうだった。

旧海軍司令部のあった小禄半島には、約一万人の海軍部隊将兵が防衛要員として配されてはいたが、正規の海軍軍人はその三分の一程度に過ぎず、残りは現地召集の防衛隊員からなっていた。おまけに、正規軍人のうち地上戦の実地訓練を受けていたのはわずか三百名程度で、沖縄戦が始まるまで実戦経験は皆無だった。そのため、守備軍首脳は六月に入ってすぐに海軍部隊を南部へ後退させる予定でいたが、連絡の行き違いや両者の思惑の違いなどもあって、海軍部隊はそれより早い五月二十六日に砲台や機関銃座を爆破し南部へと撤退してしまった。

それを知った守備軍首脳は、対応に苦慮したあと、結局、大田海軍司令官を含む海軍部隊に対して小禄の海軍陣地へと復帰するよう厳命した。すでに重火器類を破壊してしまっていたため、小禄へ戻った海軍部隊は使用不能の飛行機から機関銃だけを取り外し応戦するという苦肉の策をとったりもしたが、強力な火器で迫る米軍に抗することは土台無理な話だった。

六月五日になって守備軍首脳は大田海軍司令官に南部への撤退を促すが、すでにその時には海軍部隊は米軍海兵師団によって完全に包囲され、脱出は不可能な状況になっていた。大田司令官は同日、守備軍司令官に電信を送り、「海軍部隊はすでに完全包囲され撤退は不可能なため、小禄地区にで最後まで戦う」と通告した。

玉砕を覚悟した大田司令官は、翌日の晩、海軍次官宛に有名な訣別の電報を送った。「沖縄島ニ敵ガ攻略ヲ開始以来、陸海軍ハ防衛戦闘ニ専念シテ県民ニ関シテハホトンド顧ミル暇ナキナリ」という文に始まるその電文には、沖縄県民が戦火で家屋財産すべてを焼失したにもかかわらず、婦女子までが率先して守備軍に献身し、砲弾運搬作業のほか挺身斬り込み隊にまで参加を申し出る者もあったと書かれている。そして、電文の最後は「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれていた。

米軍の記録によると、陸上の戦闘に不慣れなうえに重火器も失った非力な部隊であったにもかかわらず、海軍部隊は米軍の集中砲火をものともせず、最後まで頑強に抵抗した。業を煮やした第六海兵師団のシェファード少将は、配下の将兵に六月十一日午前七時三十分を期して総攻撃をかけるように厳命、戦車部隊を先頭に立てて大攻勢に出た。

その晩のこと、大田司令官は、摩文仁の牛島守備軍司令官に宛てて、「敵戦車群ハ、ワガ司令部洞窟を攻撃中ナリ。海軍根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス。従前ノ交誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と永訣の打電をした。実際にはそれから二十四時間ほどのちの六月十三日午前零時頃、大田少将以下の海軍部隊首脳は自刃して果てた。米第六海兵師団の兵士たちは、二日後の六月十五日、海軍司令部地下壕の通路の一隅で大田司令官と五人の参謀が座布団を敷いて自決しているのを発見した。いずれも喉を掻き切って、大の字になって死んでいたという。海軍部隊はこうしてほぼ全滅したが、米軍側もこの戦闘において千数百人に及ぶ死傷者をだし、その損害は甚大であったという。

大田海軍司令官の最期はよく知られるところだが、勝ち目のない悲惨な戦闘を続けることの無意味さを悟っていた軍人も一部にはいたようである。もはや全軍玉砕が確実になった六月十五日の午後、第八十九歩兵連隊長金山均大佐は、連隊司令部に部下の将兵を集めた。そして、上級師団首脳は翌朝を期して総攻撃の敢行を命じるつもりだが、百人足らずの兵士しか残っていない自分の連隊が組織的な戦闘を遂行することは不可能だから命令には従えないと断じ、ガソリンをかけて連隊旗を焼き連隊を解散した。そのあと彼は、部下の将兵に対し、いたずらに死ぬことのないように命じ、本土に帰還したいものはそうしてよいと述べ、自らは割腹自殺を遂げたという。その介錯をした連隊副官の佐藤大尉もその直後に拳銃で自決した。

最後まで無駄な戦いを続けることを命じたうえに、自らは生き残った上官もかなりの数いたという守備軍首脳部の有様に比べて、彼らの毅然たる姿はなんとも胸に迫るものがあると言わざるを得ない。

複雑な思いにひたりながら旧海軍壕をあとにした私は、午後の羽田行きの飛行機に乗るため、レンタカーを返却し那覇空港へと向かうことにした。トヨタレンタカーの営業所に車を返却すると、営業所の人が車で空港まで運んでくれるという。運転手している人は違ったが、なんと私が乗せられた車は、沖縄到着の日に乗ったあのワゴン車と同じものだった。この車に乗ったことがきっかけとなって、私は初めに述べたような貴重な体験を積むことができた。またそのお蔭で、この時の沖縄の旅は私にとって生涯忘れがたいものとなった。車に向かってお礼を述べるのも変な話だったが、もし車に言葉がわかるなら、心からそうしたい気分だった。

那覇空港で車を降りるとき、私は片手でそっとそのワゴンの車体を撫でた。かなり古びた車ではあったが、明るく輝く沖縄の午後の太陽の光のもとで、その白い車体は誇らしげに輝いているように見えた。
              (沖縄の部 了)
1999年7月28日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.