初期マセマティック放浪記より

103.大三島から愛媛県広見町へ

<大山祇神社と文化財>

大山祇神社の拝殿とその奥にある本殿は、さすがに歴史の重みを感じさせる壮麗な造りになっていた。屋は檜皮葺き、建物の外側が丹塗りの本殿は三間社流造りと呼ばれる構造になっていて、この種の造りをもつ神社の代表格といってよい。もともとの社殿は元享二年(一三二二年)に兵火にかかって焼失し、天授四年(一三七八年)から百年ほどかけて徐々に再建されたのが現在の社殿であるという。祭神は大山積(祇)大神一座とかいって天照大神の兄神筋にあたるのだそうだが、そのへんのややこしい話になると、我々は「はいそうでございますか」と他人事のように呟きながら半ば思考停止状態に陥るしかない。

信仰心薄い身にもかかわらず一応拝殿前で表敬の礼をすませたあと、内庭の左手の門を通って神社本殿の裏側にまわってみた。日本総鎮守と謳うからには立派な鎮守の森があるのだろうと思ったからである。予想にたがわず神社の裏手には見事な鎮守の森が広がっていた。天を突かんばかりの楠の大木が多数立ち並び、俺が盟主だと言わんばかりに互いにその存在を競い誇示し合っている。また、それらの樹間は各種の照葉樹系潅木の深い茂みになっている。

たしかにそこには、近代化した社会からは忘れられて久しい、ある種の不思議な気配の漂う空間が存在していた。そして、まるでその気配にいざなわれでもするかのようにして、私の脳裏には幼少期に駆け巡った村の八幡神社の境内やそれを取り囲むようにして聳える楠、白樫、タブ、アコウなどの大木の想い出が甦ってきた。思えば、それらの木々によじ登ったり、隠れたり、雨宿りしたり、木の実をもぎ取ったりして過ごすなかで私の感性や探究心は育み培われてきたのである。

鎮守の森を包み流れる緑の息吹にしばし身を委ねたあと、我々は、境内右手脇にある紫陽殿、国宝館、海事博物館の三館をめぐってみることにした。天蓋のある通路でつながれ一続きになっている紫陽殿と国宝館には、国宝ならびに重要文化財の鎧、兜、刀剣類などがおびただしい数展示されていた。源義経奉納の赤糸威鎧、源頼朝奉納の紫綾威鎧、河野通信奉納の紺糸威鎧兜、護良親王奉納の牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵といった武具類はすべて国宝に指定されている。時を経て色こそ褪せてきているが、素人目にも素晴らしいそれらの精巧な造りはなどさすがに国宝ならではのことだと思われた。武具ではないが、斎明天皇が奉納したという同じく国宝の禽獣葡萄鏡なども展示されていた。これまた社会の教科書などでおなじみの鏡である。

重要文化財の鎧兜となると展示されているものだけでもゆうに数十体にのぼり、同じく重文の各種刀剣類にいたってはその数をかぞえるのもおっくうなくらいである。それらの中には、鎮西八郎為朝奉納の赤漆塗重藤弓、木曾義仲奉納の薫紫韋威鎧、平重盛奉納の螺鈿飾太刀、武蔵坊弁慶奉納の薙刀といったようなものも含まれている。どこまで事実の裏付けがあるのかは知るよしもないが、歴史上において敵味方になって戦った人物たちのいずれ劣らぬ奉納品が一堂に陳列されているところなどは、この神社ならではのことなのだろう。源義経や楠正成を討つのに用いられたとかいう(事実のほどについてはとても責任もてそうにない)大森彦七所用の国宝の太刀などというしろものまであった。

実際に使われたものだという大太刀や薙刀類は、想像していた以上に長く大きく見るからに重そうで、ほんとうにこんなものを振り回して戦うことのできる体力の持ち主がいたのだろうかと首を傾げたくなるほどだった。戦いのさなか敵の乗る馬の脚を払うのに二人がかりで用いたとかいう大太刀なども展示されていたが、走行中にこんな特殊な武具で脚を狙われた馬もたまったものではなかったろう。特別に作った奉納品ということもあったのかもしれないが、源為朝奉納と伝えられる重藤の弓などは、スーパーマンでもないかぎりこんなものを引くことはできないだろうと思われるほどに頑丈そうなしろものだった。

だが、それ以上に仰天したのは国宝館の入り口近くに大きく展示されていた大山祇神社宮司一族の系図だった。天照大神からはじまり神武天皇を経て現在の宮司一族にまで続いているらしいその系図を見て、我々はただもう天晴れとしか言いようのない思いになった。ある 一族や特定の集団が大真面目にその権威と存在の絶対的な裏付けを求めようとするときに、意図せずしてしばしば起こりうるこれは最高のギャグである。

海事博物館のほうに足を運んでみると、こちらのほうには魚類標本、鉱物標本、考古学関係標本、船舶関係資料などがいろいろと展示されていた。葉山沖で採取された昭和天皇ゆかりの海洋生物標本や研究資料などがはるばるこの海事資料館にまで運ばれ収蔵されているのも意外ではあった。個々の展示物はそれなりに立派なものだし、その意義も理解することはできるのだが、私には一つだけどうにも気になることがあった。大山祇神社全体の雰囲気やその歴史的背景、紫陽殿ならびに国宝館などの展示物などを考える時、この新設の海事博物館の存在だけはなんともちぐはぐなものに思われてならなかったからである。

海に縁があり村上水軍との関係も深い神社だから、海事博物館があってもおかしくなかろうという考え方もあったのだろうし、一定の見学者数を確保するには旧来の神社関係施設とセットにしたほうがよいなど、他にも諸々の事情があってのことではあったろうが、せめてもう少し離れたところに建てるなどの配慮くらいはなされてもよかったのではなかろうか。古式ゆかしい壮麗な造りの拝殿に参拝し、深々した鎮守の森をめぐり、国宝や重文の鎧兜や刀剣類を眺めながら古の武将たちの盛衰に遠く想いを馳せたあと、近代的な造りの博物館にやってきていきなり鯨のペニスに象徴されるような展示物を見せられる側の身にもなってほしい。

大山祇神社をあとにすると、再び西瀬戸自動車道に戻り、芸予諸島のなかの重要な瀬戸の一つである鼻栗瀬戸を跨ぐ大三島橋を渡った。行く手の伯方島の眺めや鼻栗瀬戸周辺の景観も実に素晴らしい。先を急ぐこともあって伯方島はいっきに通過し、伯方・大島大橋を渡って大島に入ると四国本土の波方町や今治市はもうすぐだった。大島と四国本土の間には、古来、芸予諸島を抜ける際の最重要ルートであった来島海峡、すなわち、来島瀬戸が横たわっている。この来島瀬戸に架る来島大橋は西瀬戸自動車道に架る七橋中最長の橋である。左右の眼下の雄大な瀬戸の眺望を楽しみながら来島大橋を渡り終えた我々は、四国本土側に設けられた来島海峡展望所に車を駐めた。

いまにも肌が焼けつきそうなほどに強烈な陽射を浴びて、来島瀬戸は群青色に輝いていた。そして、青潮を湛えたその水路の中央を、速度を落とした船がときおりものうげに通り過ぎていく。瀬戸の向こうには先ほど通過してきた大島やその向こうの大三島などの島影が望まれた。この来島瀬戸の水路中には数個の小島が散在していて、なかほどにある馬島には来島大橋の橋脚が設置されている。また、我々の立っている展望所からは見えないが、今治市の北に位置する波方町の瀬戸側には良港を形成する細長い入江があって、ちょうどその出口付近に、通常のドライブマップなどでは識別するのも困難なほどに小さな米粒状の島が浮かんでいる。これこそが来島村上水軍の根拠地になっていた「来島」なのである。意外なほどに小さな島だが瀬戸の最要所に位置する要害の地でもあったので、古来、伊予衆が本拠を構えてきた。来島瀬戸という名称もむろんその島の名に由来するものだった。

<四万十川の源流地帯、愛媛県広見町>

瀬戸内島なみ海道に別れを告げた我々は今治市と東予市をいっきに通り抜け、松山自動車道に入ると西に向かって猛スピードで走り出した。かなり道草を食ったせいで予定の時刻よりも遅れている。松山城を右手はるかに望みながら松山市南方を通過、伊予市、内子町を経て松山自動車道の終点大洲に至り、そこからは国道五十六号沿いに宇和島方面へと南下した。助手席では三嶋さんが目指す愛媛県広見町の役場関係者と携帯電話で連絡をとっている。島なみ海道の途中にある島などに立寄った際、ずいぶんと道に迷ったから到着が予定よりも大幅に遅れるだろうなどと三嶋さんは先方に伝えているが、道に迷った覚えなど実のところはさらさらない。すべては道草のゆえである。

宇和町を過ぎ、宇和島市に入る少し手前で国道五十六号から左に分岐する道に入った。そして東へ向かって二十分ほど走り小さな峠を越えてからさらにしばらくアクセルを踏み続けると、山並みに大きく取り囲まれるようにしてこころもち傾斜した平地の広がる一帯にでた。そして、そのあたりがほかでもない今回の旅の目的地、愛媛県広見町だった。道路の左右には静かな風情をたたえた農山村風景が広がっている。ハンドルを握りながらちょっとあたりを見回しただけではあったが、なかなかに奥懐の深そうな感じのする町だった。

まずは広見町役場を訪ねる手筈になっていたので役場のあるという近永集落に向かって車を走らせた。ところが肝心の広見町役場らしい建物がなかなか見つからない。地方の町村役場というと主要道からほどない場所にすぐそれとわかるたたずまいで建っているのが普通なのだが、広見町の場合にはどうもそうではないらしい。過去何度も広見町役場に来ている三嶋さんならすぐにわかるはずだと思ったのだが、自分では車を運転することのないせいもあってだろうか、そのナビゲーションはさっぱり要領を得ない。海上においてなら伊予の海賊衆なみの能力を発揮する三嶋さんの体内羅針盤も、地上にあがってしまった途端に、飲み屋の発する強力な磁力線の影響でめちゃくちゃに狂ってしまうらしいのだ。ただ、そんな状態になっても飲み屋の方向だけはちゃんとわかるらしいからなんとも不思議なものである。

結局は広見町農林課の農政係長、高田達也さん自らが迎えに来てくださるということになった。そして、ほどなく現れた高田さんの車に先導されて、我々は集落の少し奥まったところにある広見町役場に到着した。広見町役場では、三嶋さんが懇意にしているという入舩秀一農林課長が、がっしりした身体の奥底からじわっと湧き上がるような温もりのある笑顔でもって我々二人を出迎えてくれた。物静かな高田さんの上司にあたる入舩さんは見るからに豪胆かつエネルギッシュな感じの人物で、抜群の行動力と決断力、さらには瑣末事にこだわらず大局的な立場から人を育て導くことのできる包容力の持ち主に違いないとお見受けした。こういう人物が一人でもいると、その行政組織体はおのずから活性化し、町の発展にとっても大変に有意義なことだろう。

応接室で一通り挨拶を済ませたあと、私は入舩さんから広見町についての簡単なガイダンスをうてみけた。この町の現在の人口はおよそ一万一千五百人で、世帯数は四千二百五十戸ほどであるという。従来からの稲作や畑作などの農業のほか、酪農や養豚、林業、農産物や木材の加工などによって町に住む人々の生活は支えられてきているようだ。

高知県の中村市の河口から土佐湾に注ぐ四万十川は、同県の西土佐村江川崎付近で左右二手に大きく分岐する。そのうち左手の支流のほうは県境を越えて高知県から愛媛県に入り、松野町を経て広見町にいたっている。そして、その大きな支流は広見町内に入ると広見川、三間川、奈良川の三つに分かれ、さらにそれら三つの川は上流に向かうにつれてそれぞれ幾筋もの支流に細かく分岐し、山間部の谷奥へと消えていく。要するに、広見町とは四万十川の北西側支流の源流域に位置する町なのだ。清流で名高い四万十川の源流地帯だから、当然町内を流れる大小の川や渓流の水も澄み切っており、それらの流域一帯に広がる森や林もこのうえなく美しい。

この地に伝わる伊予神楽は国指定の重要無形民俗文化財になっているという。「男子四国神楽」とも呼ばれるこの伝統神楽は鎌倉時代以来のものといわれ、四国神楽の中心的存在でもあるらしい。神職のみによって演じられるこの神楽の全演目は三十五番にものぼり、本来ならば舞い終えるのに一晩を要するというのだが、現在では省略されて三時間ほどで終わってしまうそうである。

愛媛県県指定の有形民俗文化財の鬼北文楽も広見町において長年受け継がれてきている伝統芸能のひとつである。江戸初期の三名座の一つとして知られ、四百年もの伝統を誇っていた淡路の人形浄瑠璃、上村平太夫一座は明治時代にこの地を訪れたとき、彼らが使用していた名工作の人形の頭や衣装多数をその芸ともどもこの地の人々に伝授した。それが鬼北文楽のはじまりなのだという。現在もその由緒ある伝統芸能は地元の人々によって代々伝承されている。

広見川の支流大宿川沿いにある清水集落に長年伝わる五つ鹿踊りも珍しい。角の生えた大きな鹿の面をかぶり全身を古式豊かな装束で覆った五人の舞い手が演じるこの鹿踊るは、一人立ち風流獅子舞の系統に属する舞なのだそうだ。遠い狩猟時代に鹿や猪などの豊漁を祈った祭祀行事から発展したものだとも、宇和島に移封された伊達秀宗が仙台地方に伝わる鹿踊りを持ち込み伝えたものだとも言われている。

新しいところでは和太鼓集団の魁(さきがけ)がある。結成されてからまだ十三年ほどだというが、団員たちは近年めきめき腕をあげるいっぽうでますます和太鼓にのめり込み、全国大会でも三位になるなど、伝統が浅い割には大変な活躍ぶりを示すようになったようである。

時期的な問題もあって伊予神楽や鬼北文楽、五つ鹿踊りといったこの地の伝統芸能を目にすることができないのは残念だったが、この広見町にはるばるやって来たからには、なにはともあれ、百聞は一見にしかずの精神をもってあちこち訪ね歩いてみるのがベストには違いない。夕刻が迫ってはきていたが、まずはということで町役場所有の大型ワゴンの新車に身を委ねた我々は、入舩さんと高田さんに案内されるまま、広見町南部を流れる奈良川の奥にある成川渓谷方面へと向かうことになったのだった。
2000年10月18日

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