初期マセマティック放浪記より

63.生月島と隠れキリシタン

キリスト教日本布教の祖フランシスコ・ザビエルが一五四九年に鹿児島に上陸してから、はや四百五十年の歳月が流れ去った。昨年鹿児島ではザビエル来日四百五十年記念祭なども催されたようである。キリシタン追放令が下されて以降はキリスト教徒をきわめて厳格に取り締まった旧島津藩のお膝元鹿児島で、ザビエル記念祭が大々的に催され、内外から多くの参加者や招待者を集めたということは、奇妙な歴史のめぐりあわせとでも言うほかない。そのフランシスコ・ザビエルの入邦を契機として、九州西北部をはじめとする国内各地にキリスト教が急速に広まっていったことは、十六世紀半ばから十七世紀初頭にかけての我が国の歴史に見る通りである。

鹿児島上陸後、再びポルトガル船に乗船、入来、大村を経て海路西海地方に来航したザビエルが、一五五〇年に平戸島に入ると、その翌年には早くも同島に日本初の教会が建立された。そして、それを待っていたかのようにフロイスやフェルナンデスをはじめとするイエズス会の宣教師たちが次々に来島、西海地方一帯におけるキリスト教の布教熱は加速度的に高まっていった。一五七一年になって長崎が開港されると来日する宣教師たちの数はさらに増大し、それから十年ほどのちには浦上にあの有名な天主堂が建立されるまでになった。また、一五八二年、九州のキリシタン大名らはローマに天正遣欧使節団を送り、キリスト教に好意的だった織田信長は宣教師たちと進んで接見、彼らと交流を深めるなど、キリスト教の国内布教の勢いには一時期目を見張るべきものがあった。

しかし、一五八七年になって秀吉がキリシタン追放令を発令してキリスト教の布教を禁じ、それから十年ほどのち、フランシスコ会の宣教師六人、日本人イエズズ会修道士三人、さらに彼らをかくまった日本人信者十七人、合わせて二十六人のキリスト教徒が長崎西坂の丘で殉教するに及んで、キリスト教に対する取り締まりは格段に厳しさを増していった。そして、一六一三年に家康が禁教令を公布し、ウイリアム・アダムスこと三浦安針が平戸で他界した一六二〇年頃になると、幕府によるキリスト教弾圧の厳しさはその頂点に達した。一六二二年(元和八年)には、宣教師や信者五十六名が長崎立山で火刑や斬首に処されるという元和の大殉教が起こっている。

遠く海を隔てた異国の地へ新たな宗教を布教するということは、そこに住む異教徒たちに対し命懸けで思想の戦いを挑むことにほかならない。その宗教が本質的なもの、すなわち、その時代の規範や制度のゆえに苦悩する人々の心をそれらの規範や制度を超越した次元で救済しようとするものであればあるほど、宗教を広める側とそれを異質なものとして排除しようとする側との戦いは熾烈になる。いまではどんなに穏健で普遍的に見える宗教の場合であっても、その原初形態は異質かつ過激で、反社会的、反権力的なものであったと考えてよい。まして、布教の先陣をたくされた「神の戦士」たちの背後に、それを個々の戦士たちが意識していたか否かにかかわらず、異国の征服をたくらむ権力者の姿が見え隠れし、迎え撃つ側もその対応に窮して脅威を感じ怯えを抱くようになっていったとすれば、事態が平穏におさまろうはずもなかったろう。

十六世紀末から十七世紀初頭にかけてという時代を考えると、当時の我が国の為政者たちが、キリスト教に対する当初の寛容さを捨て、厳しい取締りへと転じていかざるをえなかった背景もある程度は理解できなくもない。長年ドイツのゲッティンゲン大学で日欧比較文化史の研究を続けた松原久子は、その著書の中で、独自の視点に基づく次ぎのような興味深い見解を述べている。当時の宣教師たちが国王や教会本部へ送った生々しいレポートや記録をヨーロッパ各地の図書館から発掘収集し、それらを分析したうえでの鋭い指摘だけに、読んでいて深く考えさせられるものがある。

《もしもこれが逆の立場であったならば、今日のヨーロッパの歴史には何と述べられていることだろうか。たとえば十六世紀末、シシリー島の港あたりにひょっこりと一団の仏僧が姿を見せて上陸し、その地方の住民に仏陀の教えを説き、キリスト教は邪教であるから教会を焼き払わなければならないと煽動し、仏教寺院を建てて領主を改宗させ、その援助で港を造ってはその一帯を領有し、十字架やマリア像さらには聖人像を叩き割って焚いた火で精進料理を作って舌鼓を打ち、仏僧の配下にある貿易船が毎年来航してヨーロッパにない物を持参し、人々は競ってそれを買い、船が去るときにはイタリアの貧しい村々で安く買い集めた少年少女を鎖に繋いで乗せ、奴隷として運んで行ったとしたならばである》
(松原久子著、「WEG ZU JAPAN」より)

キリシタン問題に関する諸議論の是非はともかくとして、キリスト教の教義に心のよりどころを求める当時の敬虔な信者たちは、取締りが厳しくなるにつれ、世に言う「隠れキリシタン」としてその信仰を隠し守っていくしかなくなった。そして、明治になって信教の自由が認められるまでの間、子孫代々密かに教義を伝承しつつその信仰を固く守り貫いたのが、ほかならぬこの生月島と平戸島西海岸の根獅子周辺の人々だったのだ。

古式捕鯨関係の展示物を見終え、二階に上がって一番奥の展示室へと進んでいった私は、そこで望外ともいうべき隠れキリシタン関係の展示資料にめぐりあうことになったのである。この島の歴史民俗的な背景からすればそれは当然のことではあったのだが、まるで予備知識のなかった私には、それら展示物の一つひとつが大きな魅惑を秘めた宝物のように思われてならなかった。

生月島と平戸島の根獅子地区では一部の役人をも含めた当時の住民全員がキリスト教の信者になっていたという。生月には宣教師ルイス・アルメイダなども来島し、キリシタン弾圧が始まる前には六百人を収容できる教会などもあって、すでにラテン語の聖歌が歌われていたらしい。実際、そのくらいの信仰の深まりがなければ、幕府の厳格な取締りにもひるむことなく、隠れキリシタンと化して信仰を貫き通すことはできなかったに違いない。隠れキリシタンとなった島の人々は、仏教や神道を隠れ蓑にし、以後、信教の自由が保証されるようになるまでの二百五十年余にわたってその信仰を密かに守り続けていったのだ。

展示室の最奥には隠れキリシタンの秘密教会の役割を果たしていたツモト(お宿)家の部屋の復原資料があって、実際に中に入って当時の雰囲気を体感することができるようになっていた。解説によると、生月壱部の岳の下ツモトでの「上り様」行事におけるナオライ(祝祭あるは宴会を意味する)の場面を再現したものだという。実際には、当時のツモトの状況も諸儀式の様式も地区によってかなり違い、ツモト家も世襲になっているところと何年かごとの持ち回りになっているところとがあったようだ。

土間からあがってすぐの左手には昔風の大きな箱火鉢が置かれた板敷きの控えの間があり、右手には同じく板敷きの仏間があった。仏間には菩薩像を配した仏壇を中心にして左手にお大師様を祀る棚檀が、右手にはお札様という一種の神棚が並べ設けられている。いかにも「この家では日本古来の神仏をこのうえなく大切に祀っていますよ」と言いたげな仏壇と神棚の配列なのだが、閼伽瓶(水を供える瓶)のデザインや配置のしかたひとつにもどことなく不自然な雰囲気が漂っているように感じられてならなかった。もしかしたら、そういう目で見ている私の気のせいだったのかもしれないけれども……。

板戸でしっかりと仕切られた仏間の奥には納戸(物置部屋)があって、実はそこが隠れキリシタンの本尊、すなわち「御前様(マリア像または聖者像)」を祀る秘密の間になっていた。床の間には和風のタッチで描いた幼いキリストを抱く聖母マリア像の掛け軸がさげられ、その下には聖水の瓶や各種のメダリオン、もともとはカトリックの苦行の際に使われていた鞭の一種を模した、縄製のオテンペンシャという聖具なども置かれている。ちなみに述べておくと、オテンペシャは魔除けやお払いのために用いられる隠れキリシタンの世界独特の聖具であった。オテンペンシャという言葉の語源は、ポルトガル語で「悔悛」を意味する「pentencia」であったという。それならば、「オ」の字をあとでつけ足した尊敬の接頭語とみなし、「テン」と「ペン」を入れ替え「オペンテンシャ」と呼ぶのが正しいのではないかとも思ったが、いくつかの資料を確認してみてもやはりオテンペンシャになっていた。

床の間の前に置かれた広い膳の上のお盆には供物用の皿や椀類が並べられていたが、それらのデザインや絵柄はやはり異国風の感じのするものだった。資料室には日本古来の観音像を巧みにデフォルメし、幼いキリストを抱くマリアのイメージを重ねた各種のマリア観音像が展示されていたが、各地域のツモトの納戸部屋などにはそれらマリア観音像なども秘蔵されていたようだ。いざというときに備えて、小さなマリア観音像や十字架、貴重なメダリオンなどが納戸の柱や壁に埋め込まれたり塗り込められたりすることもあったらしい。

納戸とは、民家の奥深いところにあって一家の衣類や調度品などをしまっておく、窓のない暗い物置部屋のことで、一般客はもちろん、家族の者もめったには出入りしない場所である。この納戸に聖母マリアの像やその聖画などが秘蔵されたことから、それらは「納戸神様」という風変わりな呼称で呼ばれてもいたようだ。納戸神様としては、聖像や聖画、マリア観音像などのほか、聖職者たちが殉教した聖地の中江ノ島から採取した聖水、前述のオテンペンシャ、白い紙を切りぬいて作った小さな十字形のおまぶり(お守り)、袂(たもと)神(原型のロザリオ)、サンジュアン様(メダリオンの一種)なども用いられた。

壁で仕切られた納戸部屋の左隣は広い座敷部屋になっていて、その座敷ではナオライの儀をはじめとるす様々な秘儀や行事が催された。親父様と呼ばれるツモトの当主が全体の儀式を仕切り、オラショという祈祷文が唱和されたという。オラショは相当に長いものだそうで、跡を継ぐ若い者が長老からオラショを口伝で教わるときなどは、完全に憶えるまで大変な苦労をしたものらしい。座敷部屋や納戸部屋では、オラショの録音テープがが流されていたが、語意を聴き取るのは不可能に近いその早口の唱和は、抑揚もリズムも浄土真宗の仏説阿弥陀経や観無量寿経の読経の響きにそっくりだった。これはあくまで私の推測だが、たまたま部外の誰かに聴かれたとしても仏教の読経と区別がつかないように、意図的にそんな工夫がなされていたのかもしれない。

「ナオライ」の儀や「お産待ち(クリスマス・イヴの儀式のこと)」、「お誕生日(キリストの生誕日)」の行事のときには、座敷の間と壁を隔てた納戸の御前様にオラショを唱えて祈りを献げたあと、祝いの酒や肴が出されたが、行事中に誰かが納戸に入り御前様に参拝することはまったくなかったらしい。日常的にも御前様を祀る納戸に出入りすることは極力避けられ、出入りができるのもツモト当主の親父様だけに限られていた。それほどに徹底した秘密保持の態勢を敷かなければ信仰の継承維持は不可能だったということなのだろう。

展示室にはかつての宣教師たちが残した華麗な司祭服や聖書類、十字架類などの関係資料も多数陳列されていたが、そんな中にあって私がひときわ心を惹かれたのは有名な踏絵の実物であった。踏絵というのは銅板だけで出来ているものと思っていたが、展示されている実際の踏絵は、和琴を小さくしたようなかたちの、丸みのあるがっしりとした木の台の中央にはめ込まれていた。その台にのぼった者が足裏全体で踏絵本体を強く踏みつけられるように工夫するいっぽうで、その様子を役人が容易に確認できるようにも配慮してあったわけだ。黒ずんですっかり摩滅したその踏絵の木部は、隠れキリシタンであったか否かにかかわらず、その踏絵を踏まされた者の数が如何に多かったかを物語っていた。

黒ずんで摩滅した部分には、どうしても聖像浮き彫りにした銅板踏絵本体を踏めずに処刑された敬虔な信者たちの足跡の名残も秘められているに相違ない。そう思うとなんとも不思議な気がしてならなかった。やがてキリスト教の指導者たちのほうも、信徒たちに踏絵を踏んでも神の慈悲には変わりがないし、真に信仰を守るためならばむしろ進んで踏絵を踏んでも構わないという指示を出したため、踏絵によるキリシタン探しは実効力を失い、次第に形骸化していった。そして、日米修交通商条約が締結された一八五八年に至って、全面的に踏絵は廃止された。

いまひとつ、私が目を奪われた展示物は「魔鏡」と呼ばれる特殊な銅鏡だった。魔鏡というものがこの世に存在するということは耳にしていたが、その実物を目にするのは初めてだった。裏に観音菩薩像の浮き彫りを持ち、表側は通常の銅鏡と同じように滑らかに磨き上げられた鏡面になっているこの鏡に光を当て、その反射光を白い壁や紙に投射すると、なんと、円形の光像の中に十字架に掛けられたキリストの姿とおぼしきものが浮かび上がるのだ。観音菩薩ではなくてキリストやマリアの像が浮かび上がるところがミソである。何時の時代に誰が考え出した技術なのかは知るよしもないが、なんとも見事な技法だというほかない。生月島で噂の魔鏡に遭遇できるなんて望外のそのまた望外のことだったから、反射光の中に浮かび上がる不思議な聖像を眺めながら、私はすっかり嬉しくなった。

魔鏡の秘密は観音像の浮き彫りをもつ裏面と表の鏡面との間にある見えない中空部にあるらしい。外からはわからないが、二枚の円形銅板を巧みに貼り合わせて作った中空部、すなわち鏡面のほんとうの裏側には微妙な凹凸がつけられ、また特殊な細工などが施されている。そして、それらの凹凸や細工が表の鏡面に及ぼす影響のために反射光に明度のむらが生じ、その明暗の光の縞が全体的に組み合わさって聖像の文様となるらしいのだ。なんとも驚くべき高等テクニックなのである。

なかには、その解説を読んでいくうちに思わず吹き出したくるような展示物もあった。いかにも古そうな十字架の中央にマリア観音像らしきものの浮き彫りを施した「キリシタン遺物の偽物」がそれである。そのいわくありげな珍品は、西海地方一帯のキリシタン史跡を訪れる外国人観光客を狙って終戦後の一時期に作られた、商魂まるだしの偽十字架だったからである。裏を知らなければ日本人でも騙されてしまいそうな代物だから、それと知らずにお土産代わりに買っていった外国人も多かったに違いない。

一六四三年に当時の最後の司祭マンショ小西神父が殉教すると、西海地方のキリスト教信者たちは隠れキリシタンとなって各地に潜伏、諸聖具と諸儀式の含み持つ本来の意味や精神を正しく伝承する宣教師のいないままに、その信仰は孤立化し土着化していった。ただ、たとえ風土の影響を受け土着化したとはいっても、正規の司祭による指導のまったくないままに、その後二百五十年余にもわたってその信仰が受け継ぎ守り抜かれたということは驚異というしかないだろう。集落の全戸が揃って隠れキリシタンとなっていたことも、生月や根獅子の人々が信仰を固守し続けることができた大きな理由ではあろうが、それだけでは説明がつかない気がしないでもない。

私には、広大な海と漁村という背景が隠れキリシタンの信仰の存続に一役買っていたように思われてならない。私も九州の島育ちだからよくわかるのだが、海を相手にして生きる漁民というものは一般に言葉少なく口が固い。それでいて物事の本質を冷静に見抜く力を持ち、いざというときの決断力と行動力にも秀でている。

いまと違って手漕ぎの和船しかない時代には、いったん海に出たら、漁民たちはお互い力を合わせ固い結束を守りながら、的確な判断のもと命懸けで仕事を進めなければならなかったろう。独りで沖に出たら出たで、いつ何が起こるか判らない危険な状況と隣り合わせのなかで、自らの心に語り問いかけ自らの力と判断を信じながら、黙々と漁労にいそしまなければならなかった。女たちは女たちで、たとえ海に出ることがない者であっても、海がどういうところかは十分にわきまえていて、生活をともにする海の男たちの身に何かが起こったときの覚悟だけはできていたはずである。

要するに、古来、海というものは、個々の人間の根性を据えその人間を自立させると同時に、人々の心の絆を想像以上に太く強くするものなのだ。五島を含めた西海各地の隠れキリシタン集落にみる人々の結束の固さには、海に生きる者のそんな気質が大きく作用していたように感じられてならない。

隠れキリシタンとなった人々が如何に固く口を閉ざしそれぞれの秘儀を守り通したかは、海を挟んでわずかな距離しか離れていない生月と根獅子においてさえ、それぞれの信仰様式がかなり異なったものになっていった事実からも窺い知ることができよう。生月島では、「ここから天国はそう遠くはない」という有名な言葉を残して殉教した聖ジョアン次郎右衛門らが処刑された沖合いの中江ノ島という小島を、いっぽうの根獅子は大量の殉教者を出したという根獅子ヶ浜をその聖地にしている。隠れキリシタン組織の形態も礼拝行事もオラショもそれぞれの地域で独自の様式へと変化していったようである。生月島では、隠れキリシタンの中に死人がでた場合には、仏教僧が来ないうちに、遺体を前にして「もどし方」というミサの変形ともいうべき特別な儀式が行なわれ、オラショが唱えられたともいう。

明治になって信教の自由が認められると、平戸の紐差教会のペルー神父らはすぐさま再布教のために生月や根獅子を訪れ、人々の祀る納戸神様とキリスト教とは同一のものであることを懸命に説いた。しかし、二世紀半もの歳月を経て土着化した隠れキリシタン独自の信仰様式とキリスト教本来の信仰様式との開きはあまりにも大きく、キリスト教の再布教は、十六世紀当時の初布教などよりもはるかに困難をきわめたという。

思いもかけぬ発見に心底喜びを覚えながら島の館をあとにした私は、再び生月大橋を渡って平戸島側に戻り、西海岸の根獅子ヶ浜の近くにある平戸切支丹資料館をも訪ねてみた。それは入母屋造り平屋のこじんまりした資料館で、入館者は私一人だけだった。こちらのほうにも島の館の展示室に劣らず、なかなかに興味深い隠れ切支丹関係の資料が陳列されていた。珍しい隠れキリシタン祭具や見るからに芸術性の高い何体ものマリア観音像もあった。司祭服姿の聖職者の古い木像、大きな十字架を背負った見事な造りのキリスト木像、さらには実際に用いられた禁教令の高札やメダリオンなど、いずれの展示物にも深く心を打つものが感じられた。

ただ、見学を終え同資料館をあとにしようとしたときのこと、一つだけ呆気にとられるような代物を目にしてしまった。資料館の片隅で売られているお土産品の中に、なんと一個千円の値段のついた踏絵のレプリカが並べられていたのである。どこかの国の首相や大臣連中の顔を浮き彫りにした踏絵なら一枚くらい買ってきて、ストレス解消用に我が家の玄関先あたりに置いてみるのもよいかとは思ったが、さすがに本物の踏絵のレプリカではとてもそうする気にはなれなかった。もちろん、純粋に歴史資料としてそのレプリカを買っていく人も多いのだろうし、資料館側もそういった人々へのサービスのつもりで用意したものに違いないのだろうが、私の感性にはちょと合わないお土産品ではあった。
2000年1月5日

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