初期マセマティック放浪記より

19.甑島の荒磯で亀の手を食べる

鹿島村の藺牟田に着くと、海岸脇のスペースに車を駐め、食料調達を兼ねて集落の中を歩いてみた。集落内の道路はやはり隅々まで舗装が行き届いていたが、奥にはいると、古い漁村特有の細い路地や昔ながらの造りの民家があちこちに残っていて、とても懐かしい感じがした。藺牟田集落は東側だけが海に直接面しているが、残りの三方は山々に囲まれており、集落全体がそれらの山陰に包み隠されるようなかたちになっている。天然の要害によって、夏から秋にかけて来襲する猛烈な台風や、冬場の冷たく激しい北西の季節風から守られているわけだ。西側の山の向こうはウミネコの繁殖地としても知られる鹿島断崖になっている。

集落の裏手の山裾には小広い田畑があって、野菜類を主とする様々な作物が育てられていた。田んぼの畦道沿いの細い水路をのぞくと、ご多分に漏れずそこも三面をコンクリートで覆われていたが、その水路の一部には、かなりの数のメダカや小ブナ、アメンボウ、ミズスマシなどが生息していた。急に近づくと、ピチャピチャという水音をたてながら、メダカや小ブナどもは慌てたように草陰や深みのほうへと逃げ出して行った。

水が淀みがちなため底部に有機物を含む泥が溜り、そのおかげで水草や水辺を好む植物が生え、かろうじて小さな水生生物が繁殖できる条件が維持されているのだろう。昔なら集落周辺のいたるところで見うけられた光景だが、いまとなっては、厳しい条件に耐えながら必死に生きながらえるかれらの姿はなんともいとおしい。自然種のメダカが全国的に姿を消しつつある現況を思うと、一見なんの価値もなさそうなこういった風物こそ貴重な遺産で、観光資源にもなり得るのなのだが、そんなことに気づく人はほとんどいない。

メダカや小ブナはまだよいが、昔のようにウナギが生息するのは無理だろう。以前は、春になると甑島の集落周辺の小川にはウナギの稚魚が海からのぼってきたものだが、いまは、せっかく遡上してきても、川の中にも田んぼの脇の水路にも日夜身を隠す穴などないし、川エビやドジョウ、各種の昆虫類といった餌も少ないから、稚魚が数十センチの天然ウナギにまで成長を遂げるのは難しい。

バブル崩壊と景気の低迷を嘆き、少年犯罪の凶悪化に慄き、食品汚染に大騒ぎする大人たちにとって、メダカやウナギの生死など取るに足らないことには違いない。しかし、それら小さな生命の生死に無関心になることによってのみ、あのバブルの狂騒と絢爛にしてしかも虚ろなこの社会は実現し得た。だから、いま大人たちが生活の不安に喘ぎ、自業自得ともいうべき子どもたちの暴走に困惑し、ダイオキシンに怯えるのは、当然の代償と言ってよいだろう。たぶん私たちは黙してそれらを受け入れていくしかない。

いまさら生命の尊厳なんてちゃんちゃらおかしいわい、先々の飢餓の不安も死の恐怖も覚悟の上でおまえら人間が選んだ道だろう、飢えるときがきたら飢え、死ぬときがきたら死ねばよいじゃないか、何をジタバタしてるんだい、そもそも人間が俺たちに望んだのはそういうことだろう!――メダカやウナギのそんな嘲笑が私には聞こえてきそうだった。

車に戻る途中で立ち寄った食料品店で、アクマキが一本だけ残っているのを偶然見つけた。アクマキとは、よくといだ糯米(もちごめ)を木灰汁(あく)に十分浸して竹の皮に包み込み、それを竹の皮の細紐でしっかり締め縛ったものを蒸してつくった食べ物だ。よく蒸し上がった縦長の包みの竹皮を剥ぐと、中からは粘り気と弾力性に富んだ半透明アメ色のアクマキ本体が現れる。これを細糸などを巻いて輪切りにし、きな粉や黒砂糖をつけて食べると、独特の風味があって実にうまい。昔は、端午の節句の頃などに鹿児島県一円でごく普通につくられていたものだが、最近ではほとんど見かけなくなった。

さっそく買い求めようとすると、お店のおかみさんが、よくこんな食べ物を知っているなとでも言いたげな顔をしながら、このアクマキは村の名人がつくたもので、よく売れるのだと話してくれた。ついでにキナ粉と砂糖がないかと尋ねると、おかみさんは、そんなもの買うことないよ言いながら奥へと引っ込み、コクのありそうな赤砂糖と上質のキナ粉を包んだビニールの袋をもってきてアクマキに添えてくれた。

食料を車に積み終えると、すぐに下甑島最北端の鳥ノ巣山展望台に上ってみた。標高百メートル前後の小山の上にあるこの展望台からは、折しも激しく潮の流れる藺牟田の瀬戸とその向こうに大きく迫る中甑島とが一望できた。眼下の荒瀬を青潮が刻々と洗い食んでいる。何事かを囁くような潮鳴りが、吹き上げる風に乗って心地よく響いてきた。この一帯の山の斜面も鹿の子百合の自生地として知られている。

他に人影のない展望台で昼食がわりのアクマキに舌鼓を打ちながら、またあらためて藺牟田の瀬戸を見下ろした。中甑島と下甑島とを隔てるこの一キロ足らずの瀬戸に橋が架かれば、甑島の一体化が実現する。島の急激な近代化にはそれなりの問題もあると述べてきたが、多くの島民の昔からの夢である藺牟田の瀬戸架橋には私自身も賛成だ。架橋に伴うマイナス面もまったくないわけではないが、全体として考えてみるとプラス面のほうが明らかに大きい。景観的に考えても、一貫して甑島全体の自然保護を進める立場からしても、さらには島内産業の育成や観光資源の有効利用の面からしても、この橋に限っては利点のほうがはるかに多い。

ここに来る二日前の夜、私は里村の塩田至村長に会う機会があったが、その席でこの橋の話がでた。藺牟田の瀬戸は上甑村と鹿島村との間にあるので、里村の行政区域外の話にはなるが、塩田村長がこの瀬戸に橋を架け、甑島の一体化をはかることにひとかたならぬ熱意をもっておられることは明らかだった。架橋が実現し、島が一体化すれば、本土に一番近い里村だけが繁栄し、それ以外の地域は取り残されるといった、地域性まるだしの議論もあるようだが、日本各地の似たような島々を旅してきた私の経験からしても、そんなことはないと思う。交通の表玄関とはまったく反対側の地域がその島の産業や観光の中心地となっているケースのほいうが現実には多いからだ。

先々、甑島の四村の合併問題が生じたら、自分の役職や権威がなくなるといった姑息な危惧も一部の人にはあるのかもしれないが、それは真に島全体の将来を願ってのこととは言い難く、筋違いも甚だしい。島内の四つの村がバラバラなって行政を行えば、せっかくの豊かな自然も、特異な民俗文化も、固有の産業も、単なる宝の持ち腐れに終わってしまいかねない。それらが相互に結びつき補い合って相乗効果を生み出すことなど望むべくもないからだ。

上甑島、下甑島ともに近代化が進み、本土との往来やそれぞれの島内の交通の便が飛躍的に向上したにもかかわらず、両島間を結ぶ交通の便がきわめて悪いのは、期待されているほどには本土から人を呼べない大きな原因になっている。もっと広く知られてもよい特異な観光資源をもちながら、それらを十分には活かし切れず、甑島全体の知名度がきわめて低いものになっているのも、両島が一体化されておらず、四つの村に真の意味での協力関係が存在していないからだ。各村の文化行政、宣伝広報、観光案内サービスの方針などに一貫した理念がないとすれば、外から来る人々は戸惑いかつ徒労を重ねるばかりである。そもそも、上甑島と下甑島それぞれの住民のほとんどがお相互いの島の状況さえもよく知らないままで、島外の人々に向かって「甑島へどうぞ!」でもないだろう。

里村の近代化と社会福祉の促進に多大の貢献があった塩田村長は、見るからに豪放な方だった。村内においてばかりでなく、本土の役人連中を向こうにまわしてのその行政手腕は相当なものに違いない。ただ、行政の長に座す人というものは、どんなに政務に尽くしたとしても何らかのかたちて必ず批判や中傷をうける宿命にある。可能なかぎりの誠意をもって臨んだ事業や政策も、目まぐるしい時代の流れの中で風化したりし、予想もしないマイナスの結果を生むことだってある。将来を睨んだ政策を立案し、その政策遂行に必要な裏づけを固めていくのもけっして容易なことではい。

急速な近代化のひずみと、それに対する批判とが見え隠れしはじめたなかで、なおも島の発展を至上義務として行政に携わらざるを得ない、塩田村長をはじめとする甑島四村長の苦悩の深さは私にも十分理解できる。だが、それでもなお、各村長の方々には、近代化の進んだこれからは、整備された道路や諸設備を最大限に活用し、島内に残る自然遺産や民俗文化遺産の保護と修復に務めて頂くよう願わずにはおられない。さらにまた、それら遺産の積極的な活用と島外への適切な紹介にも力を尽して頂きたい。かつてこの島に育ち、いまは島外に住むものの立場から甑島の置かれた状況を想うとき、その将来性は古来の自然遺産や民俗文化遺産を近代化の波とどう調和させていくかにかかっている、と感じざるを得ないからだ。

展望台下の灯台のところから海に向かって急傾斜の細い道が続いているので、磯辺に降りてみようということになった。吹き上げる潮風の中に獲物のにおいを感じとった私は、ドラーバーと小型の魚籠(びく)、さらには空のペットボトルを取り出した。もう少し暖かい時期ならば、常時車に積んである水中眼鏡とヤスと海パンを携行し素潜りに備えたのだが、南国とは言っても十一月のことなのでさすがにそれは諦めた。ゆっくり磯釣りでも楽しめば悪くてもカサゴくらいは釣れるだろうとも思ったが、日脚の短いこの時節に、まだこれから鹿島断崖をめぐり下甑島最南端の手打(てうち)まで行かなければならないとあっては、そのほうも我慢せざるを得なかった。でも、私には別の狙いがあったのだ。

野草と灌木の茂る急な斜面をいっきに下ると、道は大きく右手に曲がり、平瀬崎近くの磯辺にでた。左右両端を険しい崖に遮られた小さな磯浜だが、青黒い光沢のあるハンレイ岩質の玉石からなる綺麗な浜辺だった。沖に突き出る岬に抱え守られるような地形のせいか、風もなく寄せる波も穏やかで、海の水も透明そのものだ。時間がとまったような静かで平和なその空間を息子と二人で独占しながら、玉石の絨毯の上に仰向けになって横たわり、呆然として秋の空を見上げるのは、なんとも心地よいことだった。耳を澄ますと、潮の騒ぐ音が左手の断崖越しに何事かを囁くように聞こえてきた。藺牟田の瀬戸に直接面する崖の向こう側では激しく潮が動いているらしい。

満月の晩や美しい星空の広がる夜などに、この磯辺で潮騒に耳を傾け、夜光虫でも眺めて時を送ったら、知らぬ間に時間が逆行し、遠い日々が昨日のように甦ってくるのではないかと思われた。車の中に愛用のハーモニカを残してきたのはちょっとばかり残念だった。都会などから甑島を訪ねる人には、しつらえられた展望台に立つばかりでなく、こういうところにまで足を運んでもらいたい。こんな風景にすっかりなれてしまっている島の人は誰も薦めてくれないだろうが、この島のほんとうの素晴らしさは、こういった手つかずの自然の中にあるからだ。幸い甑島全体にはまだこのような磯辺がふんだんに残っている。

しばらくして起き上がった私は、磯浜の左手端の崖のほうへと近づき、潮間の岩々に目を向けた。潮の動きの少ない静かな磯だけに、瀬につく海草も貝類も少ない。それでも天然牡蠣があちこちにあったので、息子に手本を示す意味も兼ね、小石で叩き割って中身を取り出し口に入れた。牡蠣の身は少量しかなかったが、磯牡蠣特有の甘しょっぱい味が口いっぱいに広がった。この味だけは実際に試食してみた者にしかわからない。

ひとわたり付近の岩間をのぞいたあと、私たちは崖の直下に歩み寄った。久々に甦った私の野生の嗅覚は、先刻来、崖の向こうからかすかに流れ伝わってくる風の中に豊かな生物の棲む瀬場のにおいを嗅ぎとっていた。この岩壁を登って向こう側に行くぞ、おまえ先に取り付くか?――と息子に言うと、彼は自信なさそうな表情を見せた。子どもの頃に海辺の岩場でさんざん遊んだ私には一目見ただけで取るべきルートが読み取れるのだが、息子にはそうはいかないらしい。高校時代は山岳部にいて、ちょっとくらいは険しい山々を歩いているはずなのだが、こんな時うまく対応できないのは、やはり幼い日の育ちの違いのせいだろう。

先に立った私は、へっぴり腰の息子にルートの選び方と三点ホールドの手ほどきをしながら岩壁の上へとよじ登った。そして、吹き出したくなるほどに情けない格好で、なんとか無事に息子が岩を登り終えるのを見届けてから、高らかに潮の寄せ騒ぐ反対側の荒磯へと降り立った。藺牟田の瀬戸に面する一帯の岩場では、煽るように風が動き、激しく潮が走っていた。たった一つの崖を隔てただけなのに海や磯瀬の様相がまったく異なっている。絶え間なく潮が動いているために、周辺の生物相が豊かなのだ。

磯波に洗われる岩礁の隙をのぞいた私はすぐに獲物を発見した。千手観音の手みたいに群生する亀の手である。甲殻類蔓脚目の節足動物である亀の手は、貝殻質の先端が両の手先を蕾(つぼみ)状に合わせた形をしており、岩に付着する根元の部分は、ざらついた亀の手の皮膚に似ている。亀の手という名称はむろんそこからきたものだろう。甑島においても、亀の手は他の地方と同様に「セイ」という名で呼ばれている。磯の岩礁に密着する貝類を剥ぎ取るために昔から用いられた道具に「セイウチ」というものがある。木製の柄に先端が直角に曲がった鋭く丈夫な金具を着けた道具だが、この呼び名などは「セイ」、すなわち「亀の手」にちなんだものだろう。「瀬を打つ」ための道具というふうにも解釈できないことはないが、こちらはちょっと苦しい気がしないでもない。

これが食えるのかと訝しげな顔を見せる息子をよそに、私はセイウチがわりのドライバーを取り出し、岩から次々に亀の手を剥がしては魚籠に収めた。長さ五センチほどはある見事な亀の手である。見かけによらず、実はこれがなかなかに美味なのだ。とくに付け根の部分の肉はうまい。ドライバーを何度かふるううちに魚籠はずっしりと重くなった。
  亀の手を獲り終えると、今度は岩場周辺の浅い海中をのぞいてみた。案の定、大粒の黒蜷(クロニナ)がたくさんいるではないか。黒ないしは灰色をした高さ二・三センチほどの円錐形の巻き貝である。これを獲れと息子にも命じて、二人がかりですぐに魚籠をいっぱいにしてしまった。この磯なら、海に潜れば、馬蹄螺(バテイラ)やトコブシもたくさん獲れるだろうと思ったが、水中眼鏡も海パンも車に残してきたことだから、さすがにそこまで欲張るのはやめた。ちなみに述べておくと、馬蹄螺とは、地元でタカジイと呼ぶ高さ数センチの白茶色をした大型巻き貝で、馬の蹄を正面から見たときの形が似ているためにこの名がある。塩茹でしたあと楊枝などで中身を抜き取って食べるのだが、見も大きく何ともよい味で食べごたえがある。

今晩の夕餉に添える獲物を十分手に入れた私たちは、再び崖を越え下ってもとの磯浜に戻り、そこで綺麗な海水をペットボトルいっぱいに詰め込んだ。亀の手や黒蜷を味噌汁に入れて出汁だけをすするのはもったいない。一番よいのは天然の海水でさっと茹で上げそれをそのまま食べることだ。綺麗な海水がなければ、通常の塩茹でにしてもよい。意外に思われるかもしれないが、たいていの貝類は天然の海水で茹で上げて食べるのがもっともうまい。昔ながらの海辺の民の知恵である。北海道の漁師たちが殻付きのホタテを焼くとき、他の調味料を一切用いず、天然の海水だけをスポイドなどで注入しながら味付けするのも、同様の理由からである。

茹で上げた亀の手は、先端の白緑色の貝殻部をタテにして口に入れ歯で噛むと簡単に割れる。そのあと指先で貝殻部を取り除き、付け根の部分のざらざらした灰黒色の皮を剥ぐと、先っぽが黒紫色の子葉みたいになった薄いピンクの短茎状の中身が現れる。それをそのまま食べればよい。ビールの摘みなどにはもってこいのようである。黒蜷のほうは、馬蹄螺と同様に、茹で上げたあと螺旋状の中身の肉を針や楊枝で抜き出し、薄い蓋だけを取り除いてそのまま食べる。白から灰緑色をした身の末端部まで全部食べられる。ちょっと醤油などをつけて食べてもよいだろう。肉は小さいが、これもなかなかに味がよい。
  獲物を手に車に戻った私たちは、備え付けのクーラーボックスにそれらを詰め込むと、鷹ノ巣山展望台を後にし、夜萩浦を右手に見下ろす狭い林道を終点の円崎まで走ってみた。そして再び藺牟田集落に戻ったあと、集落の西奥にある鹿島中学校の裏手に車を駐め、夕暮れの迫る鹿島断崖めざして細く急峻な山道を辿りはじめた。
1999年2月24日

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