沖縄三日目の朝は、いささか憂鬱な私の心を励まし力づけてくれるような晴天だった。遠い昔のことがどうであれ、こうして沖縄にやってきた以上、現代の沖縄の置かれた状況を自分なりに極力冷静に見すえ、己の無知と無責任さを省みる契機にするしかない……そう思い直した私は、とりあえずホテルをチェックウトするべく身支度を整えた。
フロントに向かう前にホテルの売店をのぞくと、前日の金環食の写真セットがもうお土産として売られていた。記念にワンセット買ってみたが、プロのカメラマンが撮った写真だけのことはあって、その出来栄えはなかなか見事なものだった。だが、それ以上に感心したのは、「機を見るに敏なり」という言葉を地でいくようなその抜け目のない商魂ぶりだった。万座毛で金環食を見る前に買った日食メガネもそうだったが、どうもそれらのアイディアは地元の人の発想ではなく、商才にたけた本土の誰かが考え出したもののように思われた。
奥間ビーチに別れを告げると、私は沖縄本島最北端の辺戸岬を目指して走り出した。右手には国頭山地の最高峰与那覇岳の西山麓が広がっている。与那覇岳は四九六メートルと標高こそ高くないが、その周辺、とくに東側山麓一帯は深い亜熱帯樹になっていて、天然記念物のノグチゲラやヤンバルクイナが生息していることで名高い。また、一〇四科三七八種におよぶ植物が繁茂しているともいわれ、天然保護区域にも指定されているところだ。海辺の村というよりは静かな山村といった感じの辺土名(へとな)の集落を過ぎ、西海岸沿いの道をどんどん北上していくとやがて宜名間(ぎなま)の集落にでた。沖縄本島の集落は北端に近いほど昔の姿を留めている。がっしりした感じの赤瓦の屋根がとても印象的だった。
明るい日差しを浴びながらもひたすら静まり返った宜名間の集落を過ぎると、ほどなく道路の左右に二十メートルほどの大岩の切り立つ場所にでた。まるでトンネルかゲートをくぐっている感じである。その近くの道路脇に「戻る道」と記された碑が立っていた。五、六十年ほど前までは、そこは岩の裂け目を掘り削った急勾配の狭く細い道になっていて、途中で反対方向からやってくる人と出合うとどちらかが道を譲って戻らなければならなかったことから、そのような名がつけられたらしい。
現在も車道の上の崖の間にその道の跡が一部残っていて、それを徒歩でのぼりつめたところに「茅打ちバンタ」と呼ばれる場所があった。眼下には高さ百メートルほどの断崖がほぼ垂直に切り立っている。この断崖上から束ねた茅を海面に向かって落とすと、風に吹き上げられてバラバラに飛び散ってしまうというのが、その変わった地名の由来であるという。断崖の真下で揺れる海の色はどこまでも青く、しかも底のほう深くまで透き通っていた。こころもち視線を上げて来し方を眺めやると、あの運天港を形づくる本部半島と屋我地島一帯の遠景が望まれた。
四百年前、百隻を超える薩摩の軍船団は、私の眼前に広がる海を横切って運天港に向かっていった。不安な思いに駆られながら、その異様な光景をこの茅打ちバンタの断崖上から眺めていた沖縄びともあったに違いない。最終的にその事実を確認したのは私が東京に戻ってからのことであったが、それらの軍船のどれかには、当人も予想だにせぬ成り行きから薩摩の琉球支配に一役買うはめになる人物が乗っていたわけだ。そして、それから四百年近く経たのち、奇しくも、その人物にゆかりの不肖な男がふらふらと沖縄を訪ね、いにしえの沖縄びとが軍船団を見下ろしていたはずの断崖に立って当時の情況を想像していたことになる。
展望台の周辺には蘇鉄が多数自生していた。赤土に近いこの地の土壌は多分に鉄分を含んでいるのだろう。群生するそれらの蘇鉄を眺めるうちに、私は自分が育った家の庭の一隅にも大きな蘇鉄が一本生えていたことを想い出した。年代もののその大蘇鉄が枯れてなくなるときには家も滅びるなどと伝えられていたものだ。身辺に様々な不幸があいつぎ、やがて天涯孤独の身になった私が東京に出て苦学しはじめた頃には、もともと荒れかけていた屋敷は、無人となってますます荒れ果て、その蘇鉄もいつの間にか枯れてしまった。
こんなことを書くと言い伝えがずばり当たったようにも見えてくるのだが、真相は多分そうではない。蘇鉄は鉄分を多量に摂取して生きる樹木なので、甑島のような本来の自生地でないところで蘇鉄の樹勢を保つには、根元に屑鉄や使い古した剃刀の刃などを常時埋めて鉄分を補給してやらねばならない。そのほか、こまかな手入れや台風などに対する備えなども必要となる。だから、何らかの事情でその世話をする家人がいなくなると、蘇鉄は徐々に弱りやがて立ち枯れてしまうのだ。人がいなくなるから蘇鉄が枯れるわけで、言い伝えとは因果関係が逆さまなのである。
あらためて周辺の蘇鉄を観察するうちに、もしかしら、私が育った家のあの蘇鉄は、この沖縄での任務を終え甑島に渡った例の人物たちが、沖縄での二年間を懐かしんで植えたものではなかったろうかという想いが脳裏をよぎったりもした。だが、手入れさえ怠らなければ蘇鉄が樹齢三、四百年にもわたって生きながらえることができるものなのかどうかは、植物の専門家でもないこの身にはよくわからなかった。
茅打ちバンタのある付近から沖縄本島最北端の辺戸岬までは車でほんの一走りだった。岬一帯は万座毛と同じようにウガンダ芝が密生していて、何千人もの人々が大集会でも開けそうな平地になっていた。そして、その平地を抜け岬の突端に続く小道の脇に一つの記念碑が建っていた。ほとんどの人は何の関心も示さず次々にその碑のそばを通り過ぎていったが、そんなものがわざわざこの地に建てられた経緯が、私は妙に気になってならなかった。そこで碑の前に佇んでざっと碑文に目を通してみることにした。
「祖国復帰闘争碑」と題されたその碑文は相当に長いもので、細かな文字が連綿と彫り刻まれており、刻字の一部は読み取るのに苦労するくらいに変形や変色をきたしていた。だが、碑文を読み進むうちに私はいつしか深い感動にいざなわれた。文体はいくぶん古いものの、それは読む者の胸に切々と迫る名文であった。そして、そこには、まぎれもなく戦後の沖縄びとの心の原点が刻まれていたのである。
こんな碑文があることなどこの辺戸岬にやってくるまで知らなかったし、その文章を沖縄関係の書籍やガイドブック、報道記事などで目にしたこともなかった。どうしてもその内容を記録しておきたいと思った私は、その碑の近くに腰をおろしてノートを開くと、その碑文の刻字を一文字一文字書き写しはじめた。かなり時間のかかる作業であったが、そんなことなどすこしも気にはならなかった。
私が碑文を書き写している間にも、たくさんの観光客が私の脇を通り過ぎて行ったが、ほとんどの人はその碑に何の関心も示さなかった。だが、碑の前で足を止める人がまったくなかったわけではない。一人の日本人青年に案内されてやってきた在日米軍の家族とおぼしき一行は、碑の前に立つてVサインを出したりしながら皆でにこやかに記念撮影を繰り返した。その何とも無邪気で平和な光景を目にしながら、もしこの人たちが碑文に記された内容を知ったとしたらどんな反応を示すのだろうかと、私は内心で半ば苦笑せざるを得なかった。 時代の潮流というものはすべての恩讐を風化させる。それは必ずしも人類の平和と友好にとって悪いことではないのだけれども、折々珍妙かつ喜劇的な光景を生み出したりもするものだ。そのとき目にした米軍家族一行の心から楽しそうな様子は、そのことを何よりもよく象徴するものであった。
もしかしたら一部に写し間違いなどがあるかも知れないが、せっかくの機会だから、以下にその全文を紹介しておこうと思う。その意味するところをどのように受け止めるかは人それぞれであろうけれども、我々本土の人間が沖縄の基地問題や来年開催される沖縄サミットの意義などを考えるとき、なにかしらの参考にはなるに違いない。
〈祖国復帰闘争碑〉
全国のそして世界の友人に贈る。
吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。
鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。
見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。今踏まれている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するためにあるのでもない。
闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。
碑文の筆写をほぼ終えかけたときのこと、私はもう一つ忘れられない光景にでくわすことになってしまった。ノートを広げてメモをとる私の姿が気になったらしく、一人の青年がさりげなく近づいてきてすぐ脇に立った。そして、彼はまるでこちらの視線に誘われるかのように、その碑文に目を通し始めたのだった。彼は混血の青年で、地元の大学の学生ではないかと思われた。しばらくその碑文を読んでいたその青年の顔がみるみる複雑な表情に変わっていくのを、そばの私は見逃さなかった。
彼は半ば悲しげな、半ば怒りに満ちた様子で急にプイと石碑に背を向けると、来た道をそのまま引き返して行ってしまった。おそらく辺戸岬の突端に立って海を眺めるつもりで来たのだろうが、彼は岬に行くのを途中でやめてしまったのだ。その原因が碑文にあったことは明らかだった。彼の心中は察するにあまりあるものがあった。もし私の見かけたこの青年が沖縄駐留の米軍軍属と地元沖縄の女性との間に生まれたのであったとすれば、どんなにそれが沖縄の民衆の心を強く訴えかけたものだとしても、この碑文は彼にとって残酷なメス以外の何物でもなかったろう。
沖縄の地で混血として生まれてきた彼には何の責任もない。そして生まれてきた以上、彼は沖縄で、さらには日本国内で生き抜いていかなければならない。しかし、彼の力では如何ともし難い日米間の過去の歴史的背景が様々なかたちで彼を苦しめることになっていく。しかもこの沖縄には彼と同じような境遇の人々が相当数生活していて、その数は現在も一定割合で増加しつつあるはずだった。私が出逢った青年はそれなりに教育を受けている感じだったからまだよかったが、おそらく、十分な教育を受けられないままに苦しんでいる人々も多数あるに違いない。そんな人たちが沖縄で安定した仕事を探すのは容易なことではないだろうと思われた。
祖国復帰闘争碑の向こうにある平坦地を通り抜け、辺戸岬の突端に立つと、北方はるかに与論島の島影がうっすらと望まれた。眼下は隆起サンゴ礁特有の高さ二十メートルほどの絶壁になっていて、青潮が激しく打ち寄せ砕け散っていた。東支那海と太平洋を繋ぐ海峡をはさんで与論島までは二十二キロ、小舟でも二時間足らずの距離だったが、一九七二年に沖縄が日本に復帰するまでは、その間に目に見えない国境北緯二十七度線が引かれていた。
碑文にもあるように、祖国復帰を願う当時の沖縄の人々は年に一度この辺戸岬の広場に集まって大集会を開き、夜には巨大な篝火を焚いて、同様に篝火を焚く与論島の人々と呼応し合ったという。また、辺戸岬近くの宜真名の港からでた小舟の群れは北緯二十七度線を越え、与論島からやってきた小舟の群れと合流し、互いに接舷し灯火を点して祖国復帰実現のための海上集会を催したのだった。
岬から車に戻る途中で喉を潤すために売店に立ち寄ったが、若い売り子の女性たちはやはり混血の人たちだった。これは私の思い過ごしだったかもしれないので、断定はできないが、南部や中部の沖縄観光の中心地からはずれて沖縄北部や北東部に向かうにつれて、白人系より黒人系の混血と思われる売り子が多くなっているのは少々気になった。やはり、そうならざるを得ない何らかの事情が隠されていたのだろうか。
辺戸岬をあとにした私は、沖縄本島でもっとも昔のままの姿を留めているといわれる東北部の海岸線や国頭山地の東側山麓一帯をめぐる道路を走って、中部の宜野座村、金武町方面に抜けることにした。辺戸岬からほどない「奥」といういう集落は、その名の通りに奥ゆかしく、とても静かな集落だった。燦々と降り注ぐけだるいばかりの陽光とは裏腹に、まるで遠い昔に時間が止まってしまったかのように静まり返る家々のたたずまいは、沖縄南部の市街地や中西部のリゾート地帯の様子から想像もできないものだった。
太く厚い筒状の真竹を縦半分に切り割ったような形の赤瓦を丹念に並べ、それらを分厚い漆喰で固めた低い屋根を持つ平屋と、その四方を囲うがっしりとした石垣などは、この地ならではの猛烈な台風にも耐え得ることを想定したものに違いない。長年の生活の知恵としてこのような造りの家々が生まれたのだろうが、周辺の自然や南国の太陽と実によく調和していて美しかった。いくつかの家々の屋根を飾る獅子形の守り神シーサーを仰ぎ見たり、あちこちに咲くブーゲンビリヤやハイビスカスの花を愛でながら、私はしばらく時を忘れて集落内を歩き回った。
奥集落から東寄りにしばらく走って沖縄本島北東端の海岸線に出ると、道は大きく南に向きを変えた。進行方向左手には太平洋が広がり、どこまでも続く無人の浜辺に向かって磯波が静かに、しかし絶え間なく打ち寄せている。いっぽうの右手山岳部の斜面一帯は、亜熱帯性の樹林で深々と覆われ、容易には人を寄せつけない気配だった。
本物の磯浜のみの持ち具えるある種の匂いを潮風の中に嗅ぎとった私は、伊江川近くの海岸で車を駐め、浜辺に降り立った。思った通り、そこにはまったく人手の加わっていない自然の磯浜だった。浜辺一面に無数の白い珊瑚の断片や珍しい貝殻が転がり、すこし沖の遠浅の部分は磯辺に沿って帯状に発達した大小の珊瑚礁群からなっていた。人工的に整備されたリゾート地の恩納海岸や奥間ビーチと違って荒々しく無愛想な感じではあったが、これはまさしく、幼い頃に私を育んでくれたのと同質の、本物の潮の香りと輝きをもつ海と浜辺に違いなかった。
日差しもほどよい強さだし、水も青々と澄みきっていて、水中の生物の息づかいがいまにも聞こえてきそうな感じである。これで泳がない手はないだろう。誰もいないのをよいことに、幼年時代を懐かしみ、生まれたままの姿、すなわち「フリチン」で飛び込んでみたいという想いも一瞬募ったが、己の歳を考えるとさすがにそれは気がひけた。そこで、いったん車に戻って持参の海パンにはきかえ、ゴーグルをはめて出直すと、喜々として無人の海中に飛び込んだ。
「泳げなければ人間でない」というよりは、「潜れなければ人間でない」と村の誰もが考える島育ちの私なので、荒磯での泳ぎや素潜りは得意である。ちょっと沖に出て海中を覗いてみると、予想に違わず大小の美しい珊瑚が群をなして発達していた。珊瑚礁の根元に潜り、藻や海草を掻き分けて貝を探し、人懐っこい色とりどりの魚たちと戯れるうちに、いつしか私はすべての憂いを忘れ去り、なんとも満ち足りた気分になった。調理具を携行していなかったので貝を採るのはやめたが、食べられそうな貝がいたるところに生息していた。
海からあがったあとで潮気を洗い流せる場所は近くにはなかったが、子どもの頃からこの手のことには慣れっこだったから、多少の身体のべとつきは気にならなかった。それどころか、他に人影のない沖縄の美しい海を独占して泳ぎ回るという望外な体験まで積むことができたので、海からあがっても気分は爽快そのものだった。
車に戻って一息ついた私は、次なる目的地、タナガーグムイを目指して再び走りだした。グムイとは川の淀みや滝壺のことである。タナガーグムイは安波川の支流、普久(フークー)川の上流にある秘境で、一帯の湿地や滝壺周辺には国の天然記念物に指定された珍種の植物が群生しているということだった。
1999年6月9日