初期マセマティック放浪記より

53.奥の脇道放浪記(9)遠き日の幻影の中で

八甲田山から下北半島へ

御鼻辺山からの十和田湖の眺めを満喫したあと、我々は奥入瀬渓谷の最奥にあたる子の口まで戻り、奥入瀬川に沿って下ることにした。紅葉で名高い奥入瀬だが、清洌な渓流を包み守るようにして息吹く新緑も紅葉におとらず美しい。緑の魔術に体内の細胞の一つひとつが蘇る思いにひたりながら、十和田温泉郷まで渓谷を下り、そこから八甲田連峰方面に向う道に入った。途中、主道から右手に分れる道を上ると、八甲田連峰を一望のもとに見渡せる高原にでた。まだ午前九時半、晴れた朝のやわらかな太陽に明るく輝く広大な風景を渡辺さんがスケッチする間、私のほうは牛や馬、山羊などがのんびりと若草を喰む姿を眺めていた。あたり一面を濃い黄色に埋め尽すタンポポの花も見ごたえがあった。

主道へと再び合流し、谷地、猿倉を経て八甲田連峰の奥深くを縫う谷筋の道に入ると、残雪の量が急激に増えてきた。六月初めというのにこのあたりはなお冬の終わりから早春にかけての様相を呈している。両側の斜面遥かに続く深い林もまだ厚さ二・三メートルの雪に覆われ、白い眠りから覚めていない。この残雪の多さからするとさきの冬は特別な豪雪だったのだろう。版画にもなっている渡辺さんの絵、「冬の光景」を脳裏に想い浮かべながら、アクセルを踏み続けるうち、車は傘松峠を越え、ほどなく八甲田の名湯、酸ヶ湯温泉に到着した。

酸ヶ湯は長い歴史を秘めた陸奥の古湯で、八甲田山を訪ねる誰もが必ずといってよいほど立ち寄る宿でもある。私自身この温泉の白く滑らかなお湯でこれまで何度旅の疲れを癒したことだろう。むろん、いつも貧乏旅行だから、お湯には入るが宿に泊まったことはない。以前は全体が古く大きな萱葺きの屋根をもつ造りになっていたが、現在は改築されて新しい建物に変わっている。ただ、幸いなことに、青森ヒバで造られた古い浴槽がいくつも並ぶ大浴場は健在で、昔ながらの風情をなおもとどめていた。

とても肌によい弱酸性の硫黄泉のこの温泉を目の前にして、一風呂浴びずに通過するなどという手はない。我々は入浴料を払うとタオル片手に湯気の立ち昇る大浴場へと滑り込んだ。まだ午前十時過ぎだったこともあって、入浴者は少なかった。あり余る湯をふんだんに活かした打たせ湯、寝湯、そして湧きたての湯を満々とたたえた木造りの浴槽が心身を温め安らわせてくれたことは言うまでもない。

宿の食堂で簡単な昼食をすませ酸ヶ湯をあとにした我々は、青森駅にちょっとだけ立ち寄ってから野辺地へと出、そこから下北半島を北上することにした。三内丸山の縄文遺跡を訪ねたいという思いはあったが、下北半島の突端大間崎で夕陽を見ようということになったので、時間の関係上、先を急いだわけだった。

陸奥湾を左手にして一直線に北にのびる国道を快走しながら、私はまた、ずいぶん昔のことを想い出した。当時、この陸奥湾産のホタテにはある種の毒素が含まれているという事実が大々的に報道され、その売れ行きが大きく落ち込んでいた。ひねくれものの私はこの街道沿いのお店をはじめとする下北一帯の何軒かのお店に立ち寄っては、ホタテの刺身やホタテ鍋を驚くほど安い値段でたらふく食べまくった。とても美味しかったことだけがいまも記憶の片隅に残っている。その頃のホタテに毒素が含まれていたのは事実だったが、科学的に考えると、人体に影響が現れるのは、そのホタテを毎日毎日何年にもわたって食べ続けた場合である。一日や二日どんなに大喰いしたってそれが原因で自分の体がおかしくなるなんて考えられなかったし、そんなものより遥かに有害な食品を日常生活の中で相当量摂取していることがわかっていたから、私は少しも臆しなかった。

陸奥市街を抜け、恐山霊場方面へと向う道に入ると、ほどなく道路の両側は暗く深い林に覆われ、いかにもものものしい雰囲気に包まれてきた。そこだけ平地の広がる恐山霊場前の駐車場に着いた時には時計の針はもう午後四時半をまわっていた。青い水を湛えたカルデラ湖、宇曽利山湖の北側に恐山霊場は位置している。恐山を訪ねるのももう何度目かだが、昨夜十和田湖で懐かしく顧みた、いまは遠い幻影の世界の主と共に私が初めてここを訪ねたのは、月の綺麗な秋の夜だった。脇野沢から仏ヶ浦をへて大間崎を巡り、大畑からこの恐山に着いたときには、あたりはすっかり暗くなり、東の空から満月を少し過ぎた月が昇ってきたところだった。むろん、入山受付時刻はとうに過ぎていて、山門付近には他に人影はなかった。だが当時は今と違って霊場内と駐車場を隔てる柵は形ばかりのもので、その気になれば何処からでも簡単に柵間を通り抜けることができた。まだ赤味の残る淡い月明りと光の衰えかけた懐中電燈を頼りに、私は躊躇うことなく霊場内へと足を踏み入れた。端麗な容姿にもかかわらず学生時代「カミソリ」という異名をもらっていたその気丈な女性も、むろん、迷わず私のあとについてきた。

死者の魂があつまり漂うという恐山霊場を夜男女二人だけで歩くなどということは、気違い沙汰だと思われても仕方がない。だが、ネットをもって人魂を追いかけたという寺田寅彦のエッセイに触発され、少年時代、似たような体験を求めて、お寺や神社の裏手、村はずれの墓地などを夜中に歩きまわったことのある私は、それを別段怖いことだとは思わなかった。気丈とはいってもさすがに彼女のほうは緊張を隠せない様子だったが、それでも遅れずについてきた。

赤茶けてごつごつした岩場が高低をなして大きくうねるように広がり、鼻をつく硫黄の煙が四方に漂い、さらには地中のあちこちから熱湯が吹き出している恐山霊場は、昼間訪ねてみても実に荒涼とした感じがする。まして、人の気配の途絶えた夜とあっては、淡い月光に浮かぶその異妖な光景に想像を絶する凄みがあるのは当然のことだった。月が高く昇るにつれて月光は明るさを増し、その中に浮かぶように立ち並ぶ賽の河原の無数の石積みは、それぞれに深く秘める悲しい物語を旅人の我々に切々と訴えかけてくるかのようであった。

黒ぐろとした影を落として地蔵菩薩の立つ岩山の陰を縫う細道を抜け、宇曽利山湖の湖畔に降り立つと、静まりかえった湖面には大きな人魂を想わせる月影が漂うように映って見えた。湖にそって広く長くのびる石英質の白砂の浜辺に二列の足跡を刻みながらゆっくりと歩いていると、突然サーッと風が起こり、それに合わせるようにして、カサカサ、カラカラという奇妙な音がどこからともなく聞こえてきた。彼女が反射的に私の左腕にしがみつく。さすがに私も一瞬背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

気を落ち着けながら不思議な音のするほうへと近づいてみると、砂地の上に立てられた何本もの短い棒状の先端で何かがカラカラと音をたてながら回っている。懐中電燈で照らし出して見ると、なんとそれらは、霊場を訪なう人々が、いまは亡き縁者の霊への鎮魂の祈りを込めて湖畔に立てた風車だった。数知れぬ風車が一斉に回りだしたときに起こる波打ちざわめくような響きは、地の底から涌き上がってくる死者たちの悲哀こもごもの呟きのようにも感じられた。幸いなことに、このなんともけしからぬ霊場徘徊にもかかわらず、その後も我々にはとくに不吉なことは何も起こらなかった。あまりの図々しさに、恐山一帯に漂う霊魂も呆れはて、遠巻きにして眺めでもしていたのであろうか。

胸の奥でそんな遠い日の出来事を想い起こしながら、私は渡辺さんと一緒に恐山霊場の門をくぐった。正しくは恐山菩提寺といい、九世紀頃に慈覚大師円仁によって開基された霊場で、本尊は延命地蔵菩薩である。さすがに今回は受付でちゃんと入山料金も払ったうえでのことだった。霊場で研修や修業をつむ人々のための宿泊施設の脇を通っていると、簡素な造りの「古滝の湯」という温泉棟があるのに気がついた。古びた引戸を開けて中をのぞくと人気はまったくない。長方形の大きな湯舟からはもうもうと湯煙りが立っている。我々は思わず顔を見合せた。恐山霊場で湧き出ていることは知っていたが、こんなところにおあつらえむきの温泉棟があるなんて想像もしていなかった。これを見過ごす手はないとばかりに、すぐさま我々はその中にはいってみた。

だが、そこで困ったことに気がついた。まさか場内で一風呂浴びることになろうなどとは考えてもいなかったから二人ともタオルなどもっていない。仕方がないから下着で体を拭くかなどと話していると、脱衣場の片隅に誰かが置き忘れたらしい古い日本タオルの切れ端が残っているのが目にとまった。薄汚れた色になってパサパサに乾いた、幅十センチ、長さ三十センチ足らずの文字通りのタオルの切れ端だったが、それでもタオルはタオルである。これぞ天の祐けと喜んだ我々は、そのタオルの切れ端を綺麗に洗いなおし、かわりばんこで使うことにした。心理的な高揚感のあと押しもあってか、温泉の湯加減も泉質も素晴しく快適なものに思われた。

温泉を楽しんだ代償として、いきおい霊場巡りは予定に反して駆け足状態になった。閉門時刻が近いうえに、これから落日を眺めるために大間崎まで行かねばならない。とりあえず大急ぎで宇曽利山湖畔まで行ったあと、なんのための恐山詣かわからぬ有様のまま車に駆け戻り、五時半ぴったりに大畑方面に向って猛スピードで走りだした。「恐山心と見ゆる湖を囲める峰も蓮華なりけり」と詠んだ歌人大町桂月の静かに澄んだ精神などこのときの我々二人にはまるで無縁のものだった。

舗装はされているが左右にくねる山道をタイヤをきしませながら走り抜け大畑に出ると、そこから津軽海峡沿いの道を西に向って爆走することになった。西へと傾く太陽とのカー・チェイスは、サロベツ原野へと続く天塩川沿いの国道で経験して以来のことだった。ほぼ七時くらいと思われる大間崎の日没時刻に間に合うかどうかぎりぎりのところだったので、私は思いきりアクセルを踏み込んだ。

自分で言うのもなんだが、いざというときの私の車の運転技術には知人たちの間でもそれなりの定評がある。以前ちょっとした事情があって信州中房温泉の急峻で狭くカーブの激しい山道を猛スピードで走り下った折、渡辺さんも私の運転テクニックのほどは体験済みだった。そのせいもあってのことだろう、助手席の渡辺さんは平然としたものだった。もっとも、そうはいっても四輪駆動のディーゼルエンジンワゴン車は、もともと高速運転を想定して設計された車ではない。だから、高速走行中の車体のバランスや、走行能力からいっても、一般道では最高でも瞬間的に時速百二十キロくらいを出すのが限度ではあった。

それでも、津軽海峡をはさんで薄霞む北海道の島影を右手に望みながら、西へ西へと早足に逃げる太陽を追いかけるスリルはなかなかのものだった。ハンドルを左右に切り、アクセルを煽り立てながら、スピードメーターの針を頼りに大間崎到着時刻を算定すると、やはり日没時刻ぎりぎりである。大間崎がかなり近づいた頃、行手の路地から二台の乗用車が現れ、我々の車の前方をやはり猛スピードで走りだした。どうやら、それらの車も夕陽を追って岬方面へと向っているらしい。三台の車は轟音をたてて夕陽の街道を疾走した。

どこかうらぶれた感じの大間崎には午後七時ぴったりに到着した。本州最北端の地であることを示す大きな碑の向うに初夏の太陽が幾筋もの赤い雲の帯を残して沈んでいくところだった。太陽とのカーチェイスに勝ったという満足感と、それに伴う快い疲労感に身を委ねながら、我々はしばし沈黙して落日の軌跡に見入っていた。津軽海峡をはさむ北西の方角には、函館山の特徴的な山影がくっきりと浮かび聳えて見えた。

渡辺さんがスケッチをする間、私はまた、その鋭い知性のゆえに「カミソリ」という異名をもつくだんの女性との遠い日の旅のことを想い出していた。すらりと伸びた肢体をこころもち傾げながら、長い髪を陸奥の秋風に揺らせて立つ美しいその姿は、すぐにも強く抱きしめたいという激しい衝動を若い私の胸中に生みもたらしてなお余りあるものだった。あのときは、大間崎から大畑を経て恐山に向うという、今回のコースとは逆のコースをとった。だからその前日の夕刻は陸奥湾沿いの道を陸奥市から、下北半島西南端に位置する脇野沢を目指して走っていた。季節も、若緑の瑞々しく輝く初夏ではなく、晩秋近くのことだった。

哀しいほどに赤い太陽が西空に姿を隠すと、津軽半島側一帯の夕空は神々しいばかりの黄昏色に包まれた。金色に澄んだ紫と緑を溶かし込んだようなその空を仰ぎながら、我々は二人だけの時を刻む時計の針を止めた。行手に確たるものは何もなかった。いや、もとより何もないことは二人とも承知だったし、だからこそその一刻一刻がどこまでも切なく、震えるほどに美しいこともわかっていた。

評論家好みの言葉を借りれば、それは対幻想の生みをもたらす一つの幻影だったということになるのだろうが、人生という旅路を通して人間が心の奥にためこむ宝石とはもともとそんな幻が凝縮されたものに違いない。現実という名のもうひとつの幻想が崇めたてる「財力」や「地位権力」などによっては得ることのできない宝石だってやはりこの世には存在する。対幻想が生み出す宝石と、現実という名の常識幻想がもたらしてくれる宝石とは少なくとも等価とは言えるだろう。車外で絵筆をとる渡辺さんの後ろ姿を遠い眼で見やりながら、私は内心そんな想いに駆られていた。

渡辺さんがスケッチを終え車に戻るのを待って我々は大間崎を出発した。もう午後七時半頃になっていた。大間からは脇野沢方面には南下せず、再び大畑まで戻り、陸奥市街を抜けて三三八号線に入った。下北半島の東岸をいっきに南下しようという訳である。この道路は、陸奥・小川原総合開発事業と原発の廃棄物処理問題で全国的にその名を知られるようになった六ヶ所村を突き抜けて三沢方面にのびている。すっかり暗くなってしまったので、周辺の景色は闇に包まれてしまったが、ときおり左手に黒々と広がる太平洋と洋上を航行中の船舶の航海灯らしいものが見えた。六ヶ所村が近づく頃にはお腹もすいてきたので、我々は道路脇のスペースに車を駐め、コンビニで買い求めた食材をもとに簡単な夕食をすませた。

六ヶ所村一帯にはもっとも大きな小川原湖をはじめとして大小の湖沼がいくつもある。太平洋と川で直接つながるものは、現在ではすっかり近代的に整備され、陸奥小川原港として地元の総合開発事業を支えている。原発廃棄物処理施設の建造もその事業の一環なのだ。いかにも新興の工業地帯らしい建造物の間を縫って国道三三八号は南へとのびている。無数の照明に彩られる夜の工業地帯というものは、醜悪な部分が闇の奥に隠されてしまうせいか、見方によっては妙に美しい。再び南下をはじめた我々は、社会の負の部分をすべて明るさの奥へと押し隠してしまう現代日本の象徴のような光景の中を、複雑な想いを胸に抱きながらいっきに走り抜けた。

三沢基地の東部を過ぎ、八戸市の北に位置する百石町付近まで南下を続けたが、そこでひどい睡魔に襲われたため、国道脇のパーキングエリアに駐車、翌朝まで眠ることにした。早朝から休みなく動きまわったせいで疲れがピークに達していたのだろう、我々は崩れ落ちるようにして深い眠りに陥った。
1999年10月27日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.