初期マセマティック放浪記より

32.ある沖縄の想い出(4) 琉球侵略と初代在番奉行

中国との地理的歴史的関係が深く、南海交易の要所だった琉球諸島は、経済的にも莫大な価値があり、生前、豊臣秀吉も琉球を支配することを夢見ていたという。関ケ原の戦いで豊臣方を破り、江戸幕府を樹立した徳川家康にとっても、琉球を支配下に置くことは願ってもないことであった。

ただ、当時、琉球王朝は中国(明)との結びつきが強くその庇護下にあったうえに、江戸の徳川幕府が自力で直接支配するには地理的にあまりにも遠すぎた。政権を樹立したばかりの江戸幕府には、琉球への侵攻は経済的にも物理的にも困難だったのである。またかりに直接の侵略が可能だとしても、守礼の国として知られる琉球を武力で支配すれば、琉球の人々からばかりでなく、国内外からも少なからぬ反感を買うだろうことは目に見えていた。

そのため、徳川幕府が選んだ方策は自らは労することなく琉球を間接支配することでああった。すなわち、薩摩島津藩に琉球を侵略支配させ、薩摩藩の手を介し、琉球の生み出す富や文化の粋を間接的に略取することを考えたのである。慶長十四年(一六〇九年)の薩摩藩による琉球侵略は、表面的には薩摩藩の単独行為に見えたけれども、黒幕はほかならぬ徳川幕府で、その支持と承認があってはじめて可能だったのだ。琉球支配後、薩摩藩が失政をおかせば直ちに改易し、幕府中枢に近い大名を送り込んで、外様大名島津の従来の所領のほか琉球諸島をも合わせて統治せんとする思惑も隠されていたに違いない。

関ケ原の戦いに豊臣方として出陣しながら、石田三成と用兵戦略をめぐって対立したあげく、戦いに利なしと判断した島津勢は、ついに一戦を交えることもなく東西両軍の戦闘が終わるのを見届ける。小早川の徳川方への寝返りと、勇猛果敢で知られた島津勢の不戦が豊臣方敗北の要因とも言われるが、もしかしたら、小早川にばかりでなく島津に対しても、老獪な家康からの秘密裏の工作などがあったのかも知れない。激闘のさなか中立をかたくなに守った島津の軍勢は、勝利を収めた徳川方の多数の軍勢の真っ直中を粛然として行軍踏破し、最小限の犠牲を払っただけで奇跡的に薩摩に帰還した。

徳川幕府成立後、外様大名に列せられた島津の表向きの禄高は加賀前田藩につぐ七十三万石であったが、シラス土壌が多く台風などによる被害の絶えない薩摩の米の生産力は低く、実質的には高々三十数万石に過ぎなかったし、米質もそう良くはなかったようである。土壌的に恵まれない薩摩の民人の暮らしは貧しく、士族階級といえどもその生活は苦しかった。のちに琉球経由で持ち込まれた甘藷(サツマイモ)はたまたまシラス土壌にも強い作物だったため、食料窮乏の際の救いとなったことはよく知られているところである。

わずかな失政があったり、幕府に対する知行高相応の儀礼や賦課、賦役などに不備不足が生じたりしたら改易必定だった外様の島津は、藩の維持防衛に必死であった。外様大名の参勤交代の制度が正式に定められるのは関ケ原の戦いから三十五年ほどのちのことであるが、徳川幕府成立当初から、江戸城への表敬参内や藩存続のための幕府有力筋への工作などには莫大な費用が必要だった。また、のちの薩摩藩による木曽川治水工事にみるような、藩の財政を圧迫する法外な賦課や賦役、理不尽な各種難題などが先々持ちかけられるだろうことは目に見えていた。

幕藩体制が確立し参勤交代が制度化されてからというものは、江戸屋敷の維持、諸々の祭事儀礼、各種賦課、参勤交代の行列などにおいて、実禄高をはるかに超える知行禄高相応の格式を要求されたため、途方も無い費用が必要となった。島津をはじめとする九州の諸大名は、参勤交代の際、川止めが多く莫大な逗留費のかかる東海道を避け、たいていは中山道を通ったようであるが、東海道を選んだ場合などは大井川ひとつ渡るにも大変な費用がかかったのである。

たとえば、禄高十万石の格式の大名は参勤交代の際に三百人ほどの行列を組むことを義務づけられていたが、この行列が大井川を渡るだけでも、現在の貨幣価値に換算して千五百万円ほどの費用を要したという。七十三万石の薩摩藩などは、従者の数は二千人近くにものぼり、しかも、鹿児島から江戸まで千数百キロもの旅をしなければならなかったから、そのための費用だけでも驚く程の額にのぼった。しかも参勤交代の旅に要する経費の大半は主要街道に沿う徳川親藩や譜代大名の収入となり、間接的に徳川幕府に還流してその財政を潤した。華麗な江戸文化や京都文化の繁栄はそういった経済構造に支えられていたのである。

そのいっぽう、外様大名の領民は重税や賦役に苦しみ、士分といえどもその多くは禄を極度に低く抑えられ、薩摩藩にみる郷士制ように、平時は農耕に従事しながら厳しい生活を送っていた。薩摩人の美徳ともされた「質実剛健」という言葉は、聞こえだけはよいものの、そんな気風が奨励された背景には、生活苦と戦うことを余儀なくされながらも気概だけは高くもつことを求められる領民の隠された姿があったのだ。

幕藩体制成立直後の薩摩藩が、領内の限りある歳入のみに頼って、先々予想される幕府の様々な要求や締めつけに対応していくことは困難だった。そんな薩摩にとって唯一の方策は、中国や東南アジアとの密貿易を含む南海交易を通して利益をあげることであり、その最大の目玉となるのが、ほかならぬ琉球諸島の支配であった。

薩摩藩による琉球侵略が行われたのは、徳川幕府と薩摩藩の利害に関する思惑がたまたま一致した結果にほかならない。一般的な歴史書などでは横暴いっぽうの薩摩藩が自藩の利益のためのみに琉球を侵略したように記述されているが、実際の黒幕は徳川幕府であり、薩摩藩が琉球支配によってあげた利益の大半を陰で吸い上げたのも幕府や幕閣筋であったことを忘れてはならない。

慶長十四年(一六〇九年)三月、総勢三千余の薩摩軍は百隻ほどの軍船に分乗、琉球侵攻のため薩摩半島先端の山川港をあとにした。樺山権左衛門久高を総大将とするこの薩摩軍の指揮官のなかに物頭(ものがしら)を務める一人の人物があった。物頭とは軍の鉄砲組、弓組を指揮する役職である。山川港からの出陣に際し薩摩の従軍将士に対しては、「一般の民人に狼藉をはたらくな、神社、仏閣、堂宇などを荒らすな、各種経文、文書などを大切にせよ」という三つの軍律が布告されていた。

しかしながら、ほとんど抵抗をうけることなく琉球一円を制圧した薩摩軍の将士たちは、この軍律を破って民人に狼藉をはたらき、文物を荒らしてはそれらを略奪した。「この役において将士すこぶる律令を犯す」(南聘紀考)、「家々の日記、代々の文書、七珍万宝さながら失せ果つ」(喜安日記)などと当時の状況を記した文書にも残されているように、薩摩軍の暴挙は目に余るものがあり、当然、琉球の民心には強い反島津の感情が湧き起こった。

ただ、そんな薩摩の将士のなかに、軍律を遵守し、琉球の人々の生命と生活の安全に努め文物の保全に尽力しようとした一人の人物があった。それが先に述べた薩摩軍の物頭である。民心のなかに高まる反島津の感情を抑え、地元との宥和をはかる必要に迫られた薩摩は、慶長十四年九月に本土へ軍勢を引き上げたあとも、軍律を厳守し琉球の民心にも通じたその物頭を現地に留め、初代琉球在番奉行の任に当たらせる。言うなれば、彼は、沖縄占領後、同島の行政に携わった米軍の軍政司令官と同じ役職に任じられたわけだった。

いくら人徳があり軍律を守ったからといっても所詮徳川幕府や島津の命令の代行者に過ぎなかったわけだから、すくなからぬ損失やゆえなき圧政を琉球にもたらしただろうことは想像に難くない。侵略者の手先であるかぎり、琉球の民人にとって迷惑な存在だったことは疑う余地もないからだ。ただ、当時の幕府や薩摩藩の支配構造の許すかぎりにおいて、地元との宥和をはかるべくその人物なりには力を尽くしたようである。琉球侵攻から二年後の慶長十六年(一六一一年)に「掟十五ヶ条」という法度が薩摩から琉球王朝に申し渡されるまでの間、彼は首里にあって在番奉行を勤めあげた。

掟十五ヶ条は、琉球王朝が遵守すべき事柄を厳格に定めたもので、その最大の狙いは琉球王府の対外貿易権を統制し、主に対明貿易の利益を独占することであった。以後琉球は与論島以北の奄美諸島を薩摩に割取されたばかりでなく、完全な薩摩の植民地となり、様々なかたちで税の上納を強要された。ただ、明への進貢貿易の必要上、琉球王朝の明王朝との冊封関係(明に使節を派遣して貢ぎ物などの礼を尽くし、その見返りに明王朝から庇護をうけ、多大の利益を保証される関係)は容認されるいっぽで、明王朝に対しては薩摩と琉球王朝の関係は隠蔽されたままになった。要するに琉球は二重支配の状態におかれたわけである。

また、幕府に対しては徳川将軍の代替わりのときには慶賀使を、琉球国王の代替わりのときには謝恩使を江戸まで送ることが義務づけられた。これは江戸上りと呼ばれ、一六三四年から一八五〇年までの百年までの間に十八回もの使節団が派遣されている。幕府への莫大な貢ぎ物に加えて使節団の旅する距離が長大なだけに、その負担は大変なものであっただろうと想像される。徳川幕府は、薩摩藩を通じての間接的な利益吸収のみにとどまらず、折々直接的な利益に預かろうと企てるとともに、自らの権威を広く国内に知らしめるため琉球王朝を利用しようとしたのであった。

徳川の旗本の系譜を汲むというある人物が、かつて薩摩は琉球を侵略したと、いくつかのメディアで厳しく断じているのを目にしたことがあるが、それはかなり一方的な見方だと言えないこともない。なぜなら、陰でその片棒をかついでいたのは旗本たちを召し抱える徳川幕府であり、琉球から収奪された富がめぐり流れて潤したのは、貧しい薩摩の領内ではなく、火事と喧嘩が売り物の江戸だったからである。

初代の琉球在番奉行といえば聞こえはよいが、要するに琉球傀儡王朝樹立のための体のいい手先となった問題の人物は、琉球侵攻の二年後に鹿児島に召喚される。そして、今度は、鎌倉時代以来の支配者小川一族が改易になったあとで、人心が乱れて治安が悪く、流人や異国船の出入が絶えなかったという島津の直轄領、甑島の初代移地頭に任命された。甑島とは、かつて私が育った東支那海に浮かぶ島である。歴史資料のなかの文書には、「甑島は鹿児島より遠いため、普通の者を派遣したのでは勝手なことをしかねず、とても信頼がおけない。そこで慎重に人選をした結果、先年、琉球で軍律を守り貢献のあったその人物を甑島に送ることにし、緊急に同島に移るように申し渡した」といった主旨の記載がある。

信頼が厚かったからとはいうものの、功労があった割には遠い島から島への移封であり、しかも当時の記録で見るかぎりその職務の重さに比してその禄高は驚くほどに低かった。彼には藩のそんな人事と条件をのまざるを得ない事情があったのかもしれないと思った私は、古い文献を調べその一族のルーツをすこしばかり探ってみた。

源頼朝とその側室との間に生まれた島津忠久は、文治二年(一一八六年)頼朝より薩摩、大隅、日向の三国の守護職に任ぜられるが、忠久自身は大番役を務めるために都にあった。そのため忠久は一人の直臣を所領に送り領内を治めさせた。派遣された直臣は忠久に代わってその三国を平定し領内の所々に城を築いたあと主君を迎えに上洛、忠久に従って再び領国へと下った。

島津忠久が薩摩の守護職に着くと、その直臣は忠久より、現在の鹿児島県国分市を中心とする大隅一帯の統治を任じられ、南北朝以降になるとその直臣代々の後裔は大隅国守護代として一帯を治めるようになった。大隅にいるにもかかわらず信濃守を名乗る当主が多かったその一族は、国分清水城を本拠地にしてその地を治め、大きな勢力をもつに至ったらしい。地理纂考によるとこの一族は諏訪大社の大宮司一族とも同族であったという。しかし、大隅の統治についた初代から十代目にあたる董親とその子の親兼は天文十七年(一五四九年)に主家に謀反、島津貴久の命をうけた伊集院久朗の軍に攻められて日向の庄内(現在の都城)へ逃走、それがもとで一族の主家や分家は離散衰退し、島津藩史の主流から姿を消す。

菫親、親兼父子が権力を傘に横暴な圧政を行い、それがもとで一族内部に対立が起こり、やがて主家の島津に対する謀反にまで発展したと藩史などには記されている。記録に残っているような事実も確かにあったようだが、島津一族の島津右馬忠将がそのあと大隅の地頭に任命されているところをみると、一族の内紛に乗じ、謀反という名目で追い落としが計られた可能性も高いし、なんらかのかたちで守護家島津一族の勢力争いに巻き込まれた可能性もなくはない。

没落衰退はしたものの、それでもなおこの一族の一部は国分の地に生きのび、五十年ほどのちになってその係累の中から現れたのが初代琉球在番奉行になった人物であった。彼は秀吉の朝鮮出兵の際、島津軍の一員として高麗に遠征、また、関ケ原の戦いのあと島津義弘を無事薩摩に帰還させるために大きく貢献し、義弘より藤島の太刀を拝領するとともに、五十石の知行を得た。むろん、前大隅守護代謀反の汚名のゆえに、残された同族の者たちにはかつての栄光や権威にすがることなど許されようはずもなかったろう。だから、ささやかでも家を守るには与えられた機会を最大限に活かし、命懸けで功をたてねばならなかったに違いない。その人物が琉球の文物の重要さを熟知し、抑圧される琉球の民衆の心を十分に解し得たのは、自らの置かれたそんな状況に加え、その一族に代々伝わる文物尊重の気風ないしは家風みたいなものがあったからかもしれない。

甑島の初代移地頭に任じられ、地頭としては驚くほど微禄としかいいようのない知行を得たその人物、本田親政は、補佐役で一族の本田八左衛門と共に甑島に渡る。そして彼らは、慶長年間に甑島に配流された大炊御門中将藤原頼国、松木少将宗隆の公家二人が最後に暮らした上甑島里村の屋敷に居し、その職務を全うした。本田親政のほうは寛永十五年甑島から鹿児島に戻り翌年に他界する。甑島に残ったほうの本田一族は、両公卿の墓を代々守るとともに、その遺児や子孫と血縁関係をもつにいたったようである。明治初期外相を務めた寺島宗則は、のちに甑島から鹿児島県阿久根市脇元に移った松木家の出身である。

両公卿の甑島での生活ぶりを偲ぶ文物や当時の事情を詳しく記した文献などはなにも残されていないので(おそらく藩命で没収されたものと思われる)明確なことは定かでないが、鎌倉時代薩摩に下る以前の本田一族のルーツとの関係が背景にあって、そのような縁が生まれたのかも知れない。

本部半島の嵐山展望台から羽地内海を見下ろし、運天港に上陸した薩摩の軍勢のことを想い浮かべたとき、突然に記憶の古層から甦ったのは、ほかならぬ本田親政という名前だったのだ。実を言うと、親政が鹿児島に戻ったあと甑島に残った本田一族は私の先祖であり、いまは草蒸し荒れ果てた屋敷跡になっているが、彼らが四百年近くも前に暮らしたのと同じその場所でこの私は育ったのだった。

遠い昔のこととはいえ、幕府や薩摩藩の代弁者となって尚寧王の琉球統治に干渉し、琉球の人々に多大の迷惑をかけた一族の末裔の一人がほかならぬこの身だということが判明し、私はなんとも遣る瀬無い複雑な心境になってしまった。沖縄にやって来るまでは、こんなかたちで否応なく己のルーツをたどらされ、あげくのはてに衝撃の事実を確認させられることになろうとなどは夢にも思っていなかった。一連の事態は、まことにもって天のいたずらとでもいうほかないものであった。
1999年6月2日

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