初期マセマティック放浪記より

82.高ボッチ山にて

いま五月五日の午前二時、私は標高一六五五メートルの高ボッチ山頂に立っている。気温は零度に近く、頬をなでる大気は冷たいが、頭上には満天の星空が広がり、はるかに仰ぎ見る銀河の流れが美しい。三百六十度の展望がきくこの頂きの空はとにかく広い。北西方向の眼下には塩尻から松本にかけての市街地の明かりが幾何学模様を描いて綿々と連なり、南に視線を送ると、諏訪から岡谷にかけての民家の明かりが、そこだけ暗い諏訪湖の湖面を取り巻くようにして輝いているのが見える。

北の空を見上げると、右下に向かって大きく柄杓を傾けた感じの北斗七星と、すこし変形気味のW型をしたカシオペア座が静かな輝きを放っている。都会などではなかなか見分けにくい北の一つ星「北極星」もはっきりと見える。四百光年ほど離れたこの星は、その光のスペクトル分析から、実際には三つの星が互いに回り合う三重連星だろうと推定されている。

南天に目を転じると、サソリ座がその大きくのびやかな姿を見せている。サソリの心臓の異名をもつ一等星アンタレスの赤い輝きがひときわ明るい。五百光年の彼方にあるこの星は、太陽の七百倍もある赤色超巨星で、すでにその生涯の最終期を迎えている。大膨張にともなって密度は真空に近い希薄になり、表面温度も下がっているため、遠くから見ると赤く見える。やがては急激な収縮に転じ、超新星爆発を起こす運命にあると言われている。

あらためて天頂方向を眺めやると、天の川をはさんで、織姫と牽牛がその悲恋の物語を訴えかけるかのように青白色の澄んだ光を発している。織姫と牽牛との年に一度の逢う瀬は夏の七夕前後の宵空と世間では相場がきまっているのだが、実は、この二人、四月から五月の頃は草木も眠る丑三つ刻の深夜にデートを重ねているのである。もっとも、二人の間を隔てる天の川の水はけっして涸れることがないのだから、デートとはいっても、お互い別々の岸辺に立って名を呼び合うことが許されるだけで、実際に抱擁し合うことは難しい。そんな二人を隔てる天の川のただなかにあって翼をいっぱいに広げているのは白鳥だ。たまには織姫を背中に乗せて牽牛の立つ対岸へと運んでやってもよさようなものだが、その美しい姿に似合わず、白鳥はなんとも薄情なようである。

織姫はヴェガと呼ばれる琴座の主星で、北天では最も明るい〇・一等級の光度をもつ。二十五光年という割合近い距離にあり、我々の住む太陽系全体は、現在、銀河系内をこの星のあるほうへと向かって動いている。牽牛は鷲座の一等星アルタイルで、十六光年とやはりその距離は近い。直径は太陽の一・七倍程度だか、太陽の百倍以上の速度で自転していることがわかっている。白鳥座でひときわ目立つのは一等星のデネブだが、この星は直径が太陽の六十倍、質量も二十五倍ある白色超巨星で、現在猛烈に活動中である。ただ、その寿命は一千万年と星としてはきわめて短く、やがて超新星爆発を起こし、ガス化ないしはブラックホール化する運命にあるという。距離は一八〇〇光年で、ヴェガやアルタイルに較べるとかなり遠い。

ヴェガ、アルタイル、デネブの三星を繋いでできる図形は「夏の大三角形」と呼ばれているが、実際には他の二星に較べデネブだけが遠いところにあるわけだ。星が南中する時刻は毎日四分くらいずつ遅くなるから、この深夜に山上で私が眺めている星空は、真夏時の宵の刻に見られる詩情豊かな星空に相当していることになる。
  壮大な宇宙のドラマは人知をはるかに超えている。しかしながら、たとえどんなに宇宙のドラマが荘厳かつ壮麗であったとしても、その神秘のドラマに感動できる「意識の主体」がなかったならば、宇宙の存在はつまるところ無に等しい。そこにはただ、漆黒の闇がはてしなく広がるばかりなのである。小さな小さな存在ではあるけれども、人間というものは宇宙が自らを映し見るためのささやかな鏡の一つにほかならない。壊れやすい歪んだ鏡かもしれないけれど、そして永遠に完成することのない鏡かもしれないけれど、我々人間が実存する意義はそれなりにあるのだろう。

我田引水めいた話になって恐縮だが、かつて私は、そんな想いを込めながら、「宇宙の不思議がわかる本」(三笠書房、知的生き方文庫、菊山紀彦氏との共著)という本を書いたことがある。出版社の意向によってつけられた大仰なタイトルには、正直なところ筆者の私自身も少々恥ずかしさを覚えるが、それでも、一般読者の方々に最新の宇宙科学の全容をなるべくわかりやすく伝えることができるように、サイエンスライターとして最大限の努力は傾けた。近代宇宙科学史としても読めるようにそれなりの工夫を凝らしてもある。一章から五章までは私の執筆、六章と七章は共著者の菊山氏(元種子島及び筑波宇宙センター所長)の講演や新聞原稿を私が整理、再文章化したものだが、現在も入手可能なので、もしご一読いただけるならば幸いこのうえないことである。

高ボッチ山は安曇野南部の塩尻市の東方に位置している。私は昔から高原状に広がるこの山を幾度となく訪ねてきた。かつてはダートだった道も近年はすっかり整備が行き届き、車でのアプローチも容易になった。山頂近くの駐車場からゆるやかな斜面を少しだけ歩いて登り頂きに立てば、文字通り三百六十度のパノラマを満喫することができる。すぐ近くにはちょっとした牧場もあるし、夏季には山頂一帯に咲き乱れる各種の高山植物の花々も楽しめる。信州の高原というと美ヶ原のほうが有名だが、私は、訪れる人の少ないこの高ボッチのほうが好きである。高ボッチ山のすぐ隣には二千メートル弱の標高をもつ鉢伏山もあり、高ボッチから車で二十分ほど走り、そこからさらに二十分ほど歩いて登るとその山頂に立つことができる。

星空の観察にはもってこいの高ボッチ山や鉢伏山だが、いまひとつ掛け値なしに素晴らしいのが、その頂きからの眺望である。天候にさえ恵まれれば、日本にある三千メートル級の山々のほとんどを眺めることができるのだ。とくに四月初旬から五月にかけてと晩秋から初冬にかけての展望は抜群だ。三月頃までは残雪のため中腹から上の道路がアイスバーンしているので、途中から歩かなければならないが、その苦労を厭わないなら、もちろん息を呑むような周辺の雪山の景観を一望のもとにおさめられる。その時期なら人跡のまったくない純白の乾いた雪に自分だけの足跡をしっかりと刻むこともできる。

時刻はいま午前五時……二時間ほど車に戻って仮眠したあと、私は再び高ボッチ山頂に佇んでいる。山頂への歩道には霜柱が立ち、吹きぬける風こそ冷たいが、明るみはじめた空には雲の影一つないから、最高の眺望が期待できそうだ。東の空が明るみ、赤紫から深紅色、そして黄紅色へと朝焼けの色が変わるにつれて、残雪を戴いた遠くの山々が美しい姿を現しはじめた。期待にたがわぬ壮大な眺望である。

北東の方向はるかなところには浅間山の特徴的なシルエットがうっすらと浮かんで見える。東の方角では頂上を平にスパッと切り取ったような形の蓼科山がその存在を誇示しはじめた。蓼科山には学生時代に一度だけ登ったことがあるが、遠くから見ると平らに見えるその頂上一帯が大小の溶岩で埋め尽され、想像とは裏腹にひどくゴツゴツした地形になっているのは驚きだった。蓼科山の右手にあって長く大きな山容を東南方向へと連ねているのは、横岳から天狗岳、赤岳、権現岳、編笠山と続く八ヶ岳連峰である。まだ頂上一帯を覆っている残雪がほのやかなピンクの輝きを発しはじめた。向かって一番右端に位置する編笠山の雄大なスロープはいつ眺めても美しい。初冬期の八ヶ岳を縦走した遠い日の懐かしい情景が、この時とばかりに記憶の底から甦ってきた。

編笠山とその右手に連なる南アルプス連峰との間は大きく落ち込んでいて、その鞍部の向こう側には富士山がいつもながらの秀麗な姿を見せている。鞍部のあたりが甲州街道の富士見峠で、その手前に広がるのが諏訪湖を中心とする諏訪盆地だ。八ヶ岳連峰南端の編笠岳を露払いに、また南アルプス北端の甲斐駒ケ岳を太刀持ちにした朝の富士山の土俵入りが眺められるのは、この高ボッチならではのことなのだ。甲斐駒ケ岳から、鳳凰山、仙丈岳、北岳、間の岳と連なる南アルプス連峰の頂きは、まだ真っ白である。雪のなくなったこの高ボッチ山の植物群だってまだ半ば眠った状態のままだから、南アルプス連峰の頂上近くのあの豊かな高山植物群落は雪の下でいまなお深い冬の眠りについているに違いない。

朝の大気が珍しいほどに澄み渡っているせいで、今朝は南方にはるかに中央アルプスの空木岳や木曽駒ケ岳の姿も望まれる。もちろん、その峻険な頂き一帯は東の空に昇りはじめたばかりの太陽の光の中で鮮やかな紅白色に輝いている。木曽駒ケ岳の宝剣直下のカール斜面には、スキーやスノーボードの得意な若者達が今日も多数集い、残雪の上でその名人芸を競い合うことだろう。木曽駒ケ岳のすこし右手、南西の方向にあって、巨大な白銀の王冠を連想させる独立峰は、いうまでもなく木曽の御嶽山だ。御嶽山麓の開田高原や檜で知られる赤沢の美林は過去幾度となく訪ねたことがあるし、御嶽山頂にも二度ほど立ったことがある。

真西の方角には乗鞍岳がその雄大な姿を見せている。高ボッチ山から眺めると、たしかにその形は大きな白銀の鞍にそっくりだ。乗鞍岳から南側に延びる稜線の低くなったあたりは、たぶん女工哀史で有名なあの野麦峠だろう。野麦峠からも冠雪期の乗鞍岳を見上げるようにして眺めたことがあるが、やはり馬の鞍型に似ていると感じたものだ。頂上近くまで車道が通じているから何時でも登れると考えていたせいだろう、私が初めて乗鞍岳の頂きに立ったのは比較的近年の夏のことで、その時からまだ十余年しかたっていない。広い駐車場から歩いて二、三十分ほどのところにある最高地点は意外に狭く、脆い土壌で覆われていたように記憶している。

東から昇った太陽の高度が徐々に上がるにつれて、眼下の安曇野をはさんで北西方向に聳え連なる北アルプスの連山が、長大な稜線を明るいピンクに染めながらくっきりと浮かび上がった。高ボッチ山から眺める一大パノラマの主役は、なんといってもこの北アルプス連峰の三千メートル級の山々である。正面に位置する穂高から、北に向かって槍ヶ岳、常念岳、大天井岳、燕岳、烏帽子岳、蓮華岳、鹿島槍ヶ岳、さらには五龍岳、唐松岳、白馬岳と連なり聳える峻険な山並みの迫力は圧倒的の一語に尽きる。なかでも、常念岳や大天井岳のさらに西奥に位置する槍ヶ岳の雄姿を直接目にすることのできる場所は安曇野側には少ないだけに、今朝のように槍ヶ岳がはっきりと見える日は感動もひとしおだ。

いまではもうそれだけの気力も体力も残ってはいないが、かつて私は若さにまかせてそれらの峰々のすべてを踏破した。穂高、槍、白馬にいたっては、登頂したのは一度や二度のことではない。冬の白馬の山頂近くでは、予想外の急激な天候変化に伴う猛吹雪に遭遇、一週間近くにわたる雪洞内でのビバーグに辛うじて耐えぬき、九死に一生を得たこともあった。善くも悪しくもまだ若さに満ち溢れていた時代の様々な想い出にひたることができるのも、この高ボッチならではのことだろう。明るさと暖かさを増す陽光に身を委ねながらそんな回想に耽っているうちに、いつしか、白く輝く峰々から、「お前もすっかりおとなしくなったなあ」と囁きかけられているような気分になってきた。

白馬の見える北の方角からわずかに東寄りに視線を転じると、異様な岩峰で知られる戸隠山のものと思われる山影がかすかに望まれる。そして、そのさらに少し右手のすぐ近いところにあって、まるく大きな山体を見せているのが鉢伏山だ。美ヶ原高原はちょうど鉢伏山の陰になっているため高ボッチからは直接にその景観を望むことはできない。

いったん駐車場の車中にもどり、北アルプスの山々をなお窓越しに仰ぎながら原稿に一区切りつけると、軽い朝食と紅茶で身体を温めため、それからしばらく睡眠をとった。目覚めた時にはもう正午を少し過ぎていて、北アルプスの峰々の輝きはすっかり青みを帯び、すこしばかり霞んだ感じに変わっていた。安曇野一帯の地表の温度が上がり、水蒸気を含んだ上昇気流が生じているためである。いまはまだ大気に含まれる水蒸気の量が少ないためこの程度ですんでいるが、もう一ヶ月もすると、たとえ晴天であってもこの時刻に北アルプスの山並みを眺望することは難しくなってくる。

鉢伏山方面に向かって稜線伝いに車を動かす前に、私は眼下に見下ろす松本市街の一隅にある岩井澄夫さんという方のアトリエに電話をかけた。高ボッチ山から松本方面に下ったあと、アトリエを訪ね、そのユニークな彫刻作品群を拝見させていただこうと思ったからである。自らは山の頂きにありながら、はるかに見下ろす広大な盆地のどこかに位置するという先方のお宅に電話をかけるというのは、なんとも申し訳ないような奇妙な気分のするものだった。
2000年5月17日

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