五月のある晩のことである。何気なく玄関の扉を開けたその家の人は、眼前の光景に仰天し、そのまましばし絶句した。なんと孔雀が、あの青緑色の羽をもつ孔雀が一羽玄関先に立っていたからだ。時刻は夜の八時頃、場所は競馬で名高い府中市の繁華街に近い住宅街、どう考えてみても、それは断じて起ころうはずのない事態であった。当の孔雀は怯える様子などまったくみせず、コンバンワとでも言いたげに玄関先にじっと佇んだまま動こうとしない。どうしたらよいのかわからなくなってしまった家の人は、その孔雀がどこかへ立ち去るだろうことを願っていったんそっと扉を閉めた。むろんフィクションでもなんでもない。実際にとある私の知人宅に降って湧いた一世一代の椿事である。
三十分ほどしてから、様子を窺おうとおそるおそるドアを開けると、驚いたことに孔雀はまだ玄関先に立っている。そればかりか、渡りに舟と言わんばかりに、トコトコと家の中にはいってきてしまったのだった。慌てて追い出そうとしてみたが、もうその時は手遅れで、見かけによらぬ素早い動きで家の奥へと駆け込んでしまった。
パニックに陥ってしまったのは、孔雀ではなく家の中の人々のほうだったらしい。鶏や鴨なら獲って喰うという手もあるが、相手があの孔雀とあってはそうもいかない。そもそも喰えるのかどうかもわからなかったし、たとえ喰えたとしても調理法などわかるはずもない。捕まえて剥製にしてしまえば高く売れるかもしれないなどという物騒な意見も出たらしいが、それはそれで獲って喰う以上に難しい話ではあった。
対応に窮したその家の人々はやむなく警察に通報した。「孔雀が家の中に迷い込んできたのでなんとかしてください」との急報を受けた警察の担当者も、一瞬その耳を疑ったに違いない。京王線府中駅からも国道二十号からも遠くないそんなところに、しかも夜も更けてから孔雀が出没するなんて、どう考えても信じられる話ではないからだった。
それでもなんとか問題の孔雀の逃げ出した先が見つかったとみえ、しばらくするとその所有者らしい人物が知人宅にやってきた。すぐに孔雀は御用となって一件落着と思いきや、ことはそう簡単には運ばなかった。せっかくものにした自由をそう易々と手放すわけにはいくかとばかりに、孔雀は家の中を飛びまわり暴れまわって頑強に抵抗したらしい。その場にいた人々が総掛かりでなんとか孔雀を玄関の外に追い出し、やっとのことで捕まえ終えた時には、もう午前一時近くになっていたという。大捕り物の終わった家の中には美しい孔雀の羽毛がそこらじゅう散乱し、なんとも異様な光景であったらしい。
翌日あらためて、その孔雀の管理者とおぼしき人がお礼とお詫びにやって来た。男が差し出した名刺には、とある近くの会社名が記されていたという。その会社がなんらかの仕事上の目的で孔雀を飼っていたのか、それとも単にペットとして飼っていたのかはわからないというが、ずいぶん人馴れした感じだったらしから、テレビや映画の撮影用に飼育された孔雀だったのかもしれない。もしそうだとすれば、そのほかにも何羽かの孔雀がその時刻その付近をうろついていた可能性がある。たまたまその場にいなかった娘さんに、「府中の民家に孔雀が現れるなんて珍しい!」と話したところ、「そんなもの日本国中のどこの家探したっていないわよ!」と呆れられたりしたという。
孔雀にまつわるそんな珍談に大笑いしているうちに、私は孔雀についてのある話を思い出した。動物行動学(エソロジー)の権威、コンラート・ローレンツの著作「ソロモンの指輪」の中に出てくる話である。ウィーンに生まれ、ケーニヒスベルク大学やマックス・プランク行動生理学研究所長などを歴任したローレンツは、魚類、鳥類を中心とした各種動物の生態、とくにその行動の研究を行い、エソロジーという新学問分野を開拓した。その業績により、彼は1973年にノーベル医学生理学賞を受賞している。
ちなみに述べておくと、ローレンツは有名な「刷り込み現象」の発見者としても名高い人物だ。卵から孵ったばかりの子鴨などは自分のそばで真っ先に動いたものを母親だと認識してしまう、という驚くべき事実は、長年にわたる彼の地道な研究と観察を通して発見された。彼はまた、研究観察の目的もあって家の中で種々の動物を放し飼いにしていたため、まだ幼かった自分の子どもの身の安全を考え、子どものほうを檻に入れて育てたという型破りの学者でもあった。発想の逆転といえばそれまでだが、学問の新分野を切り開きノーベル賞を受賞するような天才の考えつくことは、凡庸な我々の着想とはまるで違っているようだ。
ローレンツの語るところによれば、動物の攻撃性は動物の種類によって2タイプに大別されるものらしい。一般に獰猛で残忍と思われている狼のような動物は、おなじ仲間同士で強弱を争う場合、劣勢を悟ったほうが自分の急所である首筋を相手の牙の前に差し出すと、優勢なほうの狼はそれ以上相手に攻撃を加えることはないという。劣勢の側が無防備の状態で相手の牙に身をさらすその儀式が終わると、そこで相互の序列が決まり、どちらかが致命的に傷つくまで争いが昂じることはほとんど起こらないのだそうだ。自らの牙の危険性を認識している狼たちは攻撃抑制能力をそなえているわけで、その意味でも狼社会は実に秩序のとれた社会なのだとローレンツは述べている。
いっぽう、キジバトとかノロジカといった、一般に平和の象徴と考えられているような動物は、その本性たるや実に獰猛であるらしい。弱い動物同士というものは互いに強弱を争う時、劣勢の側は相手の攻撃から遠くへ逃げることによって身を守る。逃げるに十分な一定のスペースがあることが、彼らの社会で悲劇をさけるための必要条件なのだそうだ。
キジバトやノロジカを逃げ場のない狭い檻の中で飼っていると、オス同士が争いを起こした場合、ほっておくと惨劇が起こる。キジバトの場合、優位に立った側は、傷ついて逃げ場を失った弱者をどこまでも追い詰めて襲いかかり、弱って息絶える寸前の相手の頭皮や頚皮がめくれて血管がズタズタに切れ、筋肉が裂け散るまで攻撃の手を緩めることはない。ノロジカにいたっては、勝者は敗者の内臓が剥き出し破裂するまで攻撃をやめることはないという。
小鹿のバンビのモデルにもなっているノロジカなどは、敵意などまったく感じさせない様子で静かに近づいてきて、油断した相手にいきなり襲いかかり角でクサリと突き刺したりするのだそうだ。ノロジカに襲われて人が死んだり重傷を負ったりする事故は、猛獣による同種の事故よりもずっと頻発しているという。弱い動物というものは、おとなしく見えても、いざとなるとその本性はきわめて残忍であり、攻撃性も強い。ほかならぬ我々人間も後者に属しているとローレンツは書いている。
彼の話によれば、孔雀のオスと七面鳥のオスを一緒に飼っていたりすると、予想外の凄惨な事態が生じることがあるようだ。なぜなのかは不明だそうだが、七面鳥は、生来、鶉鶏類(ジュンケイルイ)では唯一狼型の特性をそなえもつ鳥であるらしい。七面鳥のオス同士が喧嘩をする場合、かなわないと悟った側は相手の嘴の前に自分の首を横にして差し出し、降参のポーズをとる。すると、勝ったほうはそれ以上攻撃することはないというのだ。
孔雀と七面鳥とは近縁種のゆえ相手に対する敵愾心も強いらしく、一緒にしておくとたちまち喧嘩が始まってしまう。ところが、この争いにおいては七面鳥にはまったく勝ち目がないそうなのだ。孔雀のほうは宙を飛んだり、突然羽を開いたり、鋭い足の爪を剥き出しにしたりして激しく七面鳥を威嚇し、攻撃する。すると、もともとは孔雀より身体も大きく力も強いはずの七面鳥は、予想外の相手の行動に怯えてたちまち戦意喪失、ギブアップしてしまう。そして、もちまえのその習性通りに長い首を孔雀の前に差し出してしまうのだ。
ところが、いっぽうの孔雀は七面鳥社会のルールなどには無頓着だから、ここぞとばかりに相手の首筋に容赦なく鋭い爪と嘴を突き立てる。攻撃されればされるほど、七面鳥は孔雀の前で首を伸ばし攻撃の中止を願う。そのままほっておくと、孔雀はますます勝ち誇って嘴と爪をふるい、七面鳥の首が裂け無残な姿で絶命するまで攻撃を止めないという。
この話にはなにかと考えさせられるところが少なくない。我々人間もキジバトやノロジカ、孔雀などと同類の性癖をもつとすれば、逃げ場のない閉鎖空間に閉じ込められたような場合、強者が弱者を死に至るまで追い詰めてしまうことが十分起こりうるはずだからだ。学校などのような、弱者にとって物理的にも心理的にも制度的にも逃げ場のない、また、たとえそうでなくても社会通念上逃げ出すことの潔しとされない空間においては、強者が弱者をとことん攻撃することが起こっても不思議ではない。しかも人間の場合には一対一で強者が弱者を追い詰めるのではなく、強者を囲む多数が一人の弱者を追い詰めることも少なくないからいっそうたちが悪い。追い詰めかたひとつとっても、人間の場合には物理的面からと心理的面からのふたつがあるからますます話は厄介だ。
現代の社会状況の下では、幼児期の子どもたちが、強者の攻撃から逃れ身を守るための方法を習得のさえ難しい。逃げる方法を身につけていない子どもたちが、相対的に弱者となって、それでなくても逃げ場のない空間に置かれたら、その後に起こる悲惨な結果は目に見えている。いっぽうの強者は強者で、身のほどをわきまえることなくますます増長し、横暴をきわめることになりかねない。
近年教育界では不登校者数の増大が問題になっているようだが、自然なかたちでの「良質な逃げ場」の失われた現代社会あっては、たとえそれが最悪の逃げ場であったとしても、不登校は追い詰められた子どもたちにとって身を守るための最後の手段なのかもしれない。そして、もしそうだとすれば、いま教育現場で求められていることのひとつは、一時的にそこを身のよりどころとしても責められることも冷眼視されることもない、公然かつ公認の良質な逃げ場と有効な回避ルートを、多岐多様にわたって何段階にも設けることであるのかもしれない。
コンラート・ローレンツは自らが開拓確立した動物行動学の研究結果に基づき、人間の究極の本性を性悪なものだと論じ、人間社会の未来に対し様々な警告を発したりして思想界に大きな影響をもたらした。いっぽう、「THE ART OF LOVING(愛するということ)」や「THE HEART OF MAN(人間の心)」などの著作で知られる社会学者のエーリッヒ・フロムは、ローレンツの主張に対立するかたちで人間の性善面を擁護する本性論を展開、「バイオフェラス」と「ネクロフェラス」という独自の二極概念をベースにした人間論をもって、同様に当時の欧米思想界を風靡した。
降って湧いたような孔雀の珍談を発端にして、意気盛んたった青年期に読み漁ったことのある彼らの著作などを想い起こしてしまったが、いったい今の私は、フロムの性善説とローレンツの性悪説のどちらに軍配をあげるべきなのだろう。いつの時代も人間の心の中には性善の白蛇と性悪の黒蛇とが絡み合うようにして存在してきた。ただ、表面的には平穏そうな近年の人間界の内奥で、密やかに忍びうごめく黒蛇の影が白蛇のそれより太く大きく見えるのは、私の気の所為に過ぎないのであろうか。
2001年5月30日