初期マセマティック放浪記より

166.W時計物語(1)

(一)W時計登場までの経緯

我が家の飾り棚には高級ブランドの外国製腕時計が二個、こともなげに転がっている。「転がっている」とわざわざ書いたのは、むろん、それらの時計にはそうしておく程度の価値しかないからだ。言うまでもないことだが、その時計は贋物で、しかも相当に出来の悪い贋ブランド時計なのである。ただ、この贋時計には、かつて私の親しい友であったWについてのちょっとした哀話が秘められており、そのため我が家ではそれをW時計と呼んでいる。

同郷出身で子どものころから親しかったWは、地元鹿児島の高校を終えたあと私と同様に上京し、都内のある大学を卒業、業界紙を発行している小新聞社に就職した。文学青年でそこそこ筆も立った彼は、その新聞社でなかなかよい仕事をしていたようである。彼には高校時代相思相愛の女性があったが、彼女はその後他の男性と結婚して一女をもうけ、それなりに安定した生活を送っていた。だが、やがて彼女は夫と離婚し、もとの恋人Wと再婚し、連れ子の女児ともども彼の戸籍に入籍した。その離婚と再婚の連続劇の陰には、むろん、並外れた情熱家でもあった彼のひとかたならぬ働きかけが隠されてもいたのである。

一時期のW一家は見るからに幸せそのもので、しばらくして一人の男児も誕生した。子煩悩で家族思いの彼は子どもたちを心から可愛がり、美人の奥さんの顔から穏やかな笑みが消えることは永遠にないかのように思われた。だが、そんなW一家の背後に暗雲が立ち込めはじめたのは結婚後四年ほどしてからのことであった。

Wの同僚が突然退社し、自分で会社を設立するという話が持ち上がったのがことの発端だった。その新会社の発起人のひとりとして協力を求められた人情家の彼は、うますぎる話に一抹の不安を覚えながらも、結局相手の懇願に応じることにした。会社を立ち上げるには手持ち資金が十分ではなかったため、彼らはサラ金から百万前後の金を借り入れ、それで設立資金の不足分を補うことにした。

設立した会社は一年としないうちにあえなく破綻、借金の期限内返済は不可能となって、当然のようにWもサラ金会社の容赦ない取り立てに追いまくられることになった。法外な金利のため借金はたちまち何倍にも膨れ上がり、自分の職場や奥さんをはじめとする親族にまで恐喝同然の厳しい取り立てが及ぶにいたっては、とるべき道はひとつしかないと彼は考えたようである。突然会社を辞めた彼は、奥さんとも離婚し、子どもたちを奥さんのほうに委ねたまま、どこへともなく姿をくらましてしまったのだった。

むろん、離婚はサラ金取り立ての直接的影響が家族に及ぶことをおそれたからだったようで、それからしばらく、別れた奥さんのもとには、どこからともなく毎月いくらかの仕送りがなされていたようである。私のところにも別れた家族のことをできる範囲でよいから宜しく頼むという電話が幾度かあったりしたが、Wは自分の居場所や仕事については言葉を濁し、けっして詳しいことを語ろうとはしなかった。そして、いつしか、別離した家族のへの仕送りも途絶え、私をはじめとする友人たちへの連絡もまったくなくなってしまったのだった。

驚いた様子で妻が買い物から戻ってきたのはそれから何年かのちのことであった。妻の語るところによると、なんとWらしい人物が駅前の露店で甘栗を売っているというのである。まさかと思って駅前まで足を運び、店頭に立つ甘栗売りの男の姿を遠目に眺めてみると、顔も手足も浅黒く日焼けし、ずいぶんと変わり果てた様相をしてはいたものの、それは間違いなくWその人であったのだ。その日はどうしても彼に声をかけることができず、そのまま帰宅した。

それから三日ほどはWとは異なる男が露店の番をしていたが、四日目の夕刻に再び彼が姿を現した。客足の途絶えたときを狙って急ぎ足で近づき声をかけると、Wは私の顔を見つめたまましばし絶句した。その場での立ち話はちょっとまずいので近日中にあらためて我が家を訪ねるから、という彼の言葉を信じ、その晩はそのまま帰宅した。それから数日後の昼過ぎ、約束通り彼は我が家にやってきた。Wの語ったところによると、駅前で天津甘栗売りをするにいたるまでの事の次第はつぎのようなものであった。

奥さんと離婚したあと、サラ金業者の取り立てを逃れるため誰にも居所を悟られないように転々としながら、工事現場をはじめとする様々な日雇い労働の仕事場を渡り歩き、稼いだお金の一定額を別れた家族に仕送りしていた。だが、重労働続きの厳しい現実生活に追われるうちに、次第に当初の家族への責任感も労働意欲も失せ果てて、わずかでも持ち金があれば、憂さ晴らしの酒に溺れ、さらにはパチンコ、競馬、賭けマージャンといったギャンブルに身を委ねるようになっていった。まあ、ここまでなら世間にいくらでもある話だが、彼の場合はそのあとの成り行きがずいぶんと変わっていた。

ある日Wはひとつの募集広告を目にとめた。それは労働時間も短く日当も数千円以上支給されるうえに、住み込み食事つきという破格の条件の仕事であった。心の片隅ではまだ別れた家族のことを気にかけていた彼は、これならまた多少の仕送りくらいはできるかもしれないと、一も二もなくその罠仕掛けの餌に喰いついた。

本人の意志の有無にかかわりなく、面接当日に彼の就労は決定した。否応なく強制就労させられたといったほうがより正確ではあったろう。彼の抜き差しならぬ個人的事情を察知した相手は、カモがネギを背負ってやってきたと思ったに相違ない。多少の貴重品や生活必需品を収納した大型トランクは担保として押収され、翌日から彼はその風変わりな職場で働かざるをえなくなった。

たまたまWが身を置くことになったその場所は、国内でも名の知れた香具師グループ傘下のタコ部屋だった。見習いの仕事から始まり、次第に仕事のやりかたを仕込まれていったのだそうだが、天性の話術の持ち主である彼の話そのものはなかなかに面白かった。

十人ほどがひとまとまりになって寝起きするタコ部屋の連中は、決められた時刻に一斉起床すると、家屋やその周辺の掃除をおこない、洗面を終えたあと食卓について共に朝食をとったという。一番奥には姐御あるは姐さんと敬意をもって呼ばれる香具師一家の当主の相方が陣取り、上位者から新参者までが、順位に従って縦長のテーブルを囲んだ。新参者だった彼は、当然、最初のうちは末端の席に坐らせられたようである。

皆が朝食の席に着くと、箸を手にするまえに姐御と呼ばれる女性に向かって頭をさげ、一斉に感謝の言葉を述べるのが慣わしになっていたらしい。それが終わると一飯一汁に近い朝餉(あさげ)を大急ぎで掻き込み、食器を自分で片付けてから仕事の準備にとりかかった。昼飯は自前で適当にとり、晩飯は仕事を終え夜遅く戻ってから、用意されているものをそれぞれに食べていたという。朝食よりはましだったが、御馳走と呼ぶには程遠いものであったようだ。食事を終えると食器を片付け、タコ部屋に戻ると、よほど余力でもないかぎりは翌日の仕事に備えてひたすら眠る。住み込み食事つきには違いなかったが、人間らしい生活には程遠いものであった。

主な仕事はふたつあり、ひとつはあちこちの駅前や繁華街の露店における天津甘栗やタコ焼きなどの食べ物売り、いまひとつは各地の神社やお寺などのお祭りや縁日での出店の仕事だったようだ。お祭りや縁日などは毎日必ずどこかで催されているから、よほどの悪天候でもないかぎり仕事が休みになることはなかったという。そう言うと聞こえはよいが、その実は、ほとんど年間無休で強制的に働きづめにさせられたということらしい。日当も実際は売上に応じた歩合制で、うたい文句にあるようにその額が数千円になるのは年間を通じて四、五日もあればいいところだったようである。平均すると日に千五百円から二千円くらいにしかならなかったとのことである。

Wは露店屋台での仕事の実態についても話してくれた。たとえば、駅前などへ天津甘栗を売りに出掛ける場合には、大量に仕入れ倉庫に保管されている生栗を必要量運ぶ準備を整える。古くなり青カビが生えたものもずいぶんとあるらしいのだが、そんなことなどお構いなしだったという。生栗をもって仕事に出掛ける際には、姐御なる人物から焼き上がった天津甘栗を入れるための紙袋の束を渡された。手渡される紙袋の枚数はしっかりとチェックされており、仕事から戻った時に残っている紙袋の枚数との差が売れた分だと判断される。だから、もしも紙袋を紛失してしまったりすると、その分に相当する金額を全額自己弁済しなければならない仕組みだった。

担当する駅前や繁華街に出向くと、分解し幌をかぶせて付近に置いてある屋台を組み立て、火を入れたあと定められた場所に運んだ。不慮の事態などに備え二人一組で仕事をするのが常だというが、連帯責任制を敷いてそれとなくお互いを監視し合わせることによって、サボタージュや逃亡を防ぐ意味もあったらしい。

天津甘栗を買うお客は、その甘く香ばしい匂いに幻惑されて財布の紐を緩めることが少なくない。だから、電車が駅に着いて改札口から人波がどっと流れ出すのに合わせてザラメ糖を焼き栗用の炉中の小石や甘栗そのものにふりかける。すると白い煙とともになんともいえないよい匂いがあたり一帯に立ち昇るのだそうだ。もちろん、ザラメは甘栗の表面や炉の小石を艶やかに光らせるとともに、一部は栗の表皮から内部に沁み込んで、食用部分に独特の味付けをするのにも役立つというわけだ。

同居するタコ部屋の者たちは、劣悪な生活環境ではあるにしろ、ともかくもそこにおればとりあえず生きてはいけるということで、逃げ出すことはほとんどなかったようである。逃げ出すとすれば、露店で働いているときがチャンスだったようであるが、時折香具師グループと関係のあるらしい恐い顔のお兄さん方がそれとなく巡回してきて様子を窺いもしているので、脱走するにはそれなりの覚悟も必要であったらしい。

香具師の末端に身をやつしているとはいっても、一応は大学を卒業し業界新聞の記者までやった男のことである。さすがにそのままでは埒があかないと考えたものらしい。しばらくは音沙汰なかったが、それから四、五ヶ月してからのこと、彼は突然に我が家に姿を見せたのだった。担保として押収されているトランクとその中身はすべて放棄し、相棒に天津甘栗売りの仕事をまかせている間に着の身着のままで現場からドロンしてきたのだという。万一のことがあるといけないから、売上金に手をつけるようなことはしなかったとのことだった。

それからほどなく、Wは私の住む町の一隅にある大手運輸会社の倉庫に勤めるようになった。その会社の独身寮に入り、勤務態度も真面目で、精神的にもかなり落ちついてきたようにみえた。サラ金問題を放っておくと、後日またどこかで足がつき面倒なことになってもいけないので、知人の弁護士に相談に乗ってもらい、法的にきっちりと処理するように促しもした。もともと子煩悩だった彼は、もう一度ここからやり直せば、中断していた家族への送金もできるし、大幅に減額になったサラ金の残金が返済できれば子どもたちとの再会も可能になるということで、表情そのものも別人のように明るくなった。

我が家にもよく姿を見せたが、徐々にだが以前の彼に戻っていくような感じで、いったんは私も安堵の胸を撫で下ろしたようなわけだった。パチンコ好きだけは相変わらずだったが、どこまでものめり込むようなことはなかったようなので、友人としてその程度は大目に見ておくことにした。

Wが突然に姿を消したのはそれから二年ほどしてからだった。またもや忽然と行方をくらました彼を探し出そうと思いつくかぎりのことはやってみたが、どこをどう探してもその消息を知ることはできなかった。彼の住んでいた会社の独身寮には身の回りの品がそのまま残されており、退社届などもまったく出されていなかった。もちろん、姿を消した月の分の給与も未受領のままだった。彼の親戚や他の友人などにもあたってみたが、俗にいう神隠し状態で、なんの糸口も得られなかった。

姿を消した時とは逆に、ある日の夕刻、突如我が家の玄関先にWが現れたのは、それから三年ほど経ってからのことであった。彼は伏目がちで、異常に日焼けしたその姿には肌の浅黒さとは裏腹の深い心身のやつれが感じとれたが、その顔には昔ながらのひとなつこい笑みとある種の安堵の色が浮かんでいた。

風呂に入れ、食事を済ませ、いつでも横になれるように寝床をしつらえたうえで、彼の過去三年間ほどの足跡について詳しく聞くことになったのだが、それは、「事実は小説よりも奇なり」という諺を地でいくような話だった。来訪の折、彼は、ヨーロッパ製高級ブランドの贋時計を二個、まだ小さかった我が家の子どもたちのお土産にと持参してくれたのだが、そこにいたるまでの一連の物語はそれら二個の贋時計に深くまつわるものだったのだ。
2002年1月16日

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