ちょっと古風な趣のある玄関のドアを開け、明るさを抑えた間接照明の室内に入ったとたん、「なかなか素敵な雰囲気ですねぇ」という呟きが岩井夫人の口から漏れた。部屋の壁も天井もすっかり古びてしまい豪奢な感じなどまったくしないが、きわめてセンスのいい調度品が絶妙な計算に基づいて配置されていて、この家の主人のそなえもつ美意識の深さが偲ばれる。しかし、それが実はなかなかに曲者なのである。
ゆったりとした気分になって応接間の椅子に腰をおろした岩井夫妻が、あらためて初対面の挨拶を交わそうとした次の瞬間、石田老の口から、ジョークとも皮肉ともつかぬ言葉が速射砲のように次々と撃ち出されはじめた。これまでに何度もその英国仕込みの言葉の銃弾を浴び、鋼鉄の鎧に身を固めながら即座に応酬するすべを学んでしまった私は、いまさら驚きはしなかった。だが、初めての洗礼を受ける岩井夫妻のほうは返す言葉もなく笑い転げるばかりである。お土産の寿司のほうにドラキュラ翁の食欲を向けるようにしようという作戦は、相手の先制攻撃のためにあえなく頓挫し、新参のお二人は頭からまるかじりされる状態になってしまった。
夕闇が迫ってはいたが、日脚が長くなったおかげでまだかなり明るさは残っていたので、我々はドラキュラ邸の庭に降り立った。この不可思議な空間を初めて訪ねた者は、様々な珍しい植物や木立の生い茂るこの庭の一隅で、一風変わった「通過儀礼」を受けることになっている。庭の奥のほうには何本かの赤松の大木が生えているのだが、それらの樹間がその通過儀礼の舞台となる。屋敷の裏手にあたるその場所の向こうには、昼でも暗い鬱蒼とした赤松の密生林がどこまでも続いている。
私は主の老翁の要請に従い家の一角にある物置部屋から大きなハンモックを取り出すと、岩井さんの協力を仰いで二本の赤松の間にそれを張り、その両端をしっかりと太い松の幹に固定した。このハンモックは、カナダ製のものだとかいう大きくて頑丈な造りのしろもので、大人二人が並んで仰向けに寝そべったりしてもびくともしないし、三人並んで腰掛け、ブラブラやっても平気である。そして、このハンモックに身を托し、赤松の木立の間から空を見上げてしばし浮遊感を味わったり、主の石田翁を交えて順々にハンモックに腰をおろし記念撮影をしたりするのが、初の来訪者の通過儀礼というわけなのだ。むろん、その間も言葉の銃弾が容赦なく飛んでくる。初めてここを訪ねたとき、私もその通過儀礼を体験したし、私の案内で一度ここを訪ねたことのある穴吹史士キャスターなどもその洗礼を被った。
夏や秋の爽やかな日など、このハンモックに揺られながら独り読書に耽ったり惰眠をむさぼったりするのは、最高の贅沢といえるかもしれない。かつての私と同様にドラキュラ翁の毒気の犠牲者となったあるコピライターなどは、アイディアに行き詰まるとこの屋敷にやってきて、ハンモックに揺られながらあれこれと想を練ったりするのだという。私にも何度か経験があるが、面倒な雑事を一切忘れてこのハンモックに横たわり、吹きぬける風や木漏れ日に身を委ねていると、どこからともなく不思議な活力が湧きあがってくる。
ところで、このハンモックだが、何年か前、大手出版社の宣伝ポスターを通して全国的にその様相の一端を紹介されたことがある。女優の広末涼子が文庫本を手にハンモックに乗っている姿を掲載した集英社のブックフェア用ポスターを憶えている方があるだろうか。実を言うと、広末涼子が腰をおろしていた大きなハンモックこそは、ドラキュラ邸のこのハンモックにほかならない。
集英社のそのポスターを撮影した市川勝弘カメラマンは、たまたま訪ねた安曇野でかつての私と同様に石田ドラキュラ翁の餌食になった一人である。現在では私も懇意にしていいる有能なカメラマンで、まったくの偶然なのだが、このAIC欄で肖像写真ミュージアムを担当しておられる坂田栄一郎さんのお弟子さんでもあるらしい。折あるごとにドラキュラ邸に出入りし、このハンモックの存在を知っていた市川カメラマンは、集英社の宣伝ポスターの撮影に先立って東京までハンモックを送ってもらい、広末涼子をそれに乗せてくだんの写真を撮ったのだった。
初訪問の岩井夫妻は、ともかく、そのいわくつきのハンモックに腰をおろして一通りの儀礼を済ませ、さらに、すぐそばにある、どこか妖しい雰囲気の小さな露天風呂見学のほうも無事に終えた。有り合わせの材料を使って石田翁自らが造ったこの露天風呂を見学するのも通過儀礼の一環になっている。夏場などに屋内の風呂場の給湯口からホースでお湯を引いてきて湯船を満たし、木立の緑や空の雲を仰ぎながら入浴するのだが、実際に体験してみると風流なことこのうえない。ただ、こちらのほうは、ハンモックと違っていつ誰でも体験できるというわけにいかないのが難点のようである。
この露天風呂の脇には枝振りのいい「エゴの木」が生えていて夏には白い花をつける。このドラキュラ邸の主人の象徴みたいな名をもつこの木がもともとそこに生えていたものなのか、それとも意図的にそこに植えられたものなのかはわからない。しかし、「エゴの木の下では何をやってもいい」などと意味ありげな洒落言葉を呟きながら来訪者を煙に巻く老翁の姿を見ていると、計算され尽したもののようにも思われてならない。
ハンモックをたたみ、庭を一巡りして応接間に戻ったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。私が初めて出逢った頃に較べれば、さしものドラキュラ翁の気力も体力もずいぶんと落ちてきたようである。そのせいか、我々に浴びせかけられる言葉の銃弾の勢いが時の経過とともにだんだんと弱まってきた。昨今では生き血を吸えるような若い美女に回り逢うことも少なくなってしまったのだろうか。それが衰えの原因なのかもしれないが、最近の若い娘を下手に相手にしたりすると、ドラキュラ翁といえども逆に血を吸われてしまいかねないから、よけいに気力と体力の維持は難しいのかもしれない。
ともかく、相手に疲れが見えはじめたところを見計って我々は持参した寿司や果物を取り出し、それらをテーブルに並べてとりあえず夕食にかえることにした。食事をとりながらも四人の間で会話は弾んだ。相変わらず石田翁が主役ではあったが、その一方的な言葉の嵐が鎮まってきたことが幸いし、お互いの会話がうまく噛み合うようになってきた。そして、食後のお茶を楽しむ頃には夜もすっかりと更け、まるでそれに呼応するかのようにすっかりうちとけた気分になった我々は、いつ果てるともなく談笑に花を咲かせる有様だった。
時を忘れて話し込むうちに、いつしか時刻は十一時近くになっていた。そろそろおいとましなければということになり、腰を上げた岩井夫妻は帰る前にちょっとトイレに立ち寄ってみることになった。いや、もっと正確にいうと、トイレの「見学」にいくことになった。私が、ドラキュラ邸に行ったらトイレを覗いて見ることだけは忘れないようにと、あらかじめ吹き込んでおいたせいである。ここのトイレには忘れることのできない想い出があった。
穂高の駅前でこの不思議な老人につかまり、初めてこの屋敷に案内された夜のこと、しばらく会話を交わしたあとで私はトイレに立とうとした。すると、石田老は、「この家のトイレにはいったら一時間は出てこられませんよ」と言ってニヤリと意味ありげに笑ったのだった。案内されたトイレの前に立つと、なんとドアに「WORKS CREATIVE」と記されているではないか。WとCだけは赤い文字にしてもある。おなじ「W・C」でもこの「W・C」は「創造的な作品」あるいは「創造的な仕事の産物」だというわけなのだ。どれどれとばかりにドアを開けて一歩中に入った私は、思わず驚嘆の声をあげそうになった。
広々とした造りのトイレの中央には西洋式の便器があり、その左手には木の棚があって、面白そうな本が何冊も並んでいた。簡単なメモ用ノートらしいものもある。便座にすわったままで本を手に取って読書に耽ったり、思策のすえにウーンとばかりに絞り出した独創的なアイディアをメモしたりもできるわけだ。ただ、そこまでならたまにある話で、そう驚くほどのことではない。私が目を奪われたのはドアの裏面を含めた前後左右の壁面と天井の面だった。
それらの各々の面には珍しい大小のポスターや写真類、絵葉書類などが見事な構成と配列で貼りめぐらされていたのである。詩情豊かな自然の風物や海外の名所旧跡などの絵や写真、それぞれに物語を秘めた様々な男女の珍しい写真、見るからに独創的な芸術作品の写真や何枚かの美術展の酒落たポスターと、どの一枚いちまいをとっても、なんともいえないほどに味のあるものばかりだった。大小合わせれば二、三百枚はあろうかと思われるそれらの絵葉書や写真、ポスターなどが、オランダあたりの美しい花壇を連想させる構成とデザインで五つの面いっぱいに貼られている様は、壮観の一語に尽きた。奥に向かって右手の壁面には手造りの文字盤をもつ花時計風の時計まで備えられており、まさにそれは「創造的作品」というべきものであった。
私はとりあえず便座に腰掛けはしたものの、本来のその空間の用途など忘れてしまった状態で天井や四方の壁を順々に見回した。なるほど、こんな調子で絵や写真の一枚いちまいを眺めていたら、それだけでも一時間くらいはすぐに経ってしまうに違いない。そんなことを考えながら前方を見上げると、一枚の大きなポスター風写真が目にとまった。黒いグラスをかけた老人とおぼしき人物が風のような動きを見せて地上を走っている風変わりな写真である。写真の中の人物は不思議なまでの存在感と、それとは相反する不気味なまでに変幻自在な多様性とを同時に持ち具えているかのようだった。
しかも、驚いたことに、よく見るとその人物はほかならぬこのドラキュラ亭の主人そのものだったのだ。このドラキュラ老の本質を見事に撮りきった写真家(のちに、この写真を撮ったのは前述のカメラマン市川勝弘さんであることを知った)もさるものなら、このような不思議な動きを苦もなくやってのけるモデルのほうも相当なものである。私の好奇心はいやがうえにも掻き立てられるばかりだった。「トポスの復権」というタイトルの入ったポスターに目が行ったときも、私は思わずニヤリとした。「トポス」とは「場所」という意味である。老人はその美学に即し「トイレという場所の復権」を暗に唱えようとしているのだろう。
ようやく「本来の目的」を想い出した私は、その一件をかたづけたあと、何気なくロールペーパーに手を伸ばし、その一部をちぎりとった。そしてそれに目をやった途端、呆気にとられて、またもや息を呑み込む有様だった。なんとその紙片には青い色で英語のクロスワードパズルが印刷されていたのである。チャレンジされたからには受けて立つほかはない。かくして私はトイレからの脱出をはかるために難解なパズルに挑むという思わぬ事態に追い込まれることになった。
日本語のものだってクロスワードパズルはそれなりに難しい。まして英語のクロスワードパズルとなると、短時間での完答は容易ではない。しばらく考えてはみたが、どうしてもわからないところがある。このままだと夜が明けるまでこの便座に腰かけたままでいなければならない。この「WORKS・CREATIVE」空間のなかで、いつまでもロダンの「考える人」をみっともなくデフォルメしたような格好を続けていたら、私自身が老人の芸術作品の一部と化してしまうだろう。やむなく意を決した私は、三、四シート分のクロスワードパズルを犠牲にすると、新たにちぎりとった一枚のクロスワードパズルを手にしてトイレを出た。
おそらくは内心でニヤニヤしながらお茶の用意をしていたであろう老人は、クロスワードつきのロールペパーの切れ端を手にした私の姿を目にすると、
「ずいぶんとごゆっくりでしたねえ……私の創造空間を楽しんでもらえましたか?」 と愉快そうに訊ねてきた。
「ええ、存分に……。もうちょっと便座にすわったままでいたら、そのまま硬直してロダンの向こうをはるブロンズの新作『考えるアホ』になってしまうところでした」
「ははは……で、そのクロスワードパズルは解けたんですか?」
「いや、それがまだなんですよ。せっかくですからお茶でも頂戴しながらゆっくり解いて、それからまたトイレに戻って排泄口を拭いてくることにします。その間しばし御迷惑をおかけしますが……」
私もそう切り返した。
もう十年以上も昔の話だが、忘れようにも忘れられないそんな出来事があったので、初めて石田邸を訪ねる人には誰にでも、「トイレの見学だけは是非!」と勧めることにしているのだ。いまではもう英語のクロスワードパズルつきトイレットペーパーは置かれていないが、そのほかの様子は当時とほとんど変わりがない。せっかくの機会だからというわけで、岩井夫妻にも、半ば感嘆し半ば呆気にとられてもらいつつ、トイレでのひと時をこころゆくまで楽しんでいただいた。
穂高のドラキュラ邸をあとにし、松本の岩井さんのアトリエに帰り着いた我々は、ちょっとばかり遊び心を起こし、大小の彫像群のなかにドラキュラ翁のイメージにそっくりの作品がないかと探してみたりもした。その結果、比較的よく似た姿形の彫像が三、四躰ほど見つかったが、それらを実際に石田老に見せた場合どのような反応が戻ってくるかは、いまひとつ想像のつかないことではあった。次に岩井夫妻がドラキュラ邸を訪ねる機会があったら、それらのうちの一躰を魔除けの十字架かわりに持参することになるかもしれない。
2000年6月14日