初期マセマティック放浪記より

64.百合焼酎から世紀初年問題へ

元旦早々に、720ml瓶六本の焼酎原酒「風に吹かれて」が、製造元の鹿児島県里村の塩田酒造から送られてきた。以前にこの欄で絶品だと紹介したことのある甑島産の本格焼酎「百合」の原酒で、40度ほどの度数がある。ごくかぎられた焼酎通の人々の間では「百合」をも凌ぐ名品として愛好されている原酒だが、毎年12月に500本だけが出荷される特別限定商品なので容易には手に入らない。私はまったくの下戸だが、どうしても「風に吹かれて」を飲んでみたいという焼酎狂が周囲に何人かいるので、昨年11月初め塩田酒造の当主、塩田将史さんに直接頼んでおいたのだ。国内各地の酒屋さんから「風に吹かれて」の予約注文があいつぎ、私がお願いしたときには、もう残りがわずか六本しかない有様だった。文字通りの滑り込みセーフだったわけである。

この原酒は、720ml瓶一本2000円と生産コストを無視した価格でもあるため、当然大量には出荷できない。それでも、生産主の塩田さんは、出荷価格を高く設定するつもりもないし、それがお客に渡るとき何倍もの高値につりあがることを望んでもいない。あまりに高い値段で売る酒屋があることがわかると、以後そのお店には「風に吹かれて」の出荷をやめてしまうのだそうだ。高く売れば一時的に収益はあがるが、便乗利益を目論んだまがい物の商品が必ず登場してくる。品質の悪い製品が出回れば、せっかく近年大きく持ち直してきた「焼酎」にたいするイメージがまたダウンしてしまう。それは焼酎業界にとって自殺行為に等しいことなのだという。「風に吹かれて」を損得抜きで出荷する理由は、ほんとうの焼酎というものはこんなに素晴らしい味のものなのだということをアピールするためなのだそうだ。

昨秋、講演のために甑島を訪れたJTB「旅」編集長の楓千里さんも、塩田酒造を案内され、本格焼酎「百合」の味を堪能なさったらしい。その時、楓さんのほうから、「百合」や「風に吹かれて」をもっと広く世に紹介するための提案もあったのだそうだが、生産と品質の維持管理のほうがとても追いつかないということで話は保留になったという。

ごくシンプルなデザインの紙箱を1個取り出し、どんなものかと蓋を開けてみると、輝くような色の透明な液体が栓元までいっぱいに詰まった小瓶が現れた。小さな白い和紙製のラベルには「本格焼酎 百合 原酒・風に吹かれて」と表示されている。そして、ラベルの下のほうには「NO 1」という製造番号が記入してあった。1月1日に「NO 1」とは縁起がいいなと思いながら、最初の製品などにはやはり「NO 1」を付記するのが普通で、「NO 0」のように零の番号をふるようなことはないよなと、何気なく考えた。そして、そうこうするうちに、私の脳裏に、「そうか、今年はまだ20世紀で、来年の紀元2001年からが21世紀だといわれるのは、もしかしたらそのあたりの問題と深い関係があるんじゃないかな」という思いが湧き上がってきた。
  二十一世紀のはじまりが紀元2000年からなのか、それとも紀元2001年からなのかという問題は、紀元2001年からだということで一応は決着したようであるけれども、なんとなくすっきりしない思いの人も少なくないだろう。かく言う私もその一人にほかならない。紀元2001年からが二十一世紀だと納得顔でいる人も、そう断定する理由を求められると、結局は「そう決まってるからそうなんだ!」と言いだす始末で、あやふやなことこのうえない。

「風に吹かれて」の「NO 1」という製造番号に触発され、再度この問題の根源に想いをめぐらすうちに、どうやら、零という数が誕生し世界中に普及するまでの歴史的背景や、零という数字の秘め持つ特別な抽象性、さらには十進数の桁の繰り上げ表記法などがこの問題の不明瞭さの原因であるらしいということがわかってきた。
  この問題をより明快にするには、まず、紀元年号なるものはいつの時代、誰によって考え出されたものかを明らかにしておく必要があるかもしれない。幸いとでもいうべきか、その時たまたま、私は、紀元年号の起源とその発案者についての簡単な記述がある百科辞典の中にあったことを想い出した。

もう八年ほど前のことになるが、私は新曜社という出版社から「超辞苑」という風変わりな百科辞典を翻訳出版したことがある。原著はイギリスで刊行された「THE ULTIMATE IRRELEVANT ENCYCLOPAEDIA」という本で、本来のタイトルには、「究極の的はずれ百科辞典」、あるいは、「まるで無価値な雑学百科辞典」という意味が込められている。要するに、一筋縄ではいかない記事内容のびっしり詰まった「八方破れのずっこけ大辞典」というわけだったから、最初、邦訳書には、「悪魔の辞典」の向こうを張って「天使の辞典」というタイトルをつけようかと考えた。しかし、我が国には「広辞苑」という偉大な辞典があることを想い起こし、最終的にはそれをもじって「超辞苑」というタイトルにした。「常識を超えた辞典」という意味を含みにしたことは言うまでもない。

この辞典の中の「アウグストゥス・カエサル(BC 63 ~ AD 14)」の項には次ぎのような興味深い記述がなされている。
《紀元前8年のこと、アウグストゥス・カエサルは自分の名をもつ月がないことに落胆し、現在の8月に相当する月をAugustus(Augustの語源)という呼び名に改めさせた。また、自分の名をつけた月が伯父のジュリアス(JuliusすなわちJulyの語源)の名をもつ月よりも1日だけ短いことに気づいた彼は、2月を1日だけ少なくし、その分を8月に付け加えてしまったのだった。
言うまでもないが、このような一連の出来事が起こった年代がのちに「紀元8年」と呼ばれるようになるだろうなどとは、当時の人々には想像もつかないことだった。実際、紀元700年頃に至って聖者ビードがキリストの誕生を基準にして年譜をつけるという絶妙なアイディアを思いつくまで、誰もが、何年にどんな出来事が起こったかを的確に知るすべなど持ち合わせていなかったのである》

昔から欧米などで広く人々の笑いを誘ってきた絶妙なジョークのなかに、「発掘されたその壷には、BC 100年という制作年代の刻印がなされていた」とか、「貴重なその本の最後には、AD 100年にこれを著す、という記述があった」とかいったようなものがある。そんなジョークが人々をニヤリとさせることからもわかるように、紀元年号が案出されたのはなんと紀元700年頃、すなわち、いまから1300年ほど前のことなのだ。

紀元年号が考案されたおよその年代が判明したら、次ぎに確認しなければならないのは、零という数の起源と由来、さらにはその概念が一般の人々の間に定着していくまでの歴史的な背景である。こちらのほうを調べるには、数学者の吉田洋一が1939年に著した「零の発見」(岩波新書)という願ってもない名著があった。私などが生まれるずっと以前に刊行されたこの著作は、数学史や数学の根源的問題にまで触れた一般読者向きの啓蒙書であるが、いまあらためて読んでみても少しも古びた感じがしない。多少難しいところもないではないけれど、中高生の頃にこの本を読んで啓発され、やがて数学の研究者になった人も少なくはないはずだ。受験勉強をするうちに数学が嫌いになったり、数学はそれなりに得意でも、その目指すところや数学の世界の展望がまるで見えないという中高生には是非この本を薦めてみたい。

さて、いまでは小学生でも知っている零という数字だが、この数字が世界中に広まりその実用性が認められるようになるまでには相当の時間が必要だったらしい。この本に述べられているところによると、零が発見されたのがインドであることに間違いはないが、その発見がいつの時代、誰によってなされたのかは不明だという。ただ、多くの研究者は、六世紀頃のインドではすでに、零の概念を用いた、現在の記数法に近い位取り記数法がおこなわれていたのではないかと推測しているようだ。

「1」という具体性のある数に比べて、「0」という実体のない抽象的な数のほうは、昔の人々にとってその意味と機能を明瞭に認識することは難しかった。幾何学的な分野ではきわめて高度な研究が進められていた古代のエジプト、ギリシャ、ローマなどにおいても、代数学的な分野の研究はほとんど進んでいなかった。詳しい説明は省くが、「0」という数がまだ知られていなかったことが大きな理由だったろうと考えられている。もしも「0」という数がなかったとすれば、十進法を用いる場合でも、たとえば、1、2、3、4、5、6、7、8、9、T(10を表わす記号)、11、12…………19、2T(20)、21、22…………89、9T(90)、91、92、93、94、95、96、97、98、99、H(100を表わす記号)、H1(101)、H2(102)、…………HT(110)、…………9H(900)、…………9H9T(990)、991、992、993、…………998、999、M(1000を表わす記号)………のように、十、百、千と桁が上がるごとに新たな記号を付け加えていかなければならない。

億や兆単位の数にもなると、をこの記数法でそれらの数を表記するだけでも大変なことだから、この記数法で加減乗除の計算などをやろうと思ったら、天才的な頭脳をもってしても容易なことではないだろう。まして、高度な代数方程式を解くなどということは、ほとんど不可能だったに違いない。ヨーロッパなどで近代科学の基礎が築かれ、科学文明が発達したのは、零の概念をもつインド記数法が伝来したおかげだと言っても過言ではない。

ところで、いま述べたことからわかるように、「0」という便宜性の高い抽象的な数の認知されている世界ならば、数の始まりを「0」にして、0、1、2、3、4、5、………98、99、100、とカウントすることが普通になる。しかし、「0」という数がない世界の場合だと、数の始まりを「1」にして、1、2、3、4、5、…………97、98、99、H(100)、とカウントするのが自然のなりゆきというものだろう。
  いま少し話をわかりやすくするために、数直線をイメージしてもらうことにしよう。そして、零という数が認知されている世界の場合には、「1」というときは0から1までの間の線分を表わし、「2」というと1から2までの線分を表わすと約束されているとする。このルールに従うと、「100」という数は99から100までの間の線分を表わすことになる。

いっぽう、零という数が認知されていない世界の場合には、「1」というと1から2までの線分を、また「2」というと2から3までの線分を表わすもの約束されているとしてみよう。このルールにのっとるとすれば、H(100)という数はH(100)からH1(101)までの間の線分を表わすことになる。もうおわかりだろうが、二十世紀を1901年初めから2001年の初め(2000年の終わり)までとするという一世紀の年数のカウント法は、この零という数が認知されていない世界のケースに相当しているのである。

「零の発見」の記述によれば、零の概念をもつインド記数法がイスラム世界を経てヨーロッパに伝わり、実用的なものとして商人をはじめとする一般の人々の間で用いられるようになったのは、十字軍遠征の時代と重なる十二世紀の頃になってからだという。それ以前にも知識としてインド記数法がヨーロッパの一部の知識人に伝わっていた可能性はあるらしいが、異教徒の奇異な考え方としてほとんど無視されていたのが実状のようである。

十二世紀後半に商人の子として生まれた数学者フィボナッチが、イタリアで十三世紀初頭に書物を著し、インド記数法とそれを用いた商業用算術を体系的に紹介したのが契機となって、ようやくヨーロッパに零の概念が普及定着することになったのだそうだ。

紀元年号が発案されたのが紀元700年頃だったとすれば、当時のヨーロッパには零の概念などむろん伝わっていなかったことになる。そうだとすれば、たとえば七世紀を701年初めから800年終わりまでと考えるのは必然の成り行きだったということになろう。現代の我々は中学生にもなると「0」という数を基点とした数直線の概念を教わるから、紀元0年を基準にして「BC 100年」とか「AD 100年」とかいった年号表現を容易に受け入れることができるけれども、零の概念をもたなかった時代の人々は、どうしても「1」を基点にせざるをえなかったと推察される。二十一世紀が2001年初めからとされるのは、そんなカウント法の名残であると考えることもできるのではなかろうか。

以上のことは、あくまでも私がたまたま想像してみた個人的な見解であって、その考えれを正しいと保証してくれるような歴史的根拠などはとくにない。「風に吹かれて」の製造番号「NO 1」が発端となってあれこれと気ままに想いをめぐらすうちに、私の紀元2000年の元日はいつのまにか終わってしまった。なんとも厄介な2000年問題(?)に遭遇したものである。
2000年1月12日

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