初期マセマティック放浪記より

91.入試難問の出題意図は?

たまにだが、どうしてもと依頼を受け、近所に住む大学受験生たちの数学学習の相談にのってあげることがある。未来を背負う若い彼らの感性からはこちらもなにかと学ぶことが多いので、私にとってもそれなりに有意義な時間である。

その点はまあよいのだが、ときおり彼らが持ち込んでくる入試問題の中にどう考えてみてもその出題意図が理解できない問題があったりすると、さすがに怒りが込み上げてくる。最近も、ある私立高校の生徒が宿題なので教えてほしいともってきた問題を眺めているうちに、そんな無茶苦茶な問題を作った大学の教師の顔が見たくなってきたものだ。ある私立大学の経済学部の数学の問題だったのだが、この大学を志望する受験生の学力度からすると、たぶん誰一人として解けなかったろう……いやそれどころか、はじめから手のつけようがなかっただろうと想像されるしろものだったからである。珍問難問の域などとっくに通り越し、「醜問」の域にまで達していたと言ってよい。

大学の名誉にかかわることなのでその名を明かにすることはできないが、昨今の少子化の煽りをくらって極端な定員割れをおこしている大学の一つとだけ書いておこう。あえて言わせてもらうならば、そんな大学(あまりこんな書き方はしたくないのだが)が、数学の出題範囲が数ⅡBまでのはずの経済学部の入試問題に、数Ⅲの微積の知識やロピタルの定理(高校の数Ⅲの範囲外)などを総動員しなければ解けないような問題を出題すること自体異常である。経済学部は理工系なみの数学を必要とするとはいうものの、国立大学や私立大学の超難関校といわれる大学だって、経済学部の場合には出題範囲は数ⅡBまでにかぎられている。

ここで詳しいことを書くわけにもいかないが、根号の中に三次式や分数式の入った関数のグラフを描き、それらのグラフの接線を求め、次にそのグラフの特定領域の接線が他の領域のグラフと交わる範囲での接点のX座標の最大値を定め、さらにそのときに接線とX軸、そしてもとの関数のグラフで囲まれる部分の面積を求める問題であった。

まず、根号の中の三次関数(この三次関数のX軸との交点は整数一個と無理数二個!)や対数関数混じりの分数関数を微分して増減表を書き(分数関数の極限値を求めるときに、たとえ知っていても証明抜きで単に結果だけを暗記しているにすぎないロピタルの定理が必要だったりする。ロピタルの定理を使わないでその極限値を求めようとすると、たとえも求まったとしてもそれだけで試験時間が終わってしまいかねない)、根号の中が正の値をとるXの領域を求めるだけでも一苦労で、この段階で「出題者のバカヤローッ!」と目をつりあげて罵りたくなる。

なんとかそれが求まると、根号のついたもとの関数全体の一次導関数を求めて(これがまた複雑な分数関数になる!)、それをもとに切れぎれの(もとの関数の根号内が正の値になる領域だけの)増減表を描き(厳密にやるなら当然二次導関数も必要になる)、さらにいくつかの関数値を求め、問題の関数のグラフを描く。ここまでくると、「オメー正気かよぉ?、クソッタレがあ!」と怒りもあらわに絶叫したくなる。

そのあと、複雑な無理式が分母にくる分数係数の接線の方程式を求め、それをゴチャゴチャ変形したり分母を払ったり、出てきた解の適否を判別したりしてなんとか正解となる接点の座標を求める。そして、最後のへんちくりんな図形の面積をいくつかに小分けしながら定積分して計算結果を足し終わる頃には目がすわってきて、「コンチキショーッ、殺してやるうっ!」と憤怒の度合いはついに頂点に達する。要するに「怒り曲線」が最大値をとるわけだ。下手をすると怒り曲線が尖って微分不可能な特異点になったり、限りなき憤りのために関数値が無限大に発散したりしかねない。ここまでくると、もう数学の本質とはまるで無縁な精神の拷問以外のなにものでもないからだ。

時間の限られた入試の現場で実際にこんな問題と遭遇したら、難関国立大学の理科系の受験生だって、完答出来る者はほとんどいないだろう。そんな状況からすると、その大学の受験生でこの問題に手をつけたものがあったとはとても思われない。もちろん、より高度な知識をもつ数学の専門家なら高みから見下ろすこともできるから、それなりの展望もきいて、直観的にその解答方針やポイントを押さえることもできようが、受験生の知識の範囲でそれをやれというのは無茶苦茶な話である。そもそも、そんなことができるくらいなら大学なんかに行く必要などないと言ってもよいくらいなのだから……。

もしかしたら、こんな出題をした大学の先生は、万人に一人の忍耐力と集中力の天才を探すつもりだったのかもしれない。そうでなければ、受験生時代によほど嫌な思いをした結果それがトラウマとなり、その反動で受験生に対するサディスティックな趣味に生き甲斐を感じるようになったのかもしれない。

出題者のほうはあらかじめ用意しておいた答えをもとにして、意地悪な落とし穴やクリアするのに特殊な閃きのいる障害物をあれこれと設けながら問題を作っていくからよいようなものの、いきなりそれをやらさせる受験生のほうはたまったものではないだろう。しかも近年は複雑な任意の関数とその適当な定義域を入力するだけで自在にグラフが描けるパソコンソフトなどもあるから、問題を作成する側はいくらでも凝りに凝ったグラフや図形をデザインすることができる。かつてはグラフの形状がわからないから微分してその概形を求めていたのに、コンピュータの発達のおかげで、いまは正確なグラフを先に描いてから、微積の問題をデザインするという、本末転倒なこともできるわけである。

まあ、たとえ難しくてもそれが将来の本質的な学習内容につながる問題ならある程度やむをえないのだが、計算量がやたら多く単にひねくれているだけの難問なら、これほどに迷惑な話はない。迷路の構造原理を考えさせるために迷路に挑ませるのならよいが、時間を制限したうえで、同じ原理を何重にもかさね繰り返し(こういうのをフラクタル図形的ともいうが)やたら複雑怪奇に設定した巨大迷路にチャレンジさせ、時間内に抜けられないとお前の人生は真っ暗だぞと脅迫するような異常さは、笑ってすませられる問題ではない。

では、あえてそんな出題が繰り返される裏にはどんな意図があるのだろう?。どんなに易しい大学でもそれなりのプライドを守るため、入試問題だけは一応の格好をつけておかねばならないということはあるのかもしれない。また、出題担当の大学教師が不勉強で高校生の数学の修得範囲に十分な配慮していないということもあろう。私学ということもあって、たとえ悪問が出題されたとしても、誰も実効性のある批判をすることができないという事情もないとは言えない。

しかし、私にはいまひとつ特別な理由があるようにも思われてならない。皮肉な見方かもしれないが、端的に言わせてもらうと、出題と採点の労力の省力化である。とくに記述式の問題などにおいては、十分に計算し尽した良問を作り、部分点や中間点などを細かくつけるとなると、問題を作成したり多数の答案の採点処理をしたうえに、細かな点数の集計までしなければならない入試担当者の労力は大変なものとなる。だが、極端に問題が難しければその必要はほとんどない。定員割れをしそうな大学の場合、入試の得点が実際どれだけの意味をもつのかはわからないが、様々な理由で、答案を含む入試資料をそれなりに整え一定期間保管はしなければならないだろうから、この問題は痛し痒しといったところなのだろう。

ただ困ったことに、難問奇問の余波が及ぶのはそれを出題した大学の受験生だけに留まらない。むしろその大学に関係ない者への影響のほうが大きいのだ。受験書専門の出版社や予備校などはそれらの一癖も二癖もある問題を掻き集め、「超難問集」とかいったような類の問題集を作成する。厳しい受験態勢を敷き管理主義的傾向の強い一部の高校教師のなかには、その種の問題集を購入し、そこから選んだ問題を新たに問題用紙にコピーして教材にしたり生徒の宿題にしたりする者がいる。教師たちのほうは問題集に付属する模範解答をもっているからよいようなものの、なんのヒントもないままに真正面からそれをやらされる生徒のほうはむろんたまったものではない。

そういった難問を教材にする教師たちが解答を見ながらでも予習をし、あらかじめしっかりポイントを押さえてから、丁寧な解説つきでその問題を解いてみせ、生徒の疑問点に答えてくれるのならまだ許せる。もちろんそんな教師もいるようだがそれは少数派に過ぎないようだ。たいていの場合は、「こんな大学でもこの程度の問題を出すんだ。このくらいの問題ができなくてどうする!……そんなことじゃ、志望校なんか受からないぞっ!」とばかりに激しく生徒にプレッシャーのみをかける。

自分だっていきなりそんなヒネにヒネた問題をやらされたら完答などおぼつかないくせに、そんなことは棚に上げて生徒を煽りたてる。そして最後にはこれまたコピーしただけの解答を生徒に手渡し、「できなかったこれを見てできるようになっとけ!」と声高に宣言し、根性論だけをぶちあげたあげく、実際にはその問題について自らは何一つ教えないままに終わらせてしまう。私のかつての教え子にも高校の教師がかなりいるが、そんな教師になっていないことをひたすら願うばかりである。

ほとんどの生徒の場合、そんな難問を自力では解けるはずがないし、解答を見てもその意味を理解するのさえ困難だから、真面目であればあるほど思い悩み、ひどくなると精神脅迫症寸前の状態にまで陥ってしまう。いきおい彼らは、予備校の教師や家庭教師、身近な数学専攻の人間などに助けを求めることになるが、助けを求められた側だって即座に対応するのは容易でない。たとえ解くことができたとしても、教えを乞うてきた生徒の力量や理解度に合わせて解りやすく説明することは難しいし、そうするにはそれなりの時間もかかるからだ。

相談を受けた愚問珍問を解いてやり、その要点を説明し終えたあとで(要点もへったくれもないのだが)、「こんな問題できなくても大丈夫なんだよ。くだらないもいいとこなんだから」と心から慰めてやると、相手はいかにもほっとしたというような安堵の笑みを浮かべることが少なくない。どんなに彼らが精神的に抑圧された状態にあるかがわかるというものだろう。

いっぽう、行き詰まったときに誰かに助けを求めるそんな生徒の両親だって、そのために相当な出費を迫られたりすることになりかねない。社会全体として考えてみるとき、これはもう時間的、経済的な意味でも、さらには人的エネルギーの観点からしても大変なロスだと言わざるをえない。不況な時代には予備校や塾産業の発展は経済活性化の要因になりうるから、それらの存在を支える超難問や奇問には意味があるなどという皮相な見方も成り立つかもしれないが、そんな見解は教育のあるべき姿からは言うまでもなく外れている。

「泥棒にも三分の理」という諺があるくらいだから、難問奇問を作った大学の先生方には当然「四分や五分程度の理」くらいはあるに違いない。また、難問奇問をよしとしない大多数の大学の先生方にも、入試を担当するに際してはそれなりの苦労はあることだろう。受験者のなかから合格者の選抜をするという行為に完全無欠な方法など存在しないからだ。次週はそのあたりのことについて思うところを少しばかり述べさせてもらいたいと思う。
2000年7月19日

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