初期マセマティック放浪記より

142.北旅心景・小樽

定刻ぴったりの午前四時十分、あざれあ号は小樽港に着岸した。係員の誘導にしたがって無事に下船し、フェリーターミナルの駐車場にいったん車をとめたあと、まずは軽い朝の運動と、しばらくフェリー埠頭の周辺を歩き回ってみることにした。車止めの鉄柵を跨いで越え、そう遠くないところにある岸壁に出ると、そこには、「SEA PINK」という船名の外国貨物船が一隻停泊していた。船名は英語だが、船の雰囲気からすると、実際にはロシア船のようであった。その船名通りに、船体の主要部はオレンジがかったピンク色に塗られていた。

その船が横づけになっている岸壁のすぐそばには、大小三、四十台ほどの中古車が横一列に並んでいた。どうやら、それらの車はこれからその貨物船に積み込まれロシア方面に運ばれることになっているらしかった。いまでは小樽港は対ロシア貿易の表玄関みたいなところになっており、中古車が日本からの主要輸出品のひとつになっていることは衆知の事実だから、そのこと自体はべつだん驚くには当たらなかった。

早朝のことゆえ、むろん車の積み込み作業はまだ始まっていなかった。付近には他に人影などまったく見当たらなかったから、私はもっぱら軽い気持ちで、ずらりと並ぶ中古車群を一台一台眺めながら歩いていた。どの車も前後のプレートナンバーを剥がされ、フロントガラスの内側には小樽市港湾局の押印のある輸出確認証みたいなものが外から見えるように置かれていた。ほとんどの車はかなり年数が経っている感じで、国内でなら十万、二十万といった価格で取引されているシロモノのようであった。

ところが、順に車を眺めていくうちに、意外にも二、三台、かなり新しい車が含まれていることに気がついた。とくにそれらの中の一台はぴかぴかの新車に近い感じだった。近づいてよく見てみると、トヨタのランドクルーザーで、タイヤもまだ真新しく、フロント上部には来年三月まで有効な陸運局の車検合格証が貼られたままになっていた。もちろん、ナンバープレートは前後ともに取り外されてしまっていたが、奇妙なことに、車の中の後部座席にはかなり上質の男物の皮製コートが一枚残されていた。

もしかしたらこれって盗難車の可能性もあるんじゃないかな、最近、その手の話もよく耳にすることだし――そんな思いが一瞬脳裏をよぎった。そこで、もういちど前面にまわってフロントガラスの内側を覗きあらためてみると、意味不明のロシア語らしい文字が書かれた小紙片が置かれているだけで、他車に付されているような小樽市港湾局の押印入りの確認証らしきものは見当たらなかった。同様の車が他にも一、二台あったから、実際には何か別の事情があったのかもしれないが、いずれにしろ、そのまま船に積み込まれるにしてはどこか異様で不自然な感じだった。

その時である。背後にただならぬ視線のようなものを感じた私は、はっとしてSEA-PINK号のほうを振り返った。船上のブリッジ付近にロシア人らしい中年の男が立ち、凄みのある眼つきでこちらのほうをじっと睨んでいたのである。状況から察すると、かなり前からこちらの一挙一動を監視していたものらしい。

これはヤバイ、まさかとは思うが、他に目撃者もいないことだし、船内にでも連れ込まれたらそれで一巻の終わりということにもなりかねない――そう感じた私は大急ぎでその場を退散し、人影の多いフェリーターミナル駐車場へと戻った。「横浜の港から……」という有名な童謡の文句の向こうを張って、「小樽の港からお船に乗って異人さんに連れられていっちゃった」なんてことになったらたまったものではない。

車の運転席につき、出発の準備をしていると、明らかに先刻の貨物船のロシア人船員とおぼしき男が、岸壁のほうから自転車に乗ってやってきて、何か様子でも窺うかのようにして私の車のとまっている駐車場周辺を走り回っているのが妙に印象的でもあった。むろん、私の目をひいたそのランドクルーザーが盗難車であったと断定できるわけではないし、もしかしたらべつに何らかの事情があったのかもしれない。だが、どこか尋常でない感じを受けたことだけは確かであった。

フェリーターミナルの駐車場を出発したのは、小樽到着後一時間ほどしてからだった。小樽の街並みそのものは過去何度も歩き回ったことがあるので、早朝の倉庫街周辺を軽く走り抜け、そのあと小樽郊外の祝津方面までちょっと足をのばしてみようかと考えた。フェリーターミナルからそう遠くないところには近年開設された石原裕次郎記念館などもあるらしかったが、開館時刻まではまだずいぶんと時間があったし、同館にとくべつ興味を覚えるほどのこともなかったので、その付近はさっさと通過してしまった。

早朝とあってまだ観光客の姿もない倉庫街をキョロキョロしながら走っていると、「小樽ナニコレ貿易」という横長白地の看板の掛かった倉庫の前に出た。確かに、一目見ただけで「何これっ?」と不思議になって足を止めたくなるようなたたずまいの倉庫である。もちろん、そうやって通りがかりのお客に足を止めてもらうのが、先方の狙いでもあるのだろう。私もすぐに車を降りて、その倉庫の入口に立ってみた。

両開きの倉庫入口のドアや道路に臨む壁一面には、まるで一貫性のない、いや、むしろ意図的に一貫性を排除したと思われる雑多かつ奇妙な店頭装飾品がゴチャゴチャと配されていた。「小樽ナニコレ貿易」という看板文字の下に「THE DREAM ANTIEQUES」という横文字の一文が添えられているところをみると、やはり旧倉庫を利用した観光客相手の古物雑貨店なのだろう。中に入ってみたいという衝動に駆られたが、まだ午前五時を回ったばかりだったので、それは無理というものであった。

あらためて倉庫の入口周辺を眺めまわしてみると、その一角だけでさえも、実に様々な種類の品物でこれでもかと言わんばかりに飾りつけられていた。たとえば、入口のドアの上には、昔の大八車の木製車輪やリム付きの古タイヤ、船の銅鑼かなにかだったと思われる金属円盤、外国車のナンバープレート、横文字入りの各種木札や紙札、願掛けの絵札といったような物などが見事なまでの無統一さで掛けたり貼ったりされていた。

また、道路に面する壁や窓際には、板を切り抜いて作った乳牛や象や海鳥類の飾り物が置かれているかと思えば、それらとはまるで無関係なゴルフボールの模型や様々な巣箱が飾られていたりし、さらにそのまわりには、流木とおぼしき樹木の枝々が雑然と、それでいて、なんらかの秘められた意図を感じさせる配列で並べられてもいた。トーテムポールや鹿かなにかの動物の頭蓋骨、半ば壊れかかった古い長椅子などもその風変わりな装飾のかなめとして一役買っていた。

片隅に「流木売ります」と書かれた木の長札も掛かっていたから、あちこちの海岸に流れ着く流木類を拾い集め販売してもいるのだろう。おそらくは流木のほかにも様々な漂着物などを売っているに違いない。いずれにしろ、意表を突いた風変わりな装飾物が古い倉庫のドアや壁面と見事にマッチし、街並みともうまく調和しているのは、新旧、美醜、善悪のすべてを呑み込み同化してしまうこの古い港町小樽ならではのことであるように思われた。

小樽の中心街からすこし離れたところにある小漁港祝津の集落を抜け、すこしばかり坂道を走ると日和山灯台下に出た。そこで車を降りてエゾカンゾウの咲く小道を登ると、灯台とそれに続く展望広場へと出た。明治十六年に点燈して以来この地の海を守り続けてきた日和山灯台はそう大きな感じの灯台ではないが、それでも三十五キロメートルほどの光達距離を有している。断崖上の展望所からは、折りからの朝日に煌く真っ青な海が見下ろせた。また、玄武岩層特有の柱状葉層の発達した断崖のあちこちにはウミネコの姿なども散見された。

顔を上げ視線を遠くに転じると、神威岬と積丹岬で知られる積丹半島方面の大きくのびやかな山影が望まれた。北海道の海沿いの道はほぼ走り尽くしているのだが、神威岬から神恵内に抜ける積丹半島先端部の道路だけはまだ走ったことがない。道路工事そのものが難航、ようやくその部分が開通したのは近年のことだから、走ろうにも走りようがなかったのだ。そうこうするうちに、もし今回の旅の帰路にでも神威岬方面に立寄ることができれば、未走の部分を通り抜け、北海道沿海道路完全走破を成し遂げることができるのだがという思いが胸に募ってきた。

日和山灯台のすぐ下には、北海道指定の有形文化財「鰊御殿」なるものが建っていて、往時の鰊漁の繁栄ぶりを無言のうちに偲ばせてくれた。まだ時刻が早過ぎるので内部を見学することはできなかったけれども、民間の木造建築物としては異例ともいえる大きな建物だった。切妻造り風の大屋根中央の最上部には天窓がしつらえられており、洋風とも和風ともつかぬ伽藍調の庇や、脇玄関を支える象鼻等とともになんとも不思議な雰囲気を醸し出していた。

玄関下に立っている解説板によると、この建物は積丹半島有数の網元だった田中福松という人物が、明治三十年頃、七年の歳月をかけて建造したものなのだという。昭和三十三年になって、北海道炭礦汽船株式会社がそれを買い取り、鰊千石場所として知られたこの祝津日和山に移築、小樽市に寄贈したのだという。その規模は間口十六間、奥行七間、建坪百八十五坪で、全盛期には約百二十人の関係者が寝泊りしていたのだそうで、用材としては、ヤチダモ、セン、トドマツなど、北海道産原木三千石(約五百四十トン)が使用されているらしい。

小樽をあとにし、日本海沿いに北上を開始する直前、ふと思い立って、いまは東京で有能な情報処理関係の雑誌や書籍のライターになっている小樽出身のNさんに久々の電話をした。もうずいぶんと昔のことになるが、Nさんがまだ無名だった時代、たまたまその能力に着目した私は、ネットワーク関係の書籍の共著者に抜擢したことがあり、それ以来の付き合いだ。現在、彼女は、専門ソフトのソース・コードの作成や情報処理システムの構築から各種ソフトの優れた解説記事の執筆まで、幅広い業務をこなしている。コンピュータ関係の実践知識面においてはもはや私などが及ぶところではない。

寝ぼけ半分で電話に出たNさんに、「いま小樽にいるよ、ちょっと前にフェリーで着いたばかりでね!」と告げると、「えっ、そんな!……なんでもうちょっと早く小樽に行くって言ってくれなかったんですか」と驚きの声を上げた。朝が早い実家の御両親はもう起きているはずだから、いまから電話して朝食でも御馳走させる、ついでに小樽の町も案内させるからと彼女は申し出てくれたのだが、それではあまりに申し訳ないので、その話は遠慮した。
「どうせ本田さんのことだから、これから道内を端々まで走りまわるつもりなんでしょ?。でも、そろそろお歳なんですから、いい加減に身のほどをわきまえないといけませんよ!。なんなら運転手でも務めにこれから北海道に飛びましょうか?」

この身を案じてくれるNさんのそんな言葉は有り難かったが、彼女だってもうそこそこの年齢の女性である。しかも、超多忙な身でもあるようだから、「うん、じゃよろしく頼むね!」などと気軽に答える訳にもいかなかった。
「まあ、なるようになるさ、車に乗ったまま旅の露と消えるなら、それはそれで仕方がないよ。深山や海辺の断崖などを歩いていて突然クラッとくるようなら、それも運命と諦めるさ。もしそうなってもお焼香も香典もいらないからね。人生の中で変な奴と出遭った……、そんな想い出のひとつでも記憶の片隅に残しておいてくれればそれだけで十分さ!」

ちょっと格好をつけすぎたかなとは思ったが、とりあえずそう言い残して電話を切った。空は晴れ渡っていて、降り注ぐ朝の陽光はどこまでも明るい。既に累積走行距離は十五万キロ近くになっているが、目下のところは愛車のエンジンの響きも軽快で、北海道の旅のスタートはそれなりに順調だといってよかった。
2001年7月18日

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