初期マセマティック放浪記より

57.日記の効用

皆さんは日記というものをどのようにお考えだろうか。近頃、私は、日記というものの持つ意味をいま一度見直しているところである。人間の記憶とは相当にいい加減なもので、自分の人生の中で起こったかなり衝撃的な出来事であっても、二・三年もするとその大半を忘れ去ってしまうのが普通である。まして二十年も三十年も前のこととなると、ほとんどが深い時の霧の奥に包み込まれてしまっていて、想い出そうとしても滅多なことでは蘇ってきてくれない。そんなとき、ほんの一・二行の、場合によってはわずか一単語のメモのようなものでも残っていれば、それが連想のキーとなってその当時の出来事を糸を手繰り寄せるようにして想い出すことができるものだ。

もともと日記などというものは、いつか他人に公開しようなどどいう不純な意図でもないかぎり、自分だけにわかる短い記録程度にしておいたほうが長続きもする。また、そうしておけば、万一他人に見られた場合でもそう慌てることもないし、後のちになってからは、かえってそのほうが役に立つような気もしてならない。一週間に一度程度でもよいから、ちょっと時間をつくって、ほんの一言だけ、あとになってからその時の事などを想い出すことの出来るような自分向けのキーワードを記しておくだけで十分だと思う。長々と名文を綴る必要もないし、生の事実を赤裸々に書き残しておく必要もない。

たとえば、「○月○日、雪、歩く、送る、寒い!」といったなんの変哲もない短いメモでも、当人が読めば、それを通してすっかり忘れていたその日のドラマティックな出来事が蘇ってくるということは十分にありうることだからだ。

どんなに波乱万丈の人生を送った人でも、いつか過去をを振り返る歳にいたったとき、来し方の道が白い霧の中に沈んでしまっていて、もはや、かすかな記憶としてさえ昔日の出来事を想い起こすことができないとすれば、やはりそれは悲しいことに違いない。

私は学生の頃から一冊で三年使える博文館の当用日記帳を愛用してきた。この歳になって空白も多い青春期の日記をめくってみると、自分にしかわからないごく短いメモを通して、その背後に隠されている数々の出来事や当時の様々な世相などが次々と脳裏に蘇ってくる。しかもその多くは、相当に重大な出来事だったにもかかわらず、すっかり忘れてしまっていたことばかりなのだ。自分では決して記憶力の悪いほうではないと思っているし、また、まだ重度の痴呆症にかかるような歳でもないのだが、それでもこの有様なのである。

正確な言い回しは忘れてまったが、「日記のない人生なんて、人生をドブに捨てるようなものだ」というような意味の言葉を残した偉人があった。これまであまり気にもとめずにきたその人物の言葉の背景が、今にしてようやく理解できるようになってきた感じである。秋という愁い深い季節のせいなのか、それとも、やはりそれなりに歳をとってきたせいなのかはわからないが……。

若い時代に使いふるした予定表やメモ用の手帳、ビジネス手帳などは、そのときにはたいしたものに感じられなくても、捨てないでそのままとっておくと、ある時期が来たとき、それらは掛替えのない心の財産に変わるのではないかとも思う。それらは十分に日記の代用となりうるし、あらためて日記をなどと大仰に構えなくても、その程度のことなら誰にでも容易に出来ることなのだから……。

もっとも、いくら記憶を蘇らせるためのキーが残っていたとしても、それらのキーを活用する余力さえも残っていないほどに自分の頭のほうがボケてしまったら、これはもう話にならない。もしもそのような事態になってしまった場合には、記憶を呼び戻すためのキーがとんでもない妄想を生み出すきっかけになったりする可能性だってある。そうしてみると、歳をとってから日記の効用にあずかるためには、どうやら一定レベルの頭脳の働きだけは維持しておく必要がありそうだ。

広島在住の村上昭さんという方がおられる。アコーディオン演奏のコンクールで全日本チャンピオンにもなったことのあるアコーディオンの名手で、広島周辺にはその演奏に魅せられたファンも少なくない。むろん、私も村上さんの奏でる絶妙なアコーディオンの音色の虜になった一人で、昔からこの方とはずいぶんと懇意にさせていただいている。

実は、村上さんは、以前、「老人性痴呆症を考える会」の会長さんなども務めていたことがおありで、痴呆症のことについてはたいへんお詳しい。すでに他界されたご両親が晩年極度の老人性痴呆症になられ、村上さん自身、かつて大変なご苦労をなさったことがおありという。そのため、村上さん御夫妻は、その時の経験を活かし、親身になって痴呆症の老人を抱える家族の方々の相談にのったり、的確なアドバイスをしたりして現在に至っておられる。

この村上さんによると、将来、老人性痴呆症にならないようにするには、四十代からその予防に努める必要があるという。いろいろある予防策のなかで統計的にみて重要な対策の一つは、とにかく指を動かすように心がけることであるらしい。それも、できるかぎりすべての指を動かすようにしたほうがよいという。指の運動は脳を強く刺激し、結果的に脳機能の低下や痴呆症への進行が抑えられるというのである。その点、音楽家などは、職業上必然的にすべての指を使うため、老人性痴呆症になる割合は低いようだ。

ただ、困ったことに、私などは指を動かして弾く楽器に無縁である。ハーモニカならそれなりに吹くが、音にバイブレーションをきかせるとき以外は、指の運動にはあまり関係ない。舌と唇、それに肺の運動が脳の刺激に有効だというのなら文句はないのだが、そんな話は聞いていない。うーん、どうしたものだろうと考えているうちに、そういえば、パソコンのキーボードならずいぶん昔から叩いているなあと気がついた。キーボードの操作には当然指を使う。パソコンの操作にともなう五本の指の運動は相当なものである。

パソコンなら懐かしい8ビットのアップルマシン以来の常連で、一時期、数理科学関係の教育ソフトの開発に携わっていたこともある。通信歴も長く、十年以上も前にニフティサーブなどのパソコン通信システムが登場して以来の通信マニアで、初期の頃はSTRANGERなどというふざけたハンドルネームでパソコン通信に入り浸っていた。その成果(?)をもとに、まだインターネットの普及していない数年ほどまえ「電子ネットワールド: パソコン通信の光と影」(新曜社)という、パソコン通信の人間模様とその問題点を描いた本をハンドルネームで書いたりしたほどだった。だから、指先の運動量だけは現在に至るまでにかなりのものになっている。それが少しでも先々の痴呆症予防に役立っているとすれば、こんなありがたい話はない。

いまやパソコンやワープロが全盛の時代……どこかのソフトハウスが、いろいろな便利な検索機能や文化・生活関連のデータのついた使いやすい当用日記専用のソフトでも開発してくれ、ディスク一枚、あるいはメモリーカード一枚だけで一生分の日記をカバーできるようになれば言うことない。もちろん、いまでも、システム手帳やデータ・ベースその他のソフト類を活用すれば、それに近いことができないわけではないけれど、自分で日記専用の優れたソフトに仕上げようとするとまだまだ結構面倒なことが多いようだ。過ぎし日の記憶を手繰り寄せるためのキーとなる日記と、一定の脳の老化防止のための指の運動をともなうキーボード操作……考えてみると、これはなかなかうまい話なのかもしれない。

AICの読者の皆さん、適度の指の運動を維持していくために、今後とも懲りずによろしく私たちにお付き合いくださいますように……。えっ?……AICはマウスだけで読めるからあまり指の運動にはならないですって?……でもまあ、人差し指の運動くらいにはなるでしょうから、何もしないよりはそれでもずっと増しですよ!
1999年11月24日

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