初期マセマティック放浪記より

49.奥の脇道放浪記(5) 偽羅漢への懲罰と祟り

絵・渡辺 淳


偽羅漢への懲罰と祟り?――眺海の森から鳥海山へ

道路標識に導かれるままに松山町の集落の背後にある小山をいっきに登りつめると、急に視界がひらけ、ゆるやかな起伏の広がる高みにでた。森というよりは緑の芝生とお花畑に覆われた公園といった感じだったが、そこがほかならぬ眺海の森だった。十分に整備の行き届いた敷地内の小高いところを選んで、いくつか展望台が設けられている。車から降りてそれらの展望台のひとつに立った我々は、その雄大な景観に思わず息を呑んだ。眺望絶佳といううたい文句にだまされたつもりで訪ねてみた眺海の森だったが、その看板に偽りはなかった。

眼下に広がる庄内平野のただなかを大きくうねり流れる最上川の川面は、やわらかな日差しを浴びて、すずやかに輝いて見えた。そして、最上川の河口があると思われる方角に目をやると、「眺海」という言葉にたがわず、青霞む日本海の海面が遠望できた。まだお昼前とあって太陽は空高くに位置してはいたが、ここから西に沈む夕陽を眺めたらさぞかし綺麗なことだろう。庄内平野の奥まる方へと目を転じると、白く輝く月山連峰が、そして、そのすこし右手には、昨日越えそこなった朝日山系の山並みが遠く連なって見えた。

だが、圧巻と形容してもあまりあるのは、眺海の森の北側の展望だった。あの白銀の冠を戴く鳥海山の雄大な山影がいまにも手の届きそうなところに迫って見えていた。どうやら眺海の森の「眺海」という二文字には、暗に「鳥海山を眺める」の意味をも含ませてあるらしい。それにしても、こんな素晴らしい展望台があることにこれまで気づかずにいたなんて、なんとも信じられないか思いだった。

眺海の森からの大自然の眺望を存分に楽しんだあと、我々は広大な敷地の一角にある森林学習展示館を見学したが、この展示館の展示物には、しらずしらずのうちに見学者の興味をかきたてる斬新な工夫がいろいろとなされていて、とても感心してしまった。この地を訪ねる機会のある方、とくにお子様連れの方々には、ちょっとだけでものぞいて見ることをおすすめしたい。展示館を出たあと、駐車場の近くにある外山ロッジに立ち寄り、牛丼とソバを組み合わせた八百円のセットメニューを注文し昼食にしたが、なかなかの味だった。もっとも、これは、二人で長岡を出発して以来はじめての外食だったから、そのぶん、よりいっそう美味しく感じられたのかもしれない。

眺海の森をあとにする直前になって、私は、敷地中央近くの展望台通路の脇に「三太郎の日記」などの作品でしられる阿部次郎の記念碑がたてられているのに気がついた。どうやら、阿部次郎はこの松山町の出身で、鳥海山や月山、最上川などを日々眺めながら育ったらしい。私が高校生だった頃には、小林秀雄、亀井勝一郎らの文章と並んで阿部次郎の文章もよく教科書などにとりあげられていたもので、当然、大学入試にもその文はしばしば出題された。だから、三太郎の日記を読もうと試みたことが何度かあったが、高校生の身にはきわめて難解な思弁性の強い文章だったので、いつも頭がくらくらしてきて、結局、完読はできずにおわってしまった苦い想い出がある。

阿部次郎自らの姿を投影した三太郎なる人物は、作中のあちこちで自身のことを痴者と嘲っていたものだが、もともとささやかな能力しか持ち合わせない私などは、その痴者の吐いた膨大な言葉の一端さえも満足には理解できずに頭を抱え込んでいたようなわけだった。それにしても、あの相当に屈曲の多い内省的な文章を書いた阿部次郎が、この雄大な自然の中で幼少期を送ったという事実は、私にすればずいぶんと意外なことのように思われた。

眺海の森に別れを告げた我々は、国道三四五号伝いに平田町、八幡町を経て、広大な鳥海山の南東山麓に位置する遊佐(ゆざ)町に入った。ガイドブックにこそ紹介されていないが、五月から六月にかけての遊佐町の田園風景は実に素晴らしい。田園風景とは、まさにこのような景観のことを言うに違いない。私はこれまでにも二、三度、緑の輝く時節に遊佐を訪れ、農道の片隅に車を駐めてカーステレオから流れ出るベートーベンの六番「田園」に心ゆくまで聴き入ったことがあるのだが、ある意味でそれは最高の贅沢だったといってよい。もっとも、このときは、遊佐の町に入ってほどなく、渡辺さんも私も急に眠気をもよおしてきたため、田圃の畦道に車を寄せ、鳥海山を眺めながら一時間ほど昼寝することにした。

ひと眠りしたあと、再び吹浦方面に向かって走りだした我々は、ほどなく月光川という美しい名の川を渡った。たぶん、満々と水を湛えたこの静かな川の水面には、満月の晩など、月の光が幻想的な輝きを見せながら映えわたるのであろう。その晩の月はちょうど満月にあたっていたから、月が東の空に昇るまでこの地に留まってその名の由来を確かめてみたい気分ではあったが、まだ午後三時前だったので、とりあえずは心の中で月見をしながら旅路を急ぐことにした。

空は晴れわたっていたにもかかわらず、吹浦が近づくにつれ、目に見えて風が強まってきた。水田の青々とした稲の苗が激しく波打っている。地図を見ての私の推測だが、日本海から吹き寄せる気流が高く大きく聳える鳥海山にぶつかり、それを回避するかたちでこの吹浦一帯を通過するせいなのかもしれない。地形上このあたりが風の通り道になっているとすれば、吹浦というその地名も納得できるというものだ。吹浦の集落で国道七号に合流してほどなく、鳥海ブルーラインの山形県側入り口にある駐車場に到着した我々は、すぐ近くの荒磯にある十六羅漢岩を訪ねてみることにした。十六羅漢岩は、鳥海山の山裾が日本海に大きくせりだした、吹浦の集落の北はずれの地点に位置している。

松尾芭蕉の一行は、酒田から海沿いにこの吹浦さらには有耶無耶の関を抜け、いまは秋田県に属する象潟まで北上し、そこを奥の細道の旅の北限の地として再び酒田方面に南下した。余談になるが、平成八年十一月二十五日、「奥の細道」の芭蕉直筆本が関西で発見確認されたというニュースが全国に流された。実は、同年の三月末に私がささやかな紀行作品で奥の細道文学賞を受賞した際、主催者側のはからいで、選考委員の大岡信、尾形仂の両先生がたと歓談しながら会食をする機会に恵まれた。

その席上、大岡先生が、尾形先生にむかって奥の細道の真筆が発見されたという話が内々に伝わっているが、本物なのかという問いかけをなされ、それに対して、尾形先生は、いま専門家が確認中だが、ほぼ間違いないのではないかとお答えになっていた。そして、現在は民間人の手にあるものなので、公的なところが買い取るとなると、途方もない金額が必要になるだろう……奥の細道ならぬ文字通りの「億」の細道だという洒落を飛ばされたりもしておられた。それから八ヶ月をかけて慎重な検討がなされたあと、ようやく公に直筆本だとの確認発表がなされたわけだが、未熟な作品で芭蕉ゆかりの文学賞を受賞した同じ年にたまたま奥の細道の真筆が発見されるという望外なめぐりあわせに、いまも私は不思議な感慨を覚えている。

巨大な十六羅漢岩は、日本海の荒波の寄せる磯辺に、なんとなく鶏冠を想わせるたたずまいで聳えていた。岩の正面にまわると、なるほど、釈迦如来に普賢、文殊の両菩薩とおもわれる中央の三像を両側からはさむようにして、十六体の羅漢像がずらりと岩に彫りこまれている。参詣者を見下ろすように並んではいるが、どこか愛嬌があるその表情には親しみがもてた。つい茶目っ気を起こした我々は、お釈迦様とおもわれる大きな彫像の前まで交互によじ登り、そこで座禅まがいのポーズをつけて写真を撮りあった。十六羅漢岩を十七羅漢岩に変えてしまおうという魂胆だったが、私が渡辺さんの姿をレンズでとらえ、シャッターを切ろうとした瞬間、修業不足の偽羅漢どもめがといわんばかりに、岩のお釈迦様が一瞬ニヤリとなさったような気がしたのは、私の思い過ごしだったのであろうか……。

羅漢岩のある岩場の周辺の海中には質のよさそうなワカメがはえていた。昨夜食べたワカメ汁は想った以上に美味かったから今夜もまたワカメ汁をつくろうということになり、再び我々はワカメ採りを始めたのだった。激しく潮の寄せ引きする浅瀬に浮かぶ小岩を伝い歩きながら、水中に腕を突っ込んでワカメを採るのだが、足場の岩にはぬるぬるとしたアオサが一面に生えていて注意しないと滑ってしまう。海育ちの私は、幼い頃からこの手の岩場を歩くのには馴れていたが、すこし離れたところにいる渡辺さんの様子を横目でちらりとうかがうと、どうもその足取りは危なっかしい。長年山仕事で鍛えた渡辺さんは健脚には違いないが、磯の歩き方にはまたそれなりのコツがあるからだ。

ちょっと離れたところにある岩に飛び移ろうとしている渡辺さんを見て、思わず危ないですよと声をかけようとしたのだが、次の瞬間、魔がさしたとでもいうか、まったく別の思いが私の脳裏をよぎったのだった。我々が東北地方を放浪すると知ったある編集者から、旅から戻ったあと、その放浪記を書いてもらえないだろうかという打診を受けていた。人間の心とは、なんとも厄介かつ意地悪なものである。正直に告白しておくと、その編集者の顔を思い浮かべながら、もしもここで渡辺さんが海にはまるような珍事でもあれば傑作な放浪記が書けるのになあと、私は心の中で思ったのだった。

いつしか渡辺さんにもとりついていたらしい五月三十一日の祟り(?)と、ふとどきな偽羅漢に対する十六羅漢岩のお釈迦様からの懲らしめと、魔の手にそそのかされたとしか言いようのない私の思念の働きとの三重攻撃にあったのでは、いくらなんでも耐えられようはずがない。その二、三秒後のこと、はずみをつけて向かいの岩に渡ろうとした渡辺さんは、アオサの面にものの見事に足をとられ、もんどりうって冷たい海中に転落した。浅瀬だったから命に別状はなかったものの、これが岩場の先端のもっと深いところだったら、渡辺さんを助けるため私も即座に飛び込まねばならなかったろう。

お釈迦様にすればそれこそが本望であらせれたのかもしれないが、もしこの身のほど知らずの連中に溺死でもされ、間違っていますぐに天上界にでもやってこられたらとても面倒などみきれないと、途中で思い直されたものらしい。そうでなければ、隣の普賢、文殊の両菩薩様が、「お釈迦様、お釈迦様、お腹立ちでしょうが今日のところはこの程度で……」となだめてくださったのであろう。

全身ずぶ濡れの渡辺さんと大急ぎで車に戻り、ヒーターを入れて車内を温め、まずはその着替えを手伝った。幸い、駐車場の一角に水場があったので体を拭いたり、潮に濡れた衣服を水洗いすることはできた。水場で渡辺さんが衣類の潮抜きをなさっている間に私はもう一度岩場に降りて、いますこしワカメと亀の手を採取した。その名の通りどこか亀の手に似たところのあるこの異形の貝は、波の激しい磯辺の岩のすき間に群生しているが、綺麗な海水でさっとゆでて食べるとその姿形からは想像もつかないほどに美味い。むろん、採った亀の手をゆでるために海水をペットボトル詰め込むことも忘れはしなかった。

十六羅漢岩そばの駐車場をあとにし、鳥海ブルーラインに入ったのは午後五時半頃だった。ぐんぐんと高度が上がるにつれ、道路の両側にまだ厚いままの残雪の層が現れた。この冬、いかに雪が多かったかが偲ばれる。よく見ると残雪層の下部のあちこちから柔らかそうな蕗の薹が芽をだしていた。あんな瑞々しい色のものなら間違いなく美味いからと勇んで車から降りた渡辺さんは、先刻の名誉挽回とばかりに、すぐさまたくさんの蕗の薹を採取して戻ってきた。ワカメ採りではちょっとばかりしくじったが、ここは山育ちの渡辺さんの腕の見せどころに違いない。ともかく、こうして、その夜の食事の用意は万全となった……はずであった。

三十分ほど走って着いた鳥海山中腹の大平台に立つと、遊佐から酒田方面へとのびる広大な平野が、おりからの夕陽を浴びて赤緑に映え輝いて見えた。また、はるかに、月山や朝日山系の白い峰々を望むこともできた。大平台からの眺望を満喫したあと、鉾立を経て秋田県側の象潟方面へとくだる途中で、太陽は日本海を紅く染めながら水平線の向こうへと沈んでいった。夕闇の迫る日本海のただなかに、ひとつぽつんと平たく浮かぶ飛島の島影が私にはなんとも印象的に思われた。ブルーラインの秋田側ゲートを出て象潟の町に近づく頃には、黄昏の中にほの白く浮かぶ鳥海山の左肩に満月がのぼってきた。その月は、まわりを氷のかけらで固められているみたいにぼーっとにじんだ色の光を放ち、ほどなく深い眠りにつこうとする鳥海山の稜線を神秘的な彩りに演出して見せてくれた。

国道七号に合流したあと、我々は奥の細道の旅路における北限の地、象潟をいっきに通過した。芭蕉の時代、美しい入り江に数々の小島が浮かび、松島と並び称せられる景勝地であった象潟は、文化元年(一八〇四年)の大地震で水底が隆起して干上がってしまい、いまでは松をいただく小丘のみが点在するだけになっている。

潮に濡れた渡辺さんの身体を洗い流すためもあって、象潟から北にすこし行ったところにある金浦温泉のホテルに立ち寄り、入浴だけをさせてもらった。そして、そのあと、我々は西目町付近の海岸近くに車を駐め、遅い晩飯の支度に取りかかった。ちょっと奇妙な取り合わせであったが、ナメコ豆腐とワカメ入りの味噌汁をつくっていると、渡辺さんが、これを一緒に入れると美味いよと言いながら、煮立った鍋汁の中に先刻採ってきた蕗の薹を次々に勢いよく放り込んだ。内心、大丈夫かなと思ったのだが、蕗の薹の調理にあまり詳しくない私は、渡辺さんの言葉と経験を信じるしかなかった。

さぞかし珍味であろうとおもわれる味噌汁を一口味わおうとした渡辺さんの顔は奇妙にゆがんだ。「本田さん、こらあかんわ、ごめん!」……というのが、その直後に渡辺さんの発した言葉だった。いったい何事かと、私もおそるおそるその味噌汁を口にしてみると、なんと味噌汁の味がまるでしない。かわりに、明らかに蕗の薹の強いアクのせいだとおもわれる、ちょっと苦味ばしった異様な感覚が口いっぱいに広がった。ナメコも豆腐もワカメも、さらには味噌汁そのものもみんな同じ味がするではないか。あまりの珍味に私のほうはすぐさまギブアップしてしまった。

「こんな柔らかそうな蕗の薹に出逢うたのははじめてのことなんで、アク抜きせーへんでも、これならすぐに食えるとおもたんだがなぁ……。もしかしたら、これも、お釈迦様の祟りかもしれんなぁ」と言いながらも、渡辺さんは責任を感じてか、なおも果敢に鍋汁に挑んでおられる。私のほうは、口なおしのためにもとボトルに詰めてきた海水を取り出し、急いで亀の手の調理に取りかかった。幸いというか、亀の手のほうはいつもの通り美味そのものだった。

なんともしまらない晩飯騒動が終わったときには、時刻はすでに午前零時半近くになっていた。我々は、それからほどなく、天空の明るい望月に見守られながら、深いふかい眠りについた。
1999年9月29日

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