初期マセマティック放浪記より

145.北旅心景・海の宇宙館

海の宇宙館には、天売島の自然に関する数々のすぐれた資料類が展示されているほか、充実した内容の情報コーナーなども設けられていた。時間に追われながらの館内見学において、まっさきに私が目を奪われたのは、風変わりな数個のウミガラスの卵だった。表面全体にまだら模様のある薄緑色の卵で、長径は8~9センチ、短径は5~6センチくらいで、鶏の卵よりもひとまわり大きな感じだった。だが、なによりも奇妙なのはその卵の形だった。なんと、西洋梨をより細長くひきのばし、くびれをなくしてしまったような形をしているのである。長い長い時間にわたる突然変異と自然淘汰の繰り返しの結果、環境に適応した形のものが残ったと説明されればそれまでだが、超常的な意志の介在さえも想像させるその造形の妙に、私はひたすら感嘆するばかりであった。

オロロン鳥という愛称で知られるウミガラスは、北のペンギンとも呼ばれている。なるほど、展示されているその写真やビデオ映像、さらにまた精巧なデコイ(擬似鳥)などを見てみると、姿形といい黒白の羽毛の組み合わせといい、小型のペンギンそっくりだった。体長は四十センチ余、翼長は二十センチ余であるらしい。ウミガラスは陸上ではペンギン同様直立してよちよちと歩き、飛翔時は小刻みかつ連続的に羽ばたきながら海面近くを直線的に飛ぶのだという。空中を飛べるところがペンギンとは違っている。もちろん、水中では見事としかいいようのない泳ぎっぷりなのだそうだ。

このオロロン鳥、すなわちウミガラスは、営巣せず、断崖の岩棚や岩の窪み、岩の裂け目などに一個の卵を直接に産み落とすらしい。孵化するまでに何かの拍子で卵が転がったりしたとしても、西洋梨に似た形をしていれば、円弧を描いて動くので、そのぶん岩棚から転がり落ちる可能性は少なくなる。なんとも見事な環境への適応ぶりというほかはない。

係員の大塚さんに伺ったところでは、1938年頃には天売島だけで40000羽生息していたウミガラスは1983年には8000羽に減少、1995年の調査時における確認個体数は20羽前後にまで激減したという。現在では国内の繁殖地はこの天売島の兜岩付近に限られており、絶滅危惧種として有志の人々を中心に懸命の保護対策がとられてはいるが、前途は楽観できない状況であるらしい。1960年代から1970年代にかけて天売島周辺で盛んだったサケ・マスの流し網や、オオナゴ漁などの刺し網にかかり、おびただしい数のウミガラスが犠牲になったのが、固体激減の主因だったと考えられているようだ。ウミガラスは水中で両翼を羽ばたかせながら横方向にも魚を追尾する習性があるため、海鳥のなかでももっとも魚網にかかりやすいのだそうだ。

一般に生物というものは、生息数が一定数を下回るとその個体数が急速に減少する性質をもつ。それにくわえ、その後数を増した天敵のオオセグロカモメやハシブトガラスなどにとって、大幅に群が縮小し集団防衛能力の落ちたウミガラス・コロニーを狙い、卵や雛を捕食するのが容易になったことなども、個体急減の一因となったようである。

近年ではよほど条件に恵まれないかぎり直接に見聞することの難しくなったウミガラスの姿や鳴き声を、海の宇宙館では、コンピュータによるデジタル再生画像や再生音声として、来館者に公開している。オロロン鳥というから、その鳴き声には「オロロン、オロロン……」という、どこか物悲しげな響きが秘めているのかと思ったが、実際に聴いてみると、ちょっとしゃがれた感じでゴロゴロと咽を震わながら発せられる「オロロロロロロ……」というかなり力強い響きの声だった。ガラガラガラガラと人がうがいをしている時の音のようにも聞こえなくもない。

ウミガラスの卵は30~33日の抱卵期を経て孵化するらしい。誕生した雛は一ヶ月弱で巣立ち(岩棚立ち??)の時を迎えるが、まだ飛ぶことができないため、日没後に岩棚からまるで落下でもするかのように飛び降りるのだという。ただ、落下地点が岩場や石原の上であっても降下のショックで負傷するようなことはないのだそうだ。下降後、雛はすぐに海に出、雄の親鳥から二ヶ月間ほど潜水行動や捕食行動を教わり、そのあと成鳥としてひとり立ちするとのことだから、ウミガラスの雄は相当な教育パパということになる。天売島では産卵は六月におこなわれ、雛は八月半ばまでに巣立ちを終える。

サハリンのチュレニー島や千島列島などには、皇帝ペンギンのコロニーそっくりの様相を呈する大規模なウミガラスの繁殖地がいまもなお存在し、冬場にはその一帯から日本近海まで大挙して南下するそうだから、ウミガラスが世界的に絶滅の危機に瀕しているわけではない。だが、たとえそうだとしても、かつて国内の一大繁殖地であったこの地での確認個体数が20羽前後に激減してしまったというのはさびしいかぎりだと言わざるをえない。

館内には海鳥や野の草花の写真をはじめとする、天売島の四季の自然を活写した数々の写真が展示されていた。撮影者の鋭く豊かな感性と自然への深い造詣を偲ばせるそれらの素晴らしい写真群は、海の宇宙館の運営母体、ネイチャーライヴの代表を務める寺沢孝毅さんの作品だった。寺沢さんには、「ウミネコ」、「オロロン鳥の島」(偕成社)、「北千島の自然誌」(丸善)、「北海道 島の野鳥」、「空と大地の声」(北海道新聞社)などの著作がある。私も写真集「空と大地の声」を一冊購入して帰ったが、なんとも詩情豊かな作品集で、心洗われることこのうえない思いだった。

著書に記されたプロフィールによると、1960年に北海道士別市で生まれた寺沢さんは1992年北海道教育大学を卒業すると、天売島の小学校に赴任した。天売の自然に魅せられた寺沢さんは教員生活のかたわら島の四季の写真を撮り続け、1991年、銀座キャノンサロンで写真展「海鳥の島」を開催、大好評を博した。それが転機となり、翌1992年には10年間にわたって勤め上げた教職を辞し、フリーの写真家として独立した。

北海道青少年科学文化振興賞などを受賞した寺沢さんの活動は、単なる写真家としての範囲にとどまることはなかったようである。日本野鳥の会会員、日本鳥学会会員となった寺沢さんは、天売島の総合的な自然保護、さらには自然観察と自然学習の普及促進、国内外への広報活動など一貫しておこなうため、1999年、この天売島海鳥情報センター「海の宇宙館(TEL&FAX 01648-3-9009)」をオープンさせた。

天売島の自然情報を満載した独自のパンフレットを作成したり、天売島海鳥保護対策委員会発行の機関紙「海鳥保護」の編集と発行に奔走したり、自然観察や自然探索の学習会や写真撮影などの島内ツアーを企画運営したり、島外への情報発信や協力要請のための基点になったりと、海の宇宙館の存在はいまや天売島にとって欠かせないものとなっている。インターネット上の天売島紹介のホームページ(http://www.teuri.jp)も寺沢さんをはじめとする海の宇宙館の運営母体、ネイチャーライヴに関係するスタッフによって管理運営されているようだ。寺沢さん撮影の写真ギャラリーもあるし、天売島の各種情報コーナーやネイチャーボランティア募集のコーナーなども設けられているから、関心のある人はアクセスしてみるとよいだろう。

島内には、他に天売島国設鳥獣保護区管理棟なる施設があり、こちらにも海鳥の写真や剥製、生態のビデオなどが用意されてはいるみたいだが、国設をうたうわりにはその機能と提供情報の充実度はいまひとつの感じらしい。この施設についても、諸々の管理運営面で海の宇宙館のスタッフがなにかと協力をしているようだった。

話は前後するが、東京に戻ってから、いくつか確認しておきたいたいことなどがあったので海の宇宙館に電話をした。そのときたまたまその電話に応対してくださったのが寺沢さん御本人だったが、その穏やかで謙虚な声の響きの奥には、人一倍強靭な意志が秘められている感じがした。

寺沢さんが代表を務めるネイチャーライヴは有限会社になっているから、その運営下にある海の宇宙館はかたちとしては民間経営の施設ということになる。どう考えてみても営利目的で設立された施設ではなさそうだから、その維持管理に要する人的労力やコストだけでもそれなりに大変なことだろう。そう思った私は、海の宇宙館設立の意図と経緯を率直に寺沢さんに尋ねてみた。

天売島の総合的な自然保護と四季に応じた自然情報の収集伝達をはかるには、現地に機能性の高い公的な情報センターを設けることが不可欠だと、寺沢さんは考えた。そして行政当局をはじめとする諸々の関係者にその必要性を訴え続けてはみたものの、なかなかその構想は実現しなかった。そこでやむなく、寺沢さんら有志は、自力でそのような情報センターを設立しようと決断したのだった。

当然、そのためには資金の調達が必要となるが、金融制度上の問題もあって、個人相手には資金を融資してもらえない。そのため、寺沢さんは自らその代表となって有限会社ネーチャーライヴを設立したうえで資金を借り入れ、1999年、ようやく天売島海鳥情報センター、海の宇宙館の開設に漕ぎつけた。「この先まだまだ借金を返済し続けてていかなければなりません」という寺沢さんの言葉は、はからずもこの国の文化行政の貧困さを物語っているように思われてならなかった。

目下大きな問題になっている道路特定財源の恩恵もあって、北海道の道路事情は近年驚くほどによくなった。奥深い山間部にいたるまで縦横に立派な舗装道路が通じており、幹線をはずれるとダートの悪路だらけだった昔の姿が信じられないくらいである。それでもなお、もっと道路の建設をという地元自治体の声は絶えないようだ。もちろん、道路建設の必要性をすべて否定する気はないのだが、長年にわたって国内を隅々まで旅してきた私などは、どう考えても不必要に見える道路や過剰整備とも思われる立派な道路がほとんど利用されないまま、全国いたるところに存在しているのを目にしてもきた。

現行制度では道路の建設建設と関係施設の整備のみに使用が限定されている道路特定財源のほんの一部でも地方の文化行政に転用することができれば、寺沢さんのような方々が余分な苦労をしなくてもすむだろうにという思いもした。もちろん、道路の建設は経済的な波及効果を生み出し地域の活性化につながるが、海鳥ごときのために資金を投入しても経済効果は得られない、などという反論も起こるだろう。だが、既得権益擁護の狙いを秘めたその種の主張のほとんどは自己欺瞞に満ちている。

日本以外の先進国の多くが、自然保護、さらにはそれに付随する文化施設の建設維持、人的資源の確保と育成に多大の国費を投入し、豊かな自然と伝統文化の残る地域にそれなりの活性化をもたらしていることを思えば、その種の反論に無理があることは自明だろう。どんな対象に資金を投入していくにしろ、要はその資金が確実に地元の人々の手にいきわたり、結果としてその地域の活性化につながる工夫がなされればよいだけのことである。道路建設を主体とする建設業を通してだけしか地元には資金を落とす方法がないとする従来の考え方を、この際我々は大きく改めていく必要があるだろう。

島巡りのために必要な時間を気にしながらも、私は海の宇宙館の展示資料やビデオ映像を存分に楽しんだ。ウミガラス同様に近年その個体数の減少が危惧されているケイマフリの映像も実に興味深いものだった。Spectacled Guillemot(眼鏡をかけたウミガラスの意味)という英名からも想像できるように、なぜかケイマフリは両目のまわりと嘴の付け根あたりだけが白い色をしていて、まるで白い大きな眼鏡をかけているようにもみえるのだ。その姿はなんともユーモラスで愛嬌に満ちている。全体的にはハトをもうひとまわり大きくしたような体型をしていて、夏羽の場合、目のまわりと嘴の付け根、それに翼のごく一部をのぞいては黒い羽毛に覆われている。

ケイマフリのもうひとつの特徴は、見るからに鮮やかなその赤い色の足である。ケイマフリという和名の語源は、「赤い足」を意味する「ケマフレ」というアイヌ語なのだそうだが、なるほどという感じであった。解説資料によると、口の中も赤い色をしているらしい。北海道周辺の島々の断崖が主な繁殖地で、天売島はその代表的な営巣地になっている。1963年頃までは繁殖期になると3000羽ほどのケイマフリが観察されていたが、1972年には400羽前後にその数が激減し、その後も減少の傾向にあるようだ。この鳥は、五月頃、断崖の岩の裂け目や岩と岩の隙間に二個の卵を産みつけるが、七月に巣立っていく雛は通常一羽だけなのだという。

ケイマフリが獲物を追いかけ水中を泳ぐ姿をビデオで見たが、両翼を広げ大きく羽ばたきながら進む様子は、まさに水中飛翔という表現がぴったりであった。驚いたことに、空中を飛ぶ時の鳥の姿とほとんど変わりがないのである。その不思議な光景にすくなからぬ感動を覚えながら、私はひたすら目の前のビデオ映像に見入ったのだった。そして、その撮影をおこなった水中カメラマンのカメラワークにも敬意を表したい気分になった。

寺沢さん撮影の展示写真や、コンピュータのデジタル動画で見たウトウの帰巣風景も素晴らしかった。思わぬ誤算がもとになってウトウ帰巣の光景を見学する絶好のチャンスを無にすることが決定的になっていたので、そのぶんいっそう印象的だったのだろう。水平線の向こうにいましも沈まんとする夕陽と茜色の夕焼け空を背に、無数の黒点となって一斉に帰巣する何千羽、何万羽ものウトウの大群、嘴一杯に数えきれないほどのイカナゴをくわえて断崖上部の斜面に続々と着地し、ちょっと頼りない足取りながらも懸命に雛の待つ巣穴へ向かうそのけなげな姿、そのいっぽうでそんなウトウの帰還を待ち伏せ獲物を奪い取ろうとするウミネコの群――いまどきこんな命のドラマを直接見ることができるのは、国内広しといえどもこの天売島だけに違いない。

世界最大のウトウの繁殖地である天売島では、六月のこの時期、数十万羽ものウトウの群が見られるらしい。ケイマフリ以上に水中飛翔の得意なウトウは繁殖期をのぞいては陸にあがることはなく、その一生のほとんどを海上で過ごすのだという。かれらは海に面する断崖上の斜面草地に奥行き二メートルに近い穴を掘って営巣する。天売島の繁殖地では、十メートル四方の斜面に平均二百個前後の巣穴があるのだそうで、入口の異なる巣穴どうしが奥で繋がったりもしているとのことである。

繁殖期でもウトウは日中海上で過ごすため、日没後の帰巣時をのぞいては陸上でその姿を見かけることはほとんどない。四月中旬頃、巣穴の奥に一個だけ産み落とされた卵は、五月中旬から孵化しはじめる。雛が孵ると親鳥は一日に一度だけ日没後に沢山の魚をくわえて巣に戻り、空腹の雛に給餌するのだという。帰巣途中でウミネコに餌を奪われたウトウの雛は、翌日の夕暮れ時まで絶食を余儀なくされるのだろうか。もしかしたら、前日の食べ残しなどがあったりするのかもしれないが、そのへんのことは資料では確認することはできなかった。

付け焼刃的学習ではあったが、海の宇宙館で天売島の自然環境と海鳥の生態についておおまかなところを学んだ私は、再びレンタ・サイクルに跨ると、島の西南端にある赤岩展望台目指して懸命にペダルを踏みはじめた。相変わらずの猛烈な向かい風で、平坦地でさえも自転車は思うように進んではくれなかったが、周辺の斜面一帯にウトウの巣穴とウミネコの営巣地が見られるという赤岩展望台に立つのが当面なによりの楽しみであった。
2001年8月8日

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