翌日は午前五時に起床し、直ちに身支度を整えると、隣村の中甑港へと急行した。そして、まだあたりが暗いうちにフェリー「ゆうき」に車を積み込んだ。目的地の下甑島長浜港までは一時間ほどかかる。まだ睡眠が足らないらしい息子を船室に残し、動き出したフェリーの無人の甲板に立つと、朝の冷たい潮風が眠気を一掃するかのように激しく全身に吹きつけてきた。
進行方向右手には、ヘタの串の瀬戸にかかる甑大明神大橋と、沖の串の瀬戸にかかる鹿の子大橋のユニークなたたずまいが遠望された。両橋とも、一昨日、上甑島から中甑島に向かうときに渡った橋である。海上からあらためて眺めてみると、甑大明神大橋のほうは大きな一本の支柱を中央にもつヤジロベエ風吊り橋、いっぽうの鹿の子大橋のほうは十一個のアーチを連ねた複合アーチ橋と、どちらの構造もなかなかに面白いものである。
意外に思われるかもしれないが、上甑島に住む人で下甑島を一度でも訪ねたことのある人は百人中に二・三人あるかどうかというところだろう。本土からの船便が上甑島経由で下甑島に向かう関係で、その逆の割合はもう少し高いかもしれないが、似たようなものであることは間違いない。私自身、下甑島を訪ねたのは過去に二度しかなく、一度目は上陸することなく船で一周しただけ、二度目は下甑島最南端の手打という集落を訪ね一泊して戻っただけで、陸路伝いに下甑島全体を訪ね歩いたことはない。上甑島と下甑島はそれぞれに独立した生活圏を有しており、本土との交流はそれなりに頻繁でも、二つの島相互間の交流は現在でもあまり活発だとは言い難い。そのせいもあってか、それぞれの島の言葉の言い回しや抑揚にはかなりの違いが見受けられる。
すでに一体化している上甑・中甑の両島と下甑島とを隔てているのは、中甑島と下甑島との間に横たわる藺牟田の瀬戸である。潮流の激しい幅一キロメートルほどのこの海峡が甑島列島の生活と文化を二つに分断してしまっているのだ。海というものはありがたいが、いっぽうでなかなかに厄介なものでもある。藺牟田の瀬戸に橋を架けることは、むろん甑島の一体化を望む多くの島民の悲願ではあるが、概算でも百五十億円の工事費を要するというこの夢の掛け橋を実現するのは、現在の経済情勢ではなかなかに容易なことではない。
串木野発の定期フェリー「こしき」なら、中甑港を出たあと、途中で平良、鹿島の両港に寄港し、それから長浜港に向かうのだが、この日乗船した不定期フェリー「ゆうき」は、いっきに長浜港目指して進んでいく。藺牟田の瀬戸を右手に見ながらしばらく走ると、下甑島の島影が斜め前方に迫ってきた。
カブトムシの胴体部を細長くしてデフォルメしたような形の下甑島中央部には、海抜六百メートル余の尾岳をはじめとする険しい山々が急傾斜の山稜をなして連なっている。フェリーは主要集落のある東海岸沿いに進むので、船上からはその威容を窺い知ることはできないが、下甑島の西海岸線は日本でも屈指の壮大な断崖をなしており、その勇壮な断崖美に魅せられる人は少なくない。名ばかりの秘境も多くなった昨今だが、この島の西海岸一帯はいまもなお秘境と呼ぶにふさわしい。まだ私が子どもだった頃までは、甑島、特に下甑島の山岳部には島固有の大型の山犬がかなりの数生息していた。椋鳩十という童話作家が甑島を舞台にして描いた作品の主人公は、それらの山犬たちだった。
長浜港は下甑島東海岸の中ほどに位置している。さわやかな朝の陽光に後押しされるようにして長浜港に降りた私たちは、地図を広げて行程を検討したあと、とりあえず、下甑島北端部の鹿島村へと向かうことにした。背後の山頂に設けられた航空自衛隊の主力レーダー・サイトに資材補給をする関係もあって、長浜港周辺はいまではすっかり近代化されている。
余談になるが、いまからおよそ三百年前の慶長七年(一六〇二年)、この長浜の海岸に、地元出身の船長喜左衛門に案内されたドミニコ会の神父四人と修道士一人が上陸した。フランシスコ・デ・モラレス、トーマス・エルナンデス、アロンソ・デ・メーナ、トーマス・スマラガの各神父とイルマンファン・デ・ラバディア修道士の五宣教師で、彼らは同年六月一日にルソン島のマニラを発ち、七月三日に下甑島に来島した。一行が上陸した翌日は小雨模様だったが、宣教師と船員たちは美しい浜辺の砂地に帆布を用いたテントを張り、その中で日本に到来して最初のミサをおこなったという。欧州の生地を離れ、神の戦士として遠くこの地までやってきた彼らは、この長浜の地でいったい何を祈ったのだろう。
当時の厳しい環境下の甑島に居を構えて布教に努めるかたわら、彼らは、島津氏の本拠、鹿児島はいうにおよばす、はるばる京都方面へも出向いていったようである。モラレス神父などは、慶長十二年、駿府において二代将軍徳川秀忠に謁見もしている。しかし、慶長十四年(一九〇九年)、島津藩主の布告したキリシタン追放令によって彼らは甑島を追われ、長崎に退去した。それから十三年後の元和八年(一六二二年)、長崎で捕らえられたモラレス、メーナ、スマラガらの宣教師は、火あぶりの刑に処せられ殉教している。
下甑島に渡ったとたんに私を包んでくれたのは、何とも言えない解放感だった。この島には私を直に知っている人は誰もいない。声をかけられることもないし、挨拶に神経を使うこともないから、気の向くままにのんびりとあちこちをうろつきながら、残された島の自然を楽しむことができる。実際、下甑島はそんな私の想いに十分応えてくれそうだった。
下甑島のほうも道路はみなほどよく整備舗装されていた。峻険な地形の関係で、カーブの多い急傾斜の山道や細い枝道もずいぶんとあったが、整備は行き届いているから、ゆっくりと車で移動しながら旅を楽しむには十分だった。他に通行車はほとんどなく、免許取りたての息子の運転練習にも格好だったので、私のほうは助手席に移り周辺の景観を心ゆくまで堪能(たんのう)することにした。朝の光に青く輝く眼下の海面が美しかった。東方にうねり広がる青潮のはるか向こうには、薩摩半島の山影が一幅の墨絵のように浮かんで見えた。隣の上甑島からではあったが、幼少時、容易には渡ることのかなわなかったあの本土の遠い山影に私は幾たび憧れ、幾たび熱い想いを馳せらせたことだろう。
どこか海辺で朝食をつくって食べようということになったので、長浜のすこに北側にある芦浜という小集落に降りてみることにした。石英質の細かく美しい砂からなる芦浜の浜辺は、秋という時節柄もあってか驚くほどに静かだった。海水浴のシーズンをはずれているからとはいえ、いまどきこれだけ見事な浜辺を独り占めできるところはそうそうない。
砂浜の波打ちぎわでしばらく遊んだあと、私たちは芦浜の入江のはずれにある小さな船溜りのそばへ行き、車を駐めて朝食の準備に取りかかった。頑丈な造りの防波堤で囲まれた船溜りには小さな漁船が何隻かつながれていたが、人影はまったくなかった。コッフェルをコンロにかけてお湯を沸かしていると、船溜りの背後の山の急斜面にそって、どこからともなく二つか三つの黒い影がこちらを目指して飛び降りてきた。私たちの朝餉(あさげ)の気配をいち早く嗅ぎつけたハシブトガラスどもだった。
島育ちのこの種のカラスどもは連携プレイが実にうまく、なかなかに抜け目がない。子どもの頃に何度も痛い目に遇っているから騙されはしないが、いっぽうのカラスに気をとられ油断したりすると、あっという間にもういっぽうの奴に食べ物をかっさらわれる。昔はハンカチや風呂敷で包んだ弁当箱ごともっていかれるなんてことも起こったりした。浜辺で魚の干物などをつくる漁師にとっても、ハシブトガラスは気の抜けない存在だ。
ほどほどに警戒しながら、出来上がった朝食を口にしようとすると、すぐ近くの枝にとまってこちらをじっと見ていた奴が、なんと「オハヨウ」と鳴くではないか。「ハ」の音が「ア」音に近く「オアヨウ」とは聞こえるが、どうみても通常のカラスの鳴き声ではない。我が耳を疑いながら、なんて聞こえるかと息子に尋ねると、やっぱり「オハヨウ」と鳴いているみたいだという。人間の心に取り入る方法をどこかでチャッカリ学習したに違いない。まあ、「オハヨウ」と挨拶されたんでは無視するわけにもいかないから、パン切れと有り合わせの煎餅を投げてやると、お前らも甘いなあといわんばかりにそれらを巧みにくわえて飛び去った。
しばらくすると、またやって来て「オハヨウ」と鳴くので、今度は「コンニチワ」か「コンバンワ」と鳴いてみろ、もしそう鳴いてみせたらこのハムをやってもいいぞ、とからかってみたが、さすがにそれは無理なようだった。
小学校の頃、近所の悪童連中と共にシラカシの大木によじ登り、その枝間にかけられていたカラスの巣の中のヒナをのぞこうとしたことがある。侵入者に気がついた親ガラスが、けたたましい声でグァーッ、グァーッと鳴きはじめると、あっというまに近隣のカラスが十数羽ほど飛んできて、樹上の我々を恐ろしい鳴き声で威嚇したり、鋭い嘴で攻撃したりしはじめた。
いたたまれずに退散しようとしたものの、なにせ高い樹上のことだから容易には動きがとれない。鋭い嘴で眼でも狙われたらたらたまらないので、手でカラスの攻撃から身を守ろうとすると、こんどは身体のバランスが崩れてしまう。地上に墜落でもしたら大怪我することは必定だったから、それはもう必死ではあった。幸い、騒ぎに気がついた近所のオジサンたちがやってきて、石油缶を打ち鳴らし、長い竹竿でカラスどもを追い払ってくれたので、最悪の事態だけは避けることができたのだった。
朝食後、防波堤の上をなにげなく歩きながら船溜りの内外の海中を覗き込んだ私たちは、そこに繰り広げられている望外の光景に息を呑んだ。一見なんの変哲もない小さな船溜りだったが、集落からも離れており、無人の小さな漁船が数隻繋留されているだけだったからだろう、静かに揺れる海の水は深い底のほうまで青々と澄み輝いていて、海底の砂地や大小の岩々までがはっきりと見透せた。各地の港や船溜りによくありがちな油や汚物などの浮遊物もまったく見当たらなかった。
もっとも、ただ単に海の水が青く澄み切っているだけならそう驚くにはあたらない。私たちが目を奪われたのは、その水中で繰り広げられている生物たちのドラマだった。防波堤の内側にそった深さ数十センチほどのところを、全身の飾りビレをいっぱいに広げたミノカサゴが餌をあさりながらのんびりと泳いでいた。本体は二十センチ足らずの大きさだが、赤茶色の横縞のいった幾本もの長い飾りビレを扇のように伸ばし開いているので、まるで葉を八方に広げた植物のようにもみえる。その動きも、泳いでいるというよりは防波堤の垂直面伝いに這っているという感じだった。人間を恐れる様子などまったくなく、実に悠然としたものである。
水族館では別として、このように天然のミノカサゴが間近で泳ぐ姿を観察できることはきわめて珍しい。興奮した息子が、カメラを手にミノカサゴの動きを追いかけるのを横目で眺めながら、防波堤から二・三メートルほど離れたところに目を転じると、ガマ蛙のオタマジャクシを五・六倍にしたような形の黒っぽい生き物が数匹泳いでいるのが見えた。はじめはフグの稚魚かと思ったが、よくよく見てみると手足を揃えるように前に伸ばし、波打つように激しくヒレを動かすアオリイカのこどもだった。これもまた甑島ならではの光景である。
しかしまだ、ドラマは終わらなかった。すこし防波堤を移動しながら水中を見つめると、予想に違わず、鮮やかなコバルトブルーやグリーンの小魚が群れをなして戯れているではないか。島の呼称でキンカッペイという体長四・五センチのこの魚が無数に乱舞する様が、昔は島内のいたるところで見られたものだ。もしやと思って、そのもうすこし沖を見やると、やはり同じくらいの体長の淡いピンクの小魚が、これもまた群れをなして泳いでいた。地元ではイセッジャコと呼ばれる魚で、私には懐かしいことこのうえない光景だった。
船溜りの中ほどを指さしながら、あれは何だと息子が言うので視線を上げると、ピーンと張った背ビレだけを水中の外に出しながら縦一列に並んで泳ぐ五・六匹の魚影が見えた。のんびりとしたなかにもどこかリズミカルなその動きは、あらかじめ申し合わせでもしたかのように揃っていて、ユーモラスなことこの上ない。ちょっと離れているので魚体をはっきりとは見分けることが出来なかったが、黄色と黒の背中の縦縞模様から推測すると、ヤッコダイの一種ではないかと思われた。
防波堤を突端へと向かって歩きながら、こんどは外海側の海中をのぞこうとすると、突然バシャツという激しい水音がして、何かの生き物が大あわてで逃げ出していく気配がした。大急ぎで向けた視線の先に一瞬だけキラリと光る細長い姿を見せて消えたのは、二・三匹の太刀魚だった。
外海側の海中のあちこちには色とりどりの海草や小ぶりの珊瑚が生えており、その周辺で餌をあさるカサゴやチョウチョウ魚の姿が手にとるように観察できた。大きなイソギンチャクやムラサキウニ、無数の鋭い毒針を不気味に動かすガンガセの姿もあった。じっと目を凝らすと黄色の地肌に斑模様のついた海のギャング、ウツボの影までもが見てとれた。
防波堤の突端近くの水中では、黒と白の縦縞をもつ魚が、頭を下に向け、体をほぼ垂直に立てて珊瑚の根元のフジツボかなにかを噛っていた。生魚になるにはいま少しかかりそうな小型の石鯛だった。白い水しぶきをたてながら、沖のほうで何度も空中に跳ね上がる大きな魚影も遠望された。小一時間ほど防波堤の周辺をうろつくあいだに目にした魚や海中生物は、ざっと四・五十種にのぼったろうか。ちょっとした天然水族館とでもいってよいこの船溜りに都会育ちの息子はすっかり感動してしまったようだった。私は私で、少年時代に遊んだ懐かしい磯辺の風景にはからずも再会できた喜びでいっぱいになった。
一昔前の甑島ならこんな光景はいたるところで目にすることができた。いまでも船に乗って沖の瀬場に出たり、集落を離れたところにある荒磯に行ったりしさえすれば、昔ながらの海の姿を見ることはできるであろう。しかし、集落のすぐ近くのなんの変哲もない船溜りで、これほどに豊かな生命のドラマを楽しむことができる場所は、国中を探してもいまではほとんど見つからないのではないかと思われた。
1999年2月10日