初期マセマティック放浪記より

70.鑑 真

六八八年(持統二年)唐の揚州江陽県にまれた鑑真は十四歳で出家し、揚州大雲寺の智満禅師のもとで修行に励むようになった。そこでの研鑽は日々に目覚しく、十八歳のときには道岸禅師より早くも菩薩戒を受戒する。菩薩戒は大乗戒とも呼ばれ、仏道における究極の悟りを理想に修行に勤しむ者が遵守すべき戒律のことである。具体的には、不殺、不盗、不淫、不妄語、不?酒(酒を売買してはならない)、不説過罪(誤った思想や罪事を説いてはならない)、不自讃毀他(自らを讃美したり他人を傷つけたりしてはならない)、不慳(物惜しみをしてはならない)、不瞋(怒りをあらわにしてはならない)、不謗(人を誹謗してはならない)……といったような戒律からなっている。

二十歳になった鑑真は、さらなる教えを請うために、高僧の住む洛陽、長安の都目指して旅立った。そして、二十一歳の若さで長安の実際寺に登壇、弘景律師より剃髪の比丘(びく)に欠かせぬ戒めを学び、その厳守を誓う具足戒の儀をうけた。具足戒とは、悪を防ぎ非を制するために比丘や比丘尼が身にそなえるべき戒律のことで、比丘に二百五十戒、比丘尼には三百四十八戒とも五百戒ともいう規律が定められていたというが、比丘尼の守るべき戒律の数のほうがずっと多いので、現代なら男女差別だという厳しい批判の声が起こっても不思議ではない。

鑑真は二十六歳ではやくも講座に上り律疏(諸戒律の意義を註釈解説する講義)を講じたというから、やはり類稀なる俊英であったのだろう。四十代も半ばにさしかかる頃には、戒律の大師、すなわち、仏教の戒律を説き伝えることができる高徳の僧としてその名は唐の国中に聞こえ、「准南江左に浄持戒律の者、鑑真独り秀でて倫なし」と伝えられるように、揚子江中下流域や揚子江以南の地においては、他に並ぶ者なき存在になっていた。

唐にとってもかけがえのないこれほどに傑出した人物を、玄宗皇帝による渡航禁止の布告を犯してまで日本に招聘しようというのだから、誘うほうもその誘いに乗るほうも尋常の覚悟ですむはずがない。大和朝廷から派遣されたスカウトマン僧の栄叡や普照らの嘆願を受け日本渡航を決意した鑑真だが、渡航を現実に決行するとなると、当然密出国のかたちをとらざるを得なくなった。

栄叡や普照らが揚州大明寺において日本渡航を要請した翌年の七四三年、五十六歳になっていた鑑真は、いよいよ第一回目の日本渡航計画を練りそれを実行に移そうとした。ところが、この計画は如海という弟子の密告によって役人の知るところとなり、失敗に終わってしまった。それにもめげず、同年の十二月、真冬の東シナ海の荒波をついて第二回目の渡航が決行されるが、狼溝浦というところであえなく遭難、渡航はまたもや失敗に終わってしまう。

その後も鑑真らは再三不運に見舞われた。一年後の七四四年には、第三次の日本渡航計画が慎重に練られるも、再びその密議が発覚、栄叡が捕まえられてしまって計画は頓挫した。それでも懲りない鑑真は、同年の冬には天台山巡礼を表向きに揚州から南下、そのまま東シナ海沿いにある渡航船の待機地に回って出国を図ろうとした。ところが、黄巌県禅林寺に入ったところで警戒中の唐の役人に身柄を拘束され、結局、鑑真は揚州へと厳重に護送される事態となって、第四次の渡航計画も失敗に終わった。

普通なら四度も計画が挫折すると渡航の気力を根底からそがれてしまい、以後さらに二度のもの出国を企てるなどとても考えられない。しかし、敢えてそれをやってのけた鑑真という人物は、仏教の根本理念の一つである「大勇猛心」の塊のような存在であったのだろう。身命を惜しまず、大慈悲の教えにしたがって衆生のために尽力し、いかなる危険を冒しても仏教の教義の普及に努めるという大義が、鑑真の心を確固として支えていたに違いない。

また、その人徳の深さと精神の崇高さのゆえに、官民富貧を問わず鑑真に帰依する者が跡を絶たず、たとえ官命に背いたとはいっても、彼をとことん断罪することは不可能であったのかもしれない。それが大義に反するものであれば、衆生に先んじて時にその法をもおかす勇気をもつことは、真の宗教者の重要な資質であるとも思われる。むろん、その前提として類稀なる人徳と洞察力とが必要なのではあるけれども……。

宗教者としてばかりでなく、政治や経済面においても相当な力をそなえもっていたと思われる鑑真は、毎回の渡航を企てるに先だって、日本へと持ち込むために、貴重な経典や書物類、法具等をはじめとする大量の文物を収集した。密航計画が発覚したり出航後に遭難したりするごとに、それらは散逸あるいは流失してしまったが、それでも彼は挫けなかった。もちろん、多大の時間と費用を要するそれら文物の収集は、文字通りの独力では不可能なことだから、おそらく唐の国内にも鑑真の渡航の決意を理解しそれを密かに支援する官民の文人や経済人が相当数あったのであろう。

それから四年、表向きは静けさを保っていたものの、懲りない仏徒の面々はなおも秘密裏に日本渡航を画策していた。七四八年の春、栄叡と普照は同安郡より揚州崇福寺にいた鑑真のもとを訪ね、五度目の渡航決行を要請する。同年の六月に揚州を発った鑑真一行は水路伝いに狼山、三塔山を経由して九月に暑風山に到着した。そして、そこで天候待ちをしながら最後の準備を整えたあと、十月十六日に奄美、阿児奈波(沖縄)方面に向かって出航した。

それにしても、天運というものは時にはなんとも過酷なものである。鑑真の乗った船は東シナ海で激しい季節風に見舞われて帆や舵を破損、航行能力を失って二千キロ近くも南方へと漂流することになった。季節風が原因とされてはいるが、時期的にみて、いまでいう台風と遭遇したのかもしれない。航行不能に陥ったその船は、当時、「瑠求(りゅうきゅう)」と呼ばれていた現在の台湾を通り過ぎ、魏志倭人伝の中にも倭国の風俗と類似するとしてその名が登場する「?耳(たんじ)」、「朱崖(しゅがい)」の地、すなわち、現在の海南島へと流れ着いた。海南島はベトナムの東側にあってトンキン湾の一角を形成する島だから、日本とは百八十度方向が違うところに到達したことになる。漂着したのが十一月だというから、一ヶ月近く海上をさまよった末に、奇跡的に助かったのであろう。

第五回目の日本渡航も失敗に終わり、揚州から二千キロほども離れた南の僻地、海南島に漂着した時点で、通常の人間なら命運尽きたとすべてを諦めてしまったに違いない。しかし、大勇猛心の化身のごとき鑑真は、苦難の船旅の疲れを癒す暇さえも惜しんで再び立ち上がる。天性の自然体とでもいうのであろうか、彼は、次々に降りかかる困難な境遇を逆手にとり、いつのまにかそれらを新たな創造の源泉へと変えてしまうのだった。その超人的な意志力と着想の豊かさ、環境適応力の高さには唯々敬服するほかない。

唐の国内は言うに及ばず、近隣諸国にまで高徳の師としてその名を知られた鑑真には、各地に散らばった多数の弟子や帰依者からなる太く大きな人脈があった。その人脈と自らの知名度を頼りに、仏の教えを説き広めながら陸路を伝戒の大徳としての役目を果たしながら陸路を徐々に北上、揚州へと帰還することを考えた彼は、まず海南島の振州で馮崇債に会ったあと、同地の大雲寺を修築する。続いて万安州に馮若芳を訪ね、そのあと崖州に入ると、その地に崖州開元寺を造立した。崖州での勤行を果たすと、一行は広州へと向かうことになったのだが、その途中の端州で髄行の栄叡は再び日本の地を踏むことなく他界した。

栄叡の死去はさしもの鑑真にとってもたいへんな衝撃であったようであるが、年が明けた七五〇年、六十三歳になった彼は、愛弟子を失った悲しみをこらえつつも、残った普照らに随行されて広州から韶州へと向かった。そして、途中で人々に法話を説いたり寺院の造立修復に協力したりしながら韶州に入り、そこからもう一度揚州へと戻って行った。普照のほうはいったん韶州で鑑真と別れ、東シナ海に面する明州の阿育王寺へと向かった。入唐後に海岸線を南下して明州を訪れる予定になっている遣唐使一行との接触をはかるためでもあったのだろう。

再度の遭難と命を削るような漂流、さらには二千キロにもわたる伝教の長旅と、次々と身に降りかかる過酷な試練に耐えるうち、強靭でなるさしもの鑑真の身体にも避けがたい異変が生じていた。激しい潮風と強烈な太陽のもとでの過酷な漂流が原因だとも、白内障が急激に進行した結果だとも言われていて、ほんとうのところはよくわからないが、急速に視力を失った彼は、この年ついに失明してしまう。たとえ日本への渡航に成功し、ついには奈良の都に至りえたとしても、その絢爛の極みを目にすることなどは望むべくもなくなってしまったのだった。盲目の身で大海を渡り、そこからさらに遠い旅路を経て大和入りするなどもはや不可能と考える者も多かったかもしれない。しかし、鑑真も、そして残された普照もまだ日本渡航を諦めてはいなかったのだ。
2000年2月23日

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