名神高速道から北陸自動車道に入り、木之本インターチェンジを過ぎる頃には、いっきに空が暗くなり小雪がちらほらと舞い始めた。そして、敦賀インターチェンジが近づくにつれて雪の降り具合もどんどん激しくなってきた。琵琶湖北端から日本海沿いの敦賀湾方面へと抜ける道は、平安の頃まではかなりの難路だったようである。そのおどろおどろしい様子は、あの有名な紫式部日記などにも描きしるされている。まだうら若き乙女であった紫式部は、越前の国司をつとめた父の下向に随行し、その道を何度も往還したようである。のちに源氏物語となって結実する彼女の並外れた想像力と創作力は、そんな若き日々の生活を通して少しずつ培われていったのであろうか。
雪がひどくなったとはいっても、その点、現代の高速道路は楽なものである。四輪駆動に切り替えただけで、チェーンを装着するまでのこともなく敦賀に着いた。そして敦賀インターチェンジで高速道をおりたあと、若狭一帯を東西に縫う国道27号伝いに小浜方面へと向かって走り出した。目指すは、福井県大飯郡大飯町川上在住の画家、渡辺淳さんのアトリエである。この二十日から銀座で開かれる渡辺淳絵画展の作品の運搬を手伝うため、私は久々に冬の若狭にやってきたようなわけだった。
しばらく走るうちに雪は大粒の雨に変わった。今年の冬は例年に較べて寒いといわれているが、それでも周辺の野山に積もっている雪は予想していたよりもはるかに少ない。一般道の路面にいたっては雪のかけらさえも見当たらない。海が近いという理由はあるにしろ、二月上旬という時期を考えると、やはりこれは地球温暖化の影響なのだろう。小浜市に入る頃には午後二時近くになっていたので、小浜湾に臨む海岸道路の一角にあるフィッシャーマンズ・ワーフに立寄って遅い昼食を取ることにした。展望の利くレストランの窓際の席で冬の日本海を眺めながら箸を運ぶ海鮮丼の味はなかなかのものだった。
小浜市街のはずれにある国民宿舎小浜ロッジの前を抜け、小浜湾の全景を眼下に望みながらしばらく進むと道は国道27号に合流した。そこから十五分ほどで大飯町の中心集落本郷に入り、大島半島と国道とを結ぶ青戸大橋の渡橋口を過ぎると、まもなく綾部方面へと向かう県道の分岐点に到着した。この県道分岐点には「竹人形文楽の里、若州一滴文庫」と記された案内板が立っている。もう十余年前の晩秋のことだが、越前海岸から敦賀に入り、若狭路づたいに舞鶴、宮津方面へと抜けようとしていた私は、突然目に飛び込んできたこの案内板の文字に魅せられるがままに若州一滴文庫を訪ね、その時たまたまそこに展示されていた衝撃的な二枚の絵にめぐりあったのだった。
それらのうちの一点は月下の佐分利川の情景を描いた「秋夜」という作品、もう一点はオレンジ色の明るい光を放つランプとそのまわりを酔いしれるように飛び交う数匹の蛾を描いた「ランプの詩」という作品で、前者は水上勉著「秋終」(福武書店刊)の、後者は同じく水上作品の「生きる日死ぬ日」(福武書店刊)の表紙絵の原画であった。「秋夜」から、私は、この地に産声をあげ、ささやかな生を営み、そして一握の土塊へと還っていった無数の人間たちの悲喜こもごもの叫び声と、内に精霊をはらみながら、ほの白く浮かび、あるいは黒い影を見せて息づく草木の一本一本が呟き発するひそやかな言霊を聞き取った。またいっぽう、見る者の心を瞬時に魅了するような「ランプの詩」からは、常に命あるものへの深い思いを抱き、声なきものの声を聞き姿なきものの姿を見ることができるこの画家の至高の人柄を感じ取りもした。
他には来訪者のなかったみぞれ混じりの寒々としたその晩秋の夕刻、一滴文庫の片隅で竹紙の原材料をつくるため一人窯炊き作業をしておられた渡辺淳さんと運命的ない出逢いをしたのは、私がいったん文庫の見学を終えた直後だった。のちに私はその不思議な出逢いの風景を一滴文庫の会員誌「一滴」に連載、思いがけなくもその一連の作品でささやかながら文学賞を受賞したようなわけだった。
その想い出深い県道に車を乗り入れ、目下冬季休館中の一滴文庫の近くを過ぎて20分ほど佐分利川の谷奥方向へと進んでいくと大飯町川上の集落に着いた。渡辺さんの現在のアトリエは川上集落の入口付近に位置している。一滴文庫ではじめて渡辺さんと出逢ったその日の夜、私は、「山椒庵」と呼ばれていた当時のアトリエに泊めてもらった。いまのアトリエから少し離れたところにあるその山椒庵は、このうえなく見事なボロ家であった。だが、またそれはこの世でもっとも温かい心のかようボロ家でもあった。
玄関から奥に通じる狭い廊下の床はきしみ、部屋を仕切る戸のほとんどは開閉がままならぬほどにくたびれたり歪んだりしていた。黒くすすけた天井の裏には物の怪が棲んでいてもおかしくない感じがしたし、部屋のあちこちには雨漏りの跡らしいものさえ見て取れた。山椒庵などというよりは、むしろ「惨笑庵」とでも呼んだほうがよさそうな風情があって、この仙人のような庵主は、自ら、この超芸術的な空間を心の奥で笑い、楽しみ、そして愛し、それを創造の源泉にしているようなふしがあった。また、たぶん、そのせいなのだろう、この不思議な空間には、人を自然に裸にさせるほんものの温かさと安らぎとが満ち溢れているようだった。
アトリエというあちら風の言葉にはシャレた響きが感じられるが、それは、もともと工房、すなわち、作業場のことを意味している。作業場である以上、そこには得体の知れない雰囲気やある種の臭いが漂っているのが普通である。言うなれば、アトリエとは、作家や職人が裸になって己の執念や錯綜する想いを吐露し、作品へと昇華させるべく人知れず格闘するリングであるから、柱の一本いっぽん、床板の一枚いちまいには長年の汗と脂が しみこんでいるはずである。そして、おそらくは、本物の創作と呼ぶに値するようなものはそういったところからしか生まれてはこない。
私が山椒庵に足を踏み入れた瞬間、まっさきに目に飛び込んできたのは、若い裸体の男が両膝を立てて座り込み、なにかに苦悶するがごとく頭をかきむしっている姿を描いた50号ほどの大きさの絵であった。水彩とクレヨンで描かれた粗いタッチの絵であったが、内から激しく突き上げるやり場のない想いを御しかねて無言の呻きを発する若者の姿には、そらおそろしいまでの迫力があった。その絵は、渡辺さんが貧乏のどん底にあった十八歳の頃に描かれたものであるという。孤独で、しかも激しい肉体労働をともなう炭焼きをやりながら、重い病の父親をはじめとする家族の生計を支えるのは並大抵ではなかったらしい。炭焼き作業に不向きな冬場は土木工事に出て生活費を稼ぐ日々を送っていたとのことで、そんな折、仕事先からもらって帰ったセメント袋をほぐし広げ、その上に描いたのが目の前の絵だというわけだった。
「ほったらかしとったら、知らんうちにネズミが端っこを齧ってもうてのう……ただ、こんな絵は、いま描けいうても、もう、よう描けはしまへんわ」
初対面のその日、そう話してくださった渡辺さんの顔は、こころなしかはにかんで見えたように記憶している。「うつむく(1950年)」と題されるその絵は今回の個展でも展示されることになっている。会場に展示されたこの絵の右上端をご覧になれば、そこに鼠の齧った痕がはっきりと残っているのがおわかりになることだろう。
1967年、35歳のときに「炭窯と蛾」という作品が日展に入選、それをきっかけに、渡辺さんの絵はその独特の画風でマスコミ関係者をはじめとする多くの人々の目をひくところとなった。だが、自分の本職はあくまでも炭焼きであり請負郵便配達人であるとする渡辺さんは、それ以降も自らの信念を守り通し、佐分利谷の一隅でささやかに生きる一生活者としての道を捨てることはなかった。そんな噂を聞きつけた作家の水上勉先生が突然訪ねてこられたのは渡辺さんが38歳のときのことだったそうで、それが縁となって水上勉作品の装丁や挿画を次々に手掛けていくようになったのだという。誤解のないようにこの際あえて書いておくと、水上作品の装丁や挿画を担当したゆえに現在の渡辺さんがあるのではなく、あくまで、画家として類稀な画業を確立していた渡辺さんがあったがゆえに、大作家の水上勉先生が自著の装丁者や挿画家として渡辺さんを選んだということだったのである。
それにしても、私が初めてお邪魔した頃の山椒庵の有様は想像を絶するものだった。もともと古い空き農家だった山椒庵のいたるところには膨大な量の作品群やスケッチ群が無造作に積み置かれていたが、素人目にもそれらすべてがいずれ劣らぬ素晴らしい作品であることは明かだった。だが、そんなことよりも私が驚いたのは、その貴重な作品群の保存状態のひどさであった。剥き出しのまま雑然と重ね置かれている絵の上では猫や鼠どもが毎晩のように運動会を繰り広げているらしく、いくつかの大きな絵のあちこちには、猫が爪を研いだ痕や鼠の齧った痕、いずれのものかは定かではないが、動物の糞や尿の痕跡とおぼしきものまでが残っていた。
雨漏りによる影響のほうもひどく、かなりの数の絵が変色したり、カビが生えたり、画面を横切るようにして筋状に流痕がはいったりしていた。だが、呆れたことに、渡辺さんご本人は、「まあこれもそれぞれの絵の運命ゆえに仕方のないことですわ」とでも言いたげな御様子だった。渡辺さんにはともかく、それら作品群にとって幸いなことには、近年に至ってあまりにも老朽化の進んだ山椒庵は屋根の一部が落ちてしまって風雨を凌ぐのが困難となり、やむなくして新たにアトリエが建てられることになった。そしていまでは作品群もそのアトリエの収納庫に移され、以前よりもずっと手厚く保存されるようになっている。山椒庵にくらべれば現在のアトリエはずっと立派で格段に機能的なものなので、私などは半ば冗談を込めて「山椒御殿」と呼んでいる。むろん、御殿という言葉に「豪邸」という意味を込めているわけではないのだけれども……。
渡辺さんの個展をどうしても東京で開きたいと言い出したのは、私の知人でもあり、いまでは熱烈な渡辺ファンでもあるコーディネータの住田尚子さんと、朝日新聞の辣腕記者だった故鈴木敏さんの奥さん鈴木百合子さんのお二人だった。大都市各地の画廊から誘いがあっても頑として首を振らない渡辺さんをどうしても説得してくれという、いささか無理とも思える依頼を託された私は、若狭に出向いて渡辺さんと何度も直談判し、電話で話し合ってようやくのことで個展開催の了解をとりつけた。画廊主催の個展ではなくて、発起人が中心となって適切な貸画廊を借り、あくまでも渡辺さんの友人知人一同の協力によるボランティアベースの個展とするということで納得してもらったのだった。私を介して渡辺さんと親しくなったアサヒ・インターネット・キャスターの穴吹さんなども、発起人の住田女史の脅迫的協力要請により、有無を言わさず渡辺さんの紹介文を書かされる羽目になったようである。会場で配布予定のリーフレットの洒落た紹介文は同氏の筆になるものだ。
ともかくも、そのような事情があったので、間に立った私もまた作品の運搬に一役買うことになったわけである。アトリエ前には既に、やはり絵の運搬を担当することになっている知人の椿良さんのシボレーが到着していた。そして、私のワゴン車が着くのを待っていたかのように、西村雅子さんのご御家族をはじめとする地元有志のご協力のもと、一斉に作品や関連資料の積み込み作業が始まった。大小のものすべてを合わせるとゆうに百点を超える作品群で、しかもクッションや覆いを慎重に配しながらの作業だったので想像以上に時間を要したが、幸いなことに、過不足なくうまい具合に二台の車に全作品が納まった。
その晩は大飯町一泊し、翌朝東京に向かって出発したが、積んでいる物が物だけに心理的に落着かないことこの上なかった。ことりと小さな物音がしただけでも、万一に備えてその原因を確かめるといった状態だったから、当然、アクセルを踏むのもブレーキを踏むのも慎重にならざるをえず、いつもなら目にはいる途中の雄大な山岳風景もほとんど記憶に残らない有様だった。現金輸送車や高価な美術品の運搬車の運転手たちの気持ちが多少ともわかる思いがしたことは言うまでもない。無事東京に着いたときにはさすがにほっとしたような次第だった。
地元若狭でも渡辺さんの絵は入手が難しいのであるが、このたびの個展では画廊借用費等を捻出する必要などもあって、一部の小作品にかぎっては一般にも頒布されることになった。既に朝日新聞東京版などでも個展開催が報じられているようだが、百聞は一見にしかず、まずは渡辺淳作品の素晴らしさを皆さんの一人ひとりの目でしっかりと確かめていただきたいものだと思う。
2001年2月21日