初期マセマティック放浪記より

59.あの可憐な少女はいま

たまたま西武池袋線大泉学園付近にいく機会があったので、懐かしさにかられて石神井公園を訪ねてみた。まだ修学中の身だったころ以来のことである。母の従兄弟の子で、私より一つ歳上の大学生が、当時、石神公園のすぐそばのアパートに住んでいた。かなりの遠縁だが、肉親縁の薄かった私には、それでも付き合いのある数少ない縁者の一人だった。歳も近いうえに、お互い勉強は大嫌いだが好奇心だけはやたら旺盛という共通点などもあって、とてもウマが合った。

学生時代は何かにつけて彼のアパートに押しかけ、昼夜を問わず将棋の「迷人戦」を繰り広げた。空を見上げて「ジェット機待った!」と叫ぶに等しい「待った!」などもある泥仕合に疲れ果てると、気分転換を兼ねて石神井公園に出かけてボート漕いだり、散策をしたりしたものだ。細長い形をした石神井池の真中を競艇よろしく力に任せて漕ぎまくり、ほかのボートにぶつかりそうになって顰蹙(ひんしゅく)をかったこともある。池の水路が二手に分かれ極端に幅が狭くなったところに架かる太鼓橋の下を猛スピードでくぐり抜けようとして橋桁に接触、転覆しそうになったことなどもあった。

週末や休日などには若いアベックや家族連れが多く、ボート屋は結構繁盛していたようだったが、ウィークデイなどは静かなもので、釣り人の姿などもほとんど見られなかった。そんな静かな日に石神井池の湖面を独占するのはなんとも気持ちのよいものだった。当時、石神井池の南側は鬱蒼とした林になっていて、夕暮れ時や月夜の晩などに湖畔を散策すると、東京にしては珍しいくらいに風情が感じられたものである。

また、石神井池のさらに奥には三宝寺池という大量の湧水に恵まれた池があって、この池一帯の植物群は「三宝寺池沼沢植物群落」として当時から天然記念物の指定をうけていた。ミツワガシワやシャクジイタヌキモなど珍しい植物が群生していたためらしい。ほぼ円形をした三宝寺池の周辺は東側をのぞいて急斜面になっており、昼でも暗いほどに種々の大木が密生していたように記憶している。湖畔をめぐる細い歩道もススキその他の深く繁った草木に覆われ、昼間でも時折ザリガニ獲りや小魚獲りにくる子供の姿が見られる程度で、ほとんど人影はなかった。だから、ちょっとした探検家気どりで池の一帯をめぐり歩くことができた。秋の満月の頃など、この三宝池の西側湖畔や、ちょっと池に突き出た弁天社の右裏手に立って東の空から昇る月を眺めるのはなんとも気分のいいものだった。宵風にかすかに揺れるススキの穂の向こうに浮かぶ月影は花札の絵柄を連想させたし、湖面に美しく揺れ映える月光は、都会の光景とは思われないほどに幻想的だった。

そんな想い出深い石神井公園近くのアパートに、時々、わが迷人戦の相棒を誘いにくる一人の可憐な少女があった。「和田のお兄ちゃあーん、一緒に野球しようよぉー!」と二つの「よ」音に独特の抑揚と強調の響きの込もった声で、彼女はいつも元気よく誘いかけてきた。少女は当時まだ小学五、六年生だったが、髪を長く垂らしたその美しく伸びやかな姿態には、天性の気品と育ちのよさとでもいうべきものが感じられた。ちょっとはにかむような微笑みと可愛らしいエクボが印象的なこの美少女は、子供ながらに知的な輝きと心の強さを秘めており、ゆくゆくは素敵な女性に成長していくに違いないとも思われた。

和田のお兄ちゃん、すなわち、わがヘボ将棋の相棒は、「ふみちゃん、ふみちゃん」といって、いつもその少女を可愛がり、よい遊び相手になっていた。彼は、私と同じ鹿児島県の甑島の育ちとあって子供遊びの知恵には長けていたし、子供の相手をするのがとても得意だったから、かなり歳が離れていたにもかかわらず、ふみちゃんにはずいぶんと気にいられていたようである。もしかしたら、あの頃、同い年くらいの遊び友達が近所におらず、ふみちゃんはふみちゃんでちょっぴり淋しい思いをしていたのかもしれない。

あのときから長い歳月が流れ去った。久々に訪ねた石神井公園周辺は全体的すっかり整備が行き届き、昔とはかなり様子が変わっていた。ボート乗り場はいまもあったが、以前の木製の手漕ぎボートは影を潜め、かわりに屋根つき足漕ぎ式のボートがほとんどになっていて、いくらか残っている手漕ぎボートも合成樹脂製のものに変わっていた。しかも、休業中なのか、それらのボートはすべて岸辺付近に繋ぎ留められ、石神井池の湖面を漕ぎわたるボートの影は皆無だった。楽しむ場所が限られていた昔の恋人たちと違って、いまどきのヤングカップルは、こんなところでそうそうボートに乗ったりはしないのだろう。

公園の東端に駐車場もでき、湖畔をめぐる歩道は拡幅され、ずいぶんと歩きやすくなっていた。石神井湖の南岸一帯には、昔日の武蔵野の面影を偲ばせるブナ、ナラ、クヌギ、トチなどの広葉樹の大木がいまもなおかなりの数残っていて、とてもいい雰囲気の樹林帯を形成していた。北岸に並び生える柳の大木もにもなんとも言えない風情があった。秋の足早な太陽が西の空に大きく傾く夕刻のことだったので、それらの樹々の黄葉が美しく夕陽に映え、時折吹き抜ける風に揺すられて、頭上から木の葉のシャワーとなってはらはらと落ちてきた。湖畔のあちこちに生える外来の針葉樹メタセコイアの紅葉も鮮やかだった。それらのメタセコイアが昔から石神井池周辺にあったかどうかについてははっきりした記憶はない。もしかしたら、比較的近年になって移植されたものなのかもしれない。

湖面にはカモやオシドリをはじめとするたくさんの水鳥の姿が見かけられた。晩秋という時節のせいもあったのかもしれないが、水鳥の数は以前よりもかなり多い感じだった。鳥たちの餌となる池の中の小魚や植物がそうそう増えた様子はないから、もしかしたら池を散策する人たちが餌を与えているのかもしれない。湖畔のあちこちには釣り糸を垂れる老人たちの姿が見かけられた。いまは何が釣れるのだろう思いながら足を止めてさりげなくその様子を眺めてみると、魚を釣るというよりは、時間を餌にして、静かな余生とそれに伴う深い想いを釣っているという感じである。ウィークデイにもかかわらず池の周りをのんびりと散策する人々はかなりの数にのぼっていたが、高齢者の占める割合がきわめて高いのは、現代の日本社会を象徴していることのように思われた。私が学生だった頃にはこんなことはなかったから、これは、まぎれもなく、高齢化社会の到来と高齢者層の一定レベルの生活の安定にともなう現象なのだろう。

個人主義の浸透したヨーロッパなどでは、昔から、老人や老女が三々五々公園などで老後の時間を過ごす姿が見うけられたものである。その身なりや振舞いからしてそれなに豊かな階層に属すると思われる老人たちが、どこか淋しい影を秘めて公園のベンチに腰掛け遠くを見つめている姿を目にすると、日本的な家族制度も捨てたものではないのかなと考えたりもしたものだが、どうやら日本も欧米と同じような状況になってきたらしい。世代間の分離と核家族化がますます進むこの時代にあっては、老齢期を迎えた人は皆、病気でもないかぎりは独りで時を過ごしていくすべを身につけていかなければならないのだろう。

そんな状況を象徴するかのようにベンチに座る一人の老人の姿があった。その老人ははずした眼鏡を無造作にベンチの脇に置き、葉を黄色に染めて夕陽に浮かぶ対岸の柳の並木を眺めていた。斜めから射し込む木漏れ日がほのやかに照らし出すその背中には、言葉には尽くし難い淋しさが漂っているようであった。私はその老人のまうしろ五、六メートルのところに佇んで、その人の胸の内に想いを重ねてみた。気のせいではあったかもしれないが、私には老人の心の呟きの一つひとつが聞こえてくるように感じられてならなかった。

しばらくして再び歩き出した私は、細長い池の半ばあたりにある二つの石造りの太鼓橋を渡って遠い日の自分の足跡をたどったあと、石神井公園の最奥にある三宝寺池へと歩を運んだ。昔と違って三宝寺池の周囲には立派な木道が配備され、以前の野趣が失せたかわりに、そのぶん歩きやすくはなっていた。あちこちに風景を描く画家たちのイーゼルが立ち並び、群をなして餌を漁る水鳥たちの姿をカメラに収める人々の姿もずいぶんと見うけられた。こんこんと清水の涌き出る三宝寺池を三方から取り巻く急斜面の樹林帯は、幸い昔のままに保存されていたので、三宝寺池そのものの風情はいまもなお健在だった。

バードウオッチングのスポットでもある一帯には各種の野鳥の声が絶え間なく響き渡り、何を食べて生きているのはわからないが、まるまると太った毛艶のいい野良猫たちが、付近の藪の中や木道の周辺を我がもの顔に徘徊していた。一見しただけでは判らなかったが、最近になって建てられたらしい案内板の解説よると、近年、三宝池の自然湧水量が減少してきており、その自然環境を維持するために人為的にかなりの水が補給されているらしい。古来、石神井川の源泉になっていた三宝寺池の湧水も時代の流れには抗い難く、その神通力を失いかけてきたというわけなのだろうか。

三宝寺池の一角からこころもち湖中に突き出た弁天社の脇には湖面全体を一望できる無人休憩所なども設けられ、散策者がしばし足を休めるための絶好のスポットとなっていた。まだ月の昇る時刻には間があったため、そこで月見を楽しむことはできなかったが、時節と月齢、そして月の出の時刻を十分に見計らってこの休憩所にやってくれば、現在でも湖面に映える美しい月影が眺められることだろう。

石神井公園を一渡りめぐり終えたあと、湖畔からそう遠くないところにある懐かしい「迷人戦の跡(?)」を訪ねてみたことは言うまでもない。遠い記憶を頼りに将棋の相棒が住んでいたアパートのあった場所を探してみたが、当時畑だったところには洒落た造りの家々が立ち並び、昔のアパートの跡を偲ばせるものなど何一つなくなってしまっていた。たしかあのパートの大家は山浦さんとかいったなあと想い出しながら、そんな名の表札が掛かっている家を探してみたが、うまく見つけることはできなかった。ただ、地形的にみてそこだったに違いないという地点に辿り着くことはできた。

迫りくる夕闇のなかに独り佇んで深い感慨にひたるうちに、私は、「和田のお兄ちゃん」を誘いにきたあの可憐な少女の面影を昨日のことのように想い起こした。当時、すぐこの近くに、高名な一人の作家が住んでいた。実を言うと、その少女はその作家のお嬢さんだったのだ。それからずいぶんと経ってからのこと、かつてのあの可憐な少女が若く美しい女性へと変貌を遂げ、テレビや週刊誌に登場している姿を目にしたときの私の驚きは大変なものだった。そして、そのときから今日まで、さらにまた長い時間が過ぎ去った。

実を言うと、石神井公園の近くに住んでいた高名な作家とは「火宅の人」で知られる檀一雄さん、そして、その可憐な少女とは、女優の檀ふみさんその人にほかならない。たまにしか一緒に遊んだ記憶のない私のほうはともかく、「ふみちゃん、ふみちゃん」といつも笑顔で話しかけていた和田のお兄ちゃんのほうなら、檀さんも記憶の片隅くらいには留めておられるかもしれない。文学青年の真似事みたいなこともやっていたわが迷人戦の相棒のほうは、たしか一度か二度、檀さんのお宅に伺い、檀一雄さんの手料理を御馳走になったこともあるはずである。

日が沈み、すっかり暗くなった夜道を一歩一歩踏みしめるようにして石神井公園駅のほうへと向かいながら、私は檀ふみさんの女優としての今後の御活躍を心から祈る次第だった。
1999年12月8日

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