初期マセマティック放浪記より

92.入試担当者にも苦労が?

あまり公にはなっていないが、入試を担当する大学の先生方にもそれなりの苦労はあるようだ。現在の入試形態が存続し続けるかぎり、なるべくなら入試の担当官にはなりたくないというのが、おそらく大学の教師たちの本音だろう。自分の専門研究や学生の指導を長期にわたって中断し入試問題作りとそれに続く採点処理業務に奔走させられるうえに、ミスがあったらあったで責められる。たとえ苦心して真に優れた人材を選抜するに適した良問をつくってみたところで、各教科の総合点数による合否判定が主流の現況下にあっては、特定教科の特定問題に完答できたからといってそれだけでその受験者が合格できるわけではない。だから、たとえ良問であったとしても、それが創造的能力の発見や合否判定などに直接活かさせる可能性はほとんどない。これでは、出題者も本気で良問をつくる気にはなれないだろう。

既に述べたように、記述式の良問の場合はそのぶん採点にも手間と時間がかかるうえに、評価にも採点官の主観がある程度はいらざるをえないから、そういった問題の調整をふくめて、受験者数の多い大学の入試担当者は膨大な関連業務の処理に追いまくられることになる。同じ大学の場合でも学部ごとに日程を変えて何度か選抜試験の行われる私立大学などにおいては、同一教科について何種類もの問題用紙をつくらなければならないから、よけいに大変なことになる。いきおい、私立大学などではマークシート方式の試験が主流とならざるをえないが、そうなるともう良問だろうが悪問だろうがどうでもよくなってくるというのが正直なところなのだろう。

ではせめて国立大学くらいはまっとうにという意見もでてこようが、世間からとくに厳しい監視の目を向けられている国立大学の場合などは、実際には問題はより深刻であるといってよいかもしれない。ごく最近の状況についてはよく知らないが、少し前までは入試の担当官は想像以上に大変だったようである。

たまたま入試の担当者に指名された教官は、その時点から私的なアルバイトなどは一切自粛し、自分の研究を中断ないしは二の次にして翌年の入試の対応に奔走せざるをえなくなる。過去何年にもわたる各大学の入試問題や諸々の大学受験予備校の問題、受験業者模擬テストの問題などを徹底的にチェックするのが手始めの仕事になる。そんな膨大な作業に労力を費やすのは、むろん、特定の受験者だけが有利になるような類似問題の出題を避け、すべての受験生に対して公平を期すためにほかならない。うっかり類似問題でも出題しようものなら、世間から批判の嵐にさらされることになりかねないから、徒労に近いそんな作業にも慎重にならざるをえないわけだ。

それが終わると、同一教科の入試問題作成とその採点を受け持つ複数の専任教官はそれぞれに問題を多数作成して極秘に持ちより、全員でそれらをひとつひとつ細かく検討、さらに何度も何度も話し合いを繰り返したうえで問題を厳選し絞り込む。そして、過去に類似問題がないこと、細かなミスや不適切な点がないこと、高校の学習内容の範囲をこえないことなどを再確認したうえで、最終的に問題が決められる。のちのちの不慮の事態に備えて本問題のほかにも何組かの予備問題も用意されているようである。

出題用の問題が決まると印刷にうつるわけだが、学内に印刷所を持たない国立大学などの場合、比較的最近まで入試問題の印刷工程は容易なことではなかったらしい。コンピュータとプリンターの飛躍的な進歩によって昨今の状況は違ってきているかもしれないが、かつては、主要な国立大学の入試問題の印刷は、問題漏れなどの事故を防ぐため、各地の刑務所内の印刷所において、入試当日までは刑期のあけない模範囚などを使って行われていたようだ。

当然、担当教官たちもかなりの長期間刑務所内に身を委ねた状態で問題用紙作成の指導と印刷ミスの細かなチェックなどをしなければならなかった。事前に印刷用紙の枚数を正確にチェックし、印刷中あるいは印刷後に一枚でも用紙が行方不明になったりすると、すべての問題を新たに作りなおすほど厳格な作業が行われていたという。

印刷された入試問題は担当教官たちの手で再三再四全枚数をチェックされ、紛失したものが一枚もないことが確認されたあと厳重に封印がほどこされる。東京の有名国立大学などの入試問題は、印刷後ただちに大蔵省造幣局の金庫に移され、入試当日までの厳重に保管されていたらしい。もちろん、その間は入試問題を作成した担当教官といえどもその保管場所に近づくことは許されない。

そこまでの作業過程が終わると、担当教官たちは個々の問題ごとに考えられるかぎりの解法にそった模範解答を一例ごとに作成、それぞれの解答のタイプ別に細かな採点基準を設けていく。数学の記述問題などの場合には様々な解法があるので、そのぶんよけいに大変なようである。もちろん、受験生の中には担当教官も考えつかなかったようなエレガントな(シンプルで無駄がなく、しかも論理的に明快かつ鮮やかな)解答を提出する者もあり、それらにはケース・バイ・ケースの対応がとられているようだ。純粋に数学的な立場から言えば、そのような能力は高く評価すべきなのだろうが、むろん、エレガントな解答をしたからといってその問題の配点以上の点数をもらえるわけではない。

総得点比較判定主義の現在の入試制度では、数学でどんなにエレガントな解法を編み出したとしてもその受験者にとって特別有利に働くことはないし、たとえ試験担当官が個人的にどんなにその異才を評価したとしても、それだけでその人物を合格にしてやるわけにもいかない。それどころか、他の教科の試験結果が思わしくなくてその受験者が不合格になる可能性さえもあるわけだ。そんな状況が現実だとすれば、いくら良問を作れと言われても、出題者が問題作成にかける熱意もおのずからそがれるというものだろう。

人的作業にはどんなに注意を払ったつもりでもミスはつきものだから、当然、印刷された問題を封印し保管庫に収めたあとで、出題者たちが問題ミスや印刷ミスなどに気づくこともあるらしい。しかし、いったん金庫に保管されてしまったあとではそれらを修正するすべはない。修正するにはそれまでの全作業工程をもう一度やり直さなければならないからだ。入試当日あるいはそのあとになって出題ミスを指摘され、各方面からその責任を追及されたりすることもたまに起こるようではあるが、問題を作るサイドにもそれなりにやむをえない事情はあるようなのだ。

入試が終わると採点にうつるわけだが、主要国立大学の場合、受験番号も解答者名も担当教官にはわからないような状態にして採点処理が行われるようだ。むろん、情実がらみの採点が行われるのを防ぐためである。大学によっては、受験年齢の子をもつ教官は入試担当からずすような配慮もなされているらしい。全受験生の答案のすべてを採点担当教官の全員が一問ごとに交互に厳しくチェックし合い、得点を集計する。有名国立大学の場合、ボーダーラインに同点者が百人以上も並ぶことがあるというから、得点集計には想像以上に慎重な対応がとられているようだ。

理科や社会科などにおいては、あらかじめ難易度を調整したつもりでも、いざ蓋を開けてみると選択教科によって平均得点に大きな差が生じるということが少なくない。そんな場合には選択教科による極端な有利不利が生じないように、各教科間の得点調整をしなければならない。そのようなプロセスを経てようやく合格者が決定し、その年度の入試担当官たちはやっとのことでお役御免となるわけだが、結果的には一年のほとんどを棒にふることになってしまいかねないようである。

入試問題の作成を予備校などに委託しようとか、過去の入試問題の再使用を認めるようにしよう(もちろん、そっくりそのまま出題するというわけではない)とかいった昨今の大学の入試がらみの動きには、そのようなやむにやまれぬ裏事情もあるようなのだ。いずれにしろなかなかに厄介なことには違いないが、入試制度が現状のままでありつづけるかぎり、問題作成を予備校の専門部門に委託するようなこともあってよいのではないかと私自身は考えている。むろん、慎重な入試データの管理と、できるだけ適切で合理的な問題作成を前提とした話ではあるけれども……。

それでなくても理想的な入試制度や入試問題作成のありかたを摸索するという作業は難しい。一見もっとも客観的にうつる従来型のペーパーテスト一辺倒の総合点判定法に偏すれば、試験問題作成に要する労力や採点処理の煩雑さもてつだって、単なる暗記力や要領の良さを調べるだけの粗雑な悪問や難問奇問が多くなる。優れた暗記力を有するということはけっして悪いことではないが、この方式が極端になりすぎると、特定教科に異才をもつ者(教科による得点のばらつきが大きい者が多い)や真の創造力を秘めた思考タイプの者(一つ のことに深くこだわり納得がいかないと次に進めないタイプが多い)などは不合格になってしまう可能性が高い。

入試などでは難問は避けて易しい問題から解くのが合格のコツだと教えるのが日本の小学・中学・高校の教育現場の常であるが、小学校入学から高校卒業までの十二年間もそんなトレーニングに明け暮れていると、大学生になるころには、その解決に独創性や洞察力を必要とするチャレンジングな問題への対応能力が退化してしまいかねない。大脳生理学者やニューラルネットワーク・コンピュータを用いて脳の活性研究をしている学者たちの最近のレポートなどによれば、人間は生来創造性をつかさどる脳細胞をもちそなえているが、成長の過程でその細胞部分を適度に使い活性化するようにしてやらないと、細胞の働きは退化し機能を失ってしまうのだという。もしもその通りだとすれば、これはゆゆしき事態だと言わざるをえない。

いっぽう、同じペーパーテストでも特定教科偏重評価型の試験にすれば、その教科に対する適性の判定が可能な良問作成にかける出題者の苦労は報われ、独創性のある学生を選抜することはできるものの、世間からは英才教育主義だとかいったような強い批判の声が湧き起こることだろう。広い意味での基礎学力や社会性に欠けるアンバランスな学生なども増えていきかねない。また、大学受験までに特定教科のみを大学生レベルまで先取り学習するものが現れ、それはそれで受験競争は激化し、入試問題の水準はこれまでとは違った意味で高度化していくことだろう。

この問題を解決するには、つまるところ、従来並みの複数教科総合点方式、特定専門教科の得点優先方式、面接による口頭試問や小論文による人物評価方式などを併用した多重方式の入試を行うしかないのだろうが、それはそれで新たな問題や関係者の苦労を生むことにはなるだろう。ただ、従来型の入試方法が時代の状況と適合しなくなってきたいま、多少のマイナス要因はあっても現在の社会状況とその要請に即した入試方法の改革を行うことは絶対に必要なことに違いない。

過日ある知人から、「大学などの数学の研究者は皆、大学入試の数学の難問をすらすら解けるんでしょうか?」という質問を受けた。もちろん、数学のスペシャリストだから、しばしそれなりのトレーニングとウォーミングアップを行い、入試問題向きの勘を取り戻してからなら、一応解けはするだろう。だが、受験生と同じレベル、同じ範囲の知識だけを用いるという条件をつけ、時間制限を設けたうえで、なんの準備も心構えもなくいきなり入試の難問にチャレンジしたら、落第点をとるものが続出するかもしれないと思う。常に入試の難問に取り組んでいる大手予備校講師や有名進学校の教師たちにはむろんのこと、成績優秀な予備校生や現役高校生たちにも及ばない可能性は十分に考えられる。

そもそも、数学者というものはよく計算を間違える。計算力が優れているにこしたことはないのだけれど、大学などのスペシャリストの関わる数学研究の本来の対象は、日常言語を極度に抽象化した特殊な言語の数々で織り成し組み立てられた超常的な世界だから、そこでは面倒な四則計算や関数値の計算が正確であるかどうかはあまり重要なことではない。したがって、数学の研究者たちが、長いブランクの末に、彼らの研究の世界とはまるで異質な入試の難問にいきなりチャレンジさせられたりしたら、些細な計算ミスをおこし、完答できない事態が大いに起こり得るわけだ。

それぞれに特別な事情はあるのかもしれないが、いずれにしろ、先々を見越した学問的配慮からではなく、ただ単にその時々の受験生を困惑させるだけの難問、奇問、珍問を出題したことのある大学の先生方は、一度他人の作ったその種の問題に受験生と同じ条件でチャレンジし、それらがどんなに迷惑かつ無意味なことか、教育界や一般社会にとってどれほど負担になっているかを実感してもらいたいものである。もちろん、自分が作った問題にはそれなりの意味や意図があるというのであれば、戸惑っている多くの受験生のためにも、ぜひそれらの問題の出題背景を公にしていただきたいものだと思う。

私が高校生だった頃、ある高名な文科系国立大学の国語の入学試験問題はむやみやたらに難しいことで有名だった。合格者でも百点満点中二、三十点もとれれば上出来という難度で、東大などの問題よりもはるかに難しかった。当時その大学には国語専門の名物教授がいて、毎年その教授が国語の入試問題の作成に当たっていたらしい。周囲の批判にもめげず、自分の書いた文章を、「これは名文である云々」といったようなリード文つきで入試に用いたりしたこともあったというから、一筋縄ではいかない人物ではあったようである。

あまりに問題が難しく出題傾向も偏っているというので、全国高校校長会議かなにかが「問題をもっと易しく無理のないものにしてくれるように」という主旨の嘆願書をその大学に提出した。ところがその翌年の同大学の国語の入試に、「本文中に誤りがあるから指摘せよ」といったような設問つきでその嘆願書の一文が出題されてしまったのである。そこまでやるのかと関係者たちが驚き呆れたという話を国語の教師から授業中に聞いたことをいまも懐かしく想い出す。

けっして褒められた話ではないし、当時その教授が具体的にどのような反論をしたのかはいまとなっては知るよしもないが、もしかしたらそんな難問を作り続けたその教授にはその人なりの信念があったのかもしれない。この教授の真似をするようにと奨励するつもりなど毛頭ないが、敢えて難問奇問を出題するというのなら、少なくともそれなりの確たる理由と世間の批判に対して自己の信念を堂々と貫くだけの覚悟はもってほしいものである。
2000年7月26日

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