初期マセマティック放浪記より

146.北旅心景・群鳥奇観

天売島の地形は、北西側から南東側にむかって島全体がゆるやかな角度で傾いた感じになっている。そして赤岩のある南西端から天売灯台の立つ北東端までの北西海岸六キロほどが、高さ二百メートルほどの断崖になっており、容易には人を近づけない。むろんその断崖一帯が海鳥たちの一大コロニーになっているわけだ。

天売港から三キロほどの地点までは、わずかに上り気味ながら、海沿いにほぼ平坦な道が続いていたから、普通なら快適なサイクリングが楽しめるはずだった。ところが予想外の強風を真正面からうけることになったため、腰を浮かし汗だくになってペダルを踏んでも、自転車はのろのろとしか進んでくれなかった。まして、三キロ地点から赤岩展望台付近へと続く高度差二百メートル、距離約三キロの坂道は、どう足掻いたところで漕ぎ登ることは不可能だった。

これじゃ、わざわざ自転車を借りてきた意味がないよな――そんな愚痴まじりの言葉を呟きながら、自転車を押して一歩一歩坂道を登った。しかし、皮肉なことに、そのお蔭で、道路脇の斜面一帯に咲き乱れる花々をじっくりと眺めることはできた。ハマナス、エゾスカシユリ、エゾノヨロイグサ、そして、高度が上がるにつれて鮮やかな黄色の花つけたエゾカンゾウも姿を見せるようになった。赤紫の小花をたくさんつけて風に揺れるのはどうやらヤナギランらしかった。花の島というとかつて訪ねた礼文島のことを想い出すが、そのすこし南に位置するこの天売島の花々の美しさもなかなかのものだと言えた。

実に豊かな自然に恵まれた天売島だが、実際に訪ね歩いてみてひとつだけ気になったのは、森林らしいものがほとんど見当たらないことだった。当初は、気象条件のせいかなにかで大きな樹木が生育しにくいのだろうと推測したのだが、あとになって寺沢孝毅さんの著作「空と大地のこえ」(北海道新聞社)に目を通すうちに、それが人為的な原因によるものらしいことを知った。

先史時代の遺跡の物語るところによると、五千年以上昔の縄文期すでに、天売島には人が住んでいたらしい。しかし、歴史上の記録に天売島が登場するのは江戸時代以降のようである。以来、住人は徐々に増え、ニシン漁が最盛を極めた明治時代末期には、島内人口は天売史上最多の千八百七十人余にもなったらしい。当時、年間二万トン近くも獲れたニシンのほとんどはシメ粕(肥料)として本土に運ばれたが、シメ粕をつくるにはニシンを加熱処理する必要があった。加熱用燃料を確保するため豊かな森は切り尽くされ、いつしか天売島は丸坊主の島と化したのだそうだ。

高度があがるにつれて、後方眼下に焼尻島の島影がはっきりと見えはじめた。時折立ち止っては焼尻島の島影と周辺の花々を眺め、それからまた歩き出すという行為を繰り返しているうちに、突然、道路一面が真っ白になっているところに出た。まるで路面全体を白ペンキで塗りつぶしたような感じである。顔をあげ大きくあたりを見まわしてみると、真っ白になっているのは路面だけではないようだった。付近の草木の表面もかなり白く変色している。それが海鳥の糞のせいだと気づいたのは、赤岩展望台入口を示す案内表示板が目にとまったからだった。

これほどに鳥の糞が落ちているところからすると、この付近にはよほどの数の海鳥が生息しているに違いなかった。しげしげとその有様を眺めているうちに、鳥類の糞ってどうしてこんなに白い色をしているのだろうという疑問が湧いてきたが、その道の専門家でないこの身には、十分な説明をつけることができなかった。

自転車を赤岩展望台入口に置き展望台へと続く特設歩道を下りはじめた途端、足元がぐらつくほどに猛烈な風が吹上げてきた。前方眼下には白い波頭を見せて激しく波立つ日本海が広がっている。手摺りにつかまりながら左右を見まわすと、断崖上の広い草地まじりの斜面に大小無数の異様な穴があいているのに気がついた。歩道のすぐ脇の急な斜面も一面穴だらけである。

まるで古代遺跡の発掘跡みたいに穴ボコだらけなこの奇観の造形主こそは、ほかならぬ海鳥のウトウたちであった。その不思議な光景に魅せられるいっぽう、ここでゴルフをやったら、クラブを振ったことさえないこの身でもホール・イン・ワンは堅いだろうななどという場違いなことを考えたりもした。繁殖期におけるウトウの生息数は数十万羽といわれるから、連綿と続く天売島北西側断崖の上部斜面にはいたるところにこのような巣穴があいているのだろう。

それぞれの巣穴の奥では、すでに誕生した雛たちが日没後の親鳥の帰りを待っていたのかもしれないが、そんな気配などはまったく感じられなかったし、どんなに目を凝らしてあたりを探しわってみても、ウトウの親鳥らしいものの姿はただの一羽も見当たらなかった。そして、ウトウにかって一帯の斜面やその下の断崖のいたるところに点々と姿を見せているのは、夥しい数のウミネコたちであった。ミュー、ミューという独特の鋭い鳴き声を発しながら、海面から吹上げてくる強風に乗って飛翔しているものもかなりあったが、ほとんどのウミネコたちは岩陰やウトウの巣穴のまわりなどでじっと羽を休めている感じだった。エゾカンゾウの花の陰に半ば身を隠すようにしてうずくまっているウミネコも少なくなかった。

断崖上の急斜面をすこし下ったところにある赤岩展望台に立つと、海中から鋭く中空に突き出す高さ四十八メートルの赤岩が、眼下にその威容を現わした。展望台の真下はほぼ垂直に切れ落ちる断崖絶壁になっていて、赤岩に向かい泡立ち寄せる荒波と、その周辺に点在する大小の海鳥たちの影を一望のもとにおさめることができた。天売島の象徴ともいうべきこの赤岩付近はかつてウミガラス(オロロン鳥)の繁殖地でもあったが、現在ではこの地で営巣するウミガラスの姿は見られないという。

体型は似ているがウミネコよりもひとまわり大きな感じの鳥もいた。足の色が黄色ではなくちょっとピンクがかっていたようだから、たぶんオオセグロカモメだったのだろう。この鳥は雑食性で、小動物や鳥類の死体、他の海鳥類の卵やその雛、魚類の死体や臓物などを好むという。当然、ウミガラスやケイマフリなどの天敵でもあるわけで、天売島の海鳥社会では食物連鎖のトップに位置しているのだそうだ。近年そのトップの座を占めるオオセグロカモメが急増するという異常事態が起こったりもしているらしい。

他に訪れる人がないのをよいことに、海と岩との織り成す一帯の奇景と海鳥たちの様子を存分に楽しんだあと、おもむろに赤岩展望台をあとにしかけた。だが、私はそこでもう一度足を止め、立ち去り難い思いでウトウの巣穴をしげしげと眺めやった。あと七、八時間もしたらこの地で繰広げられるであろう壮観なドラマを見ることができないのは残念至極ではあったが、それはまたあらためてこの島を訪ねる時の楽しみとしてとっておこうと、自らの心に言い聞かせた。

少なく見積もっても島全体では何十万個という新旧の巣穴があいているはずなのに、ほぼ同時刻に嘴いっぱいに魚をくわえて帰還するウトウたちは、けっして自分の巣穴を間違えることはないのだという。動物本能というもっともらしい言葉で片付けてしまえばそれまでなのだが、ウトウたちの行動半径の広さと一斉帰還の状況を想うと、その識別能力は驚くべきものである。

ずっとあとになってから寺沢さんに電話して直接確認したことなのだが、ウトウの巣穴のほとんどは何年にもわたって再利用されるのだという。もちろん、まったく新しく巣穴が掘られることもある。嵐の時など巣穴が水浸しにならないかとも思ったが、一帯の土質や巣穴の構造の妙もあって現実にはその心配はほとんどないらしい。

雛のために持ち帰った獲物をウミネコに横取りされた場合、雛はお腹を空かすことはないのかという素朴な疑問を寺沢さんにぶつけてみると、意外な答えが返ってきた。二羽の親鳥たちは雄雌それぞれに相当数の魚をくわえて戻ってくるので、それらを全部奪い取られるということはめったにないのだそうだ。とくに嘴の付根付近でくわえている魚は、ウミネコといえども力ずくで奪い取るのは容易でないのだという。嘴の奥のほうが特殊な構造になっていて、くわえた魚をしっかりと留めることができるからなのだそうだ。

親鳥たちが大量に獲物を運んで無事帰巣したような場合には、雛はそれを一度に食べず、何度かに分けて食べたりもするらしい。ひとつの巣ごとに一羽しか誕生しないウトウの雛は、兄弟間で熾烈な餌の奪い合いをする必要もないわけだから、そんなことができるのだろう。寺沢さんの話によると、イカナゴを四十数匹もくわえて戻ってきたウトウなどもあったという。もちろん、すぐれた写真家の寺沢さんのことだから、その様子を写真やビデオに収め、あとで正確にカウントしてみたのだろう。

赤岩展望台入口に戻った私は、風で吹き倒された自転車を起こし、それを押しながら再び坂道を登りはじめた。そしてもう一汗かいたところで、島の最高地点近くにあるビュー・ポイントのひとつ、海鳥観察舎の入口に到着した。そこで自転車を降り、観察舎へと続く小道を歩き出した途端に、いまを盛りと咲き誇る黄色いエゾカンゾウの群落と紫のタチギボウシ群落とが同時に目に飛び込んできた。おりからの強風に煽られ激しく揺れ波打っていたが、それがかえって、この北の島に咲く花々の美しさをいっそう際立たせてもいた。小道の右手に遠く連なる険しい断崖も、そしてその基底部を絶え間なく洗う眼下はるかな青潮のきらめきも息を呑むほどに美しかった。

海鳥観察舎に向かう途中、大きな一匹の黒猫と出遭った。鋭い目つきといい、俊敏な身のこなしといい、通常の飼い猫とは明かに異なる凄みがあったから、おそらく半ば野生化した猫なのだろう。もしかしたら海鳥や野鳥などを襲い、それを食べて生きているのかもしれない。

激しい風雨にも耐えられるように設計された木造無人小屋の海鳥観察舎は、岬状に突き出す断崖の上に立っていた。丈夫なガラス張りの舎内には無料で使用可能な望遠鏡や双眼鏡が備え付けられ、前方の断崖一帯や眼下の岩礁地帯に棲む海鳥たちの生態をじっくりと観察できるようになっていた。あまり時間がなかったので、望遠鏡で海鳥たちの動きをつぶさに眺めることはできなかったが、それでも、眼下の壮大な風景を楽しみ、海鳥たちの棲み分けの様子を窺い知ることはできた。

観察舎内の解説によると、夏の繁殖期、この一帯の断崖の下部にはヒメウやウミウが営巣し、その上の断崖中段の岩穴にはケイマフリ、岩棚にはウミガラス、そして、断崖上部に近い斜面にはウトウ、さらに断崖最上部の斜面や草地にはウミネコが営巣するのだそうだ。解説を参考にしながら、一通りその棲み分けの模様を眺めてみたいと望遠鏡を覗くと、断崖や岩礁上のいたるところに、飛びまわったり羽を休めたりしている無数の鳥影を認めることができた。ただ、素人の目をもってしては、ウミネコの営巣地をのぞき、詳しい棲み分けの状況を確認することは困難だった。

観察舎からは、現在では国内唯一のウミガラスの繁殖地になっているカブト岩を望むこともできたが、そこにはカモメかウミネコと思われる鳥の姿が見えるだけで、肝心のウミガラスの姿らしいものを見つけ出すことはできなかった。いまではウミガラスの姿を見るには観光船で海上からアプローチしないと無理なようなので、ウミガラス見物はウトウの帰巣風景の見物とあわせて次の機会の楽しみとするほかなかった。

今回は自転車での周遊路巡りとなったが、天売島の豪壮な断崖美や、空中を舞い水中を飛翔する海鳥の姿を船上から間近に眺めたら、それはそれでまた素晴らしいことだろう。美味で知られるバフンウニの漁獲期にあたる七月頃に島に泊まれば、絶品として名高いその海の幸の味を楽しむこともできるというものだ。形が馬糞に似ているため不名誉な名がつけられているが、海のダイヤとも称されるこのウニは文字通り北の海の宝である。

余談になるが、海鳥観察舎から自転車の置き場所に戻ったところで、私は一瞬青くなってしまった。いくらさがしても自転車の鍵が見つからなかったからだ。解錠できないようなら、自転車を放置したまま徒歩で港まで戻るしかないが、時後処理などもあるから帰りのフェリーにはとても間に合いそうにない。当然島に一泊せざるを得なくなるが、日帰りのつもりでやってきたから、復路のフェリー代に少し余るくらいのお金しか持ち合わせがなかった。羽幌港に残してきた車に戻らぬかぎり、宿泊代はおろか、紛失した鍵の弁償代だって払えそうにない有様だったのだ。

せめて地元の車でも通ってくれれば、事情を説明し自転車ごと港まで運んでもらうという手もあったが、なぜかこの時にかぎっては通行車の影も見えなかったし、他に観光客の姿も見当たらなかった。やむなく私は、距離にして三百メートルほどある自転車置場と海鳥観察舎との間の小道を、懸命に目を凝らしながら二度も往復した。だが、それでも失くした鍵は見つからなかった。

いったんは途方に暮れかけたのだが、幸い、その時、例の黒猫と出遭った地点で、ポケットからペンを取り出し、しばし立ち止ってメモをとったことを思い出した。すぐにその地点に戻り、そのあたりをよく探してみると、案の定、道端の草むらに落ちている鍵が見つかった。ボールペンを取り出したとき、一緒にポケットからこぼれ落ちてしまったのだろう。

ほっとした気分で自転車置場に戻った私は、大急ぎでサドルに跨ると風に乗って勢いよく走り出した。すでに島を半周した関係で、強い向かい風が追い風に変わっていたからだ。おまけに、周遊路の最高地点を通過してからは道も下り坂になって、スピードはぐんぐん上がるいっぽうだった。おかげで、三キロほどしか離れていない次のビュー・ポイント、観音岬展望台まではほとんど時間がかからなかった。

観音岬の展望台が近づくと、道路一面がまた真っ白に変色した。赤岩展望台付近の道路以上の白さである。頭上を見上げると、甲高い鳴き声を発しながら低空を飛翔する白い鳥の姿も見えた。上空からは明かにそれらの鳥の糞と思われるものまでもが降ってきた。その様子からすると相当な数の海鳥がこの一帯に生息していることは間違いなかった。

観音岬展望台に一歩足を踏み入れた私は、想像を絶する眼前の光景におもわず息を呑みそのまま立ち尽くす有様だった。ウミネコ、ウミネコ、ウミネコ、そしてまたウミネコ……、天も地も、文字通りウミネコだらけだったからである。こんな凄まじい数の海鳥をこれまで見たことはなかった。子どもの頃、無数の小さな渡り鳥が巨大な黒雲のごとき群をなして海上を渡っていくのを何度となく目撃したことはある。しかし、間近でこんな途方もない数の大型海鳥を眺めるのは初めてのことだった。それは、どこかヒッチコックの名作「鳥」の世界をも連想させる、実に驚くべき光景だった。

展望台の手摺りには身体を寄せ合うようにして三、四十羽のウミネコたちがずらりと肩を並べていた。そして、私がすぐそばまで近づいてもかれらは逃げようともしなかった。眼下はるかな海面から吹上げてくる烈風を軽くいなしながら、まるでリズムでもとるかのように体を小刻みに揺らしている。嘴の先は上下とも赤黒二色が帯状に並んだ感じになっており、先端部をのぞいては根元まで黄色をしている。真っ白な頭部の嘴寄りにある両眼は黄色く鋭い猫の目そっくりで、嘴の先と同様の赤色に縁どられていた。私の存在などまるで意に介していないかのように、空中からすぐそばの手摺りに向かって飛び降りてくるウミネコもあった。

潅木や草花の茂る一帯の広大な斜面は、上下左右とも見渡すかぎりウミネコたちのコロニーになっていた。展望台のすぐそばのエゾスカシユリやエゾカンゾウなどの花々の間には、体を隠しでもするかのように座り込み、首先だけを出してこちらの様子を窺う多数のウミネコたちの姿がみかけられた。もしかしたら卵でも温めていたのかもしれないが、その点をはっきりと確認することはできなかった。うまく時期を選んでこの展望台を訪ねれば、親鳥が雛に給餌する様子や、雛たちが巣立っていく光景などを、ここからじかに見学することもできるのだろう。

よく通る甲高い鳴き声に誘われ、あらためて空中に目を転じると、そこにあるのはこれまたウミネコたちの舞い演じる壮麗な世界であった。海食崖の斜面沿いに激しく吹上げる潮風に乗って自由奔放に飛翔し乱舞するかれらの姿は、この日の天売島めぐりのフィナーレを飾ってくれるに余りあるものであった。私はひとり展望台上に佇み、その感動的な光景にいつまでもじっと見入っていた。

ウミネコは雑食性で、イワシやイカナゴなどの小魚類、オタマジャクシなどの両生類無尾目、昆虫類、人の捨てた残飯などを食べるという。魚は好物ではあっても、かれらは水中の獲物をとることは上手くない。だからウトウなどの持ち帰る獲物を奪ったりもするわけだが、少々悪役めいたそんな行為も自然の摂理の導くところゆえ、やむをえないことではあるのだろう。我々人類の極悪非道ぶりに比べれば、厳しい自然の中で懸命に生きるウミネコの悪役ぶりなど他愛も無いものである。

天売島には数万羽のウミネコが生息しているようだ。天売島のウミネコ繁殖地の中心地は、かつては赤岩付近から海鳥観察舎のあるあたりにかけてであったのだそうだが、現在ではこの観音岬一帯に一大コロニーが形成されるようになったのだという。なぜコロニーが大きく位置を変えることになってしまったのかについては、いまだにその原因はよくわかっていないらしい。天売島で繁殖したウミネコが利尻島に移動し、そこで繁殖していることなども確認されているようだ。

予定が狂いかけ、一時はどうなるかと思った天売島めぐりだったが、幸い、帰りのフェリーの出航時刻までになんとか天売港にたどりつくことはできた。偶然の成り行きで、昼食抜きは言うに及ばず、途中で水一杯飲むことさえもしない強行軍となってしまったが、有り余るほどの発見や驚きにもめぐり逢え、実に素晴らしい探訪ではあった。

今度天売島を訪ねるときには、ウトウの帰巣風景を観察し、遊覧船に乗って島の象徴の赤岩や、わずかながらウミガラスの棲むというカブト岩などを海上から眺めてみたい、そして島の人々の人情にも触れてみたい――そんな想いを胸深くに秘めながら、私は羽幌港へ向かうオロロン号のタラップを上った。
2001年8月15日

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