初期マセマティック放浪記より

167.W時計物語(2)

(二)運命の悪戯とは言うけれど

私の住む町の一隅にある運輸会社の倉庫で働いていたWに、再び予期せぬ不運が降って湧いたのはある神社の祭の夜のことだった。誰だって賑やかな祭があったりすればそこに出掛けてみたくなる。もともと人一倍祭好きな彼にすれば、そのおもいはひとしおだったに違いない。居ても立ってもおられなくなった彼が、縁日の出店で賑わう参道を人波にまぎれて歩いたのが運の尽きだった。

たまたまその場に居合わせた昔の香具師仲間の一人にWは見つかってしまったのだ。すぐに連絡を取り合った香具師グループは、彼の跡をつけ、人気のないところで有無を言わさずその身柄を拘束してしまったのである。もとのタコ部屋に連れ戻された彼は、それ相応の仕置きを科せられたあと、罰として北陸から上信越方面で特殊な仕事をしている傘下の別組織へと送り込まれた。

彼はそこで仲間五人が一組となっておこなうある種の詐欺活動に強制従事させられたのだった。五人の一味は一台の大型乗用車に乗って行動した。車を運転する一人がリーダー格ですべてを仕切り、残りの四人は免許証、身分証をはじめとするいっさいの所持品を剥奪され、小銭さえも持つことを許されなかったという。

外国製高級ブランド時計の贋物販売が彼らの主な仕事ではあったが、その手口は相当に巧妙なものだったようである。主たるターゲットは地方の町々や農漁村在住の純朴な人々であったらしい。車を運転するリーダー格の男が、ここはと思うところで車を駐めると、四人の売り子は一応それらしく包装された贋物の高級ブランド時計入りの鞄と、相手を信用させるための本物の高級時計をもって付近の民家に散ってゆく。東南アジア製のそれら贋時計は実際には現地だと二千円もしないシロモノだったらしいが、一応時を刻みはしていたようだ。

売り子たちは、その時計を二万円以下では売らないように命じられていた。むろん、それ以上ならいくら高くてもよく、実際に五万円や十万円で売れることもあったという。売れても売れなくても三、四十分以内には必ず車に戻るようにと厳重に指示されており、四人の売り子の誰かが一個でも贋時計売りに成功すれば、直ちに車を飛ばしてその場をあとにし、少なくとも三十キロ以上は離れた場所に移動したという。もちろん、売った時計が贋物だとバレて手配されるまでの時間をしっかりと計算に入れての行動だった。

Wをはじめとする売り子たちは、言葉巧みに相手を誘う方法や相手の心理の読み方、代金の受取り方、買う気はあるが相手に当座の代金の持ち合わせがなく、現金を引き出しに銀行や郵便局に出向く場合の対処法など、贋時計売りのノウハウをリーダーの男から一通り厳しく叩き込まれた。ときにはリーダー格の男やそれと同格の仲間が新米の売り子を同行し、実地販売トレーニングに及ぶこともあったらしい。贋時計を先に渡しあとで代金を回収に出向くなどということは間違ってもやらなかったという。

何十万もする本物のおとり用高級時計をちらつかせたり、それを相手にちょっとだけ触らせたりしながら、これは絶対に買い得だと吹き込み安物の贋時計を売りつけるのが、むろんその基本的手口である。巧妙な詐欺の手口にふだんあまり馴染みのない地方住まいの人々は、売り子の言うことをすっかり信じ込み、結構喜んで買ってくれたようである。Wが言うには、贋時計を買ってくれるのは、ほんとうに温かくて心の優しい人たちばかりだったという。あまりの申し訳なさにWの心はずいぶんと痛みもしたらしい。彼はそのことを何度も繰り返し強調していたから、実際そうだったのであろう。

リーダー格の男は、売り子たちが贋時計を売り捌いて車に戻ってくると、恐ろしいほど的確に売値を当ててみせたという。なぜなのかはわからなかったが、どこかに盗聴器が仕掛けられているのではないかと思いたくなるほどの正確さだったらしく、そのため売値をごまかし代金の一部を着服することなど絶対にできなかったという。

彼らが贋時計を売り歩く地域は、全国どこでもというわけではなく、北陸から越後にかけての一帯に限られていたようである。同じ手口の仕事をしている他のグループとの間でテリトリーの調整がなされていたらしく、テリトリー外に移動するのは捕まる危険を察知し一時的に身を隠すときだけだったようである。Wが拘束されていた三年近くの間に畳やベッドのあるまともな宿に泊まったのはわずか二、三度にすぎなかったそうだ。リーダーの男だけは毎晩ホテルや旅館などに泊まったが、売り子たち四人は来る日も来る日も車の中で寝泊りさせられた。

また、行く先々の公衆浴場などで何日かごと風呂に入ることが許されたが、監視の目は厳しかったようである。入浴料や三度の食事代はリーダーの男が全額支払っていたというが、食事も安い弁当などがほとんどで、まともな食堂やレストランに入ったことは数えるほどしかなかったという。衣類管理や洗濯物などの処理は一部を自分たちでおこなうほか、各地に点在する一味の極秘の立寄り所で適当な処置がなされていたらしい。

リーダーの男は時々稼いだ金を郵便局や銀行から香具師グループの上部組織らしいところへと送金した。また商品の贋時計が売れてなくなりかけると、すぐどこかに電話をかけて新たな商品の発送を依頼した。すると厳重にパックされた商品の贋時計が最寄の空港に置き留めで送られてくる手筈になっており、当該空港に出向いてリーダーの男がそれを受取り、また仕事を続けるというシステムだった。

Wのそんな話を聞いている途中で、私は、その気ならすきをみて逃げ出すこともできただろうに、なぜそうしなかったのだと尋ねてみた。すると、彼は、その渦中にいる者にしかほんとうのところはよくはわかってもらえないのだがと言いながら、噛み締めるような口調でその理由を話してくれた。すべては彼の意志力と決断力の弱さのゆえと断じてしまえばそれまでだったが、もしもそんな状況に追い込まれたら誰にだって十分起こり得ることではあるなという思いはした。

Wは祭の夜に拘束されたあと、殴る蹴るの暴行を加えられたうえに、しばらくのあいだ食事を絶たれ暗い部屋に監禁された。そして、こんど逃げ出すようなことがあったら手足の一本や二本どころか命だって保証はしないぞと凄み脅されたあげくに、知人や友人との連絡のつきにくい問題の贋時計売り組織の手先のとして北陸方面へと送り込まれた。まだ携帯電話などない時代のことだし、かりにそんなものがあったとしても、他のこまごまとした所持品と一緒にすべて取り上げられてしまっただろうから、いずれにしろ、友人知人への連絡は不可能だったに違いない。

十円玉一個さえ現金の持ち合わせはなかったから、もし逃げ出すとすれば、すきをみて警察や交番に駆け込んで保護を求めるか、通りすがりの誰かに助けを求めるしかなかい状況だった。はじめのうちはそんなことをしてでもなんとか逃げ出せないものかと彼なりに考えはしたようである。

だが、警察署や交番に保護を求めることは怖くてできなかった。たとえそれが半ば強要されたものであったとはしても、すでに彼は相当数の詐欺行為をおこなってしまっていた。もし警察に保護を求めたら、自分自身が徹底的に取り調べられ、詐欺罪を理由に犯罪者として送検されるだろうことは確実だったし、他の香具師仲間にも捜査の手が及ぶだろうことは間違いないところだった。むろん、それまで犯罪歴などまったくない彼にすれば、取調べを受け送検されることは心理的にも怖いことだったし、香具師グループの仕返しもおそろしかった。また、そんなことになったら、その噂がすぐにも故郷の人々に伝わり、それでなくてもなにかと大きな心配をかけている老母や親族を悲しませるだろうという思いもあった。

香具師グループやリーダー格の男などからも、もし警察に垂れ込むようなことがあったら、別れた妻や子どもを探し当てどこまでもつきまとってやると脅かされていた。また、たとえ警察当局に保護されても、解放された段階で再度お前を探し出しそれなりのお礼参りをしてやると釘を刺されてもいた。

だからといって自力で逃げ出して東京に戻るには、どこかで当面必要なお金を工面し、それから駅に行って電車に乗らなければならなかった。運良く親切な人にでもめぐりあえ、助けてもらえればよいが、世の中そうそう甘くはないし、事情を説明してみても容易には信じてもらえそうになかった。また、そんな事態になったら、香具師グループも仲間と連絡を取り合って駅その他Wの立寄りそうな場所を徹底的に洗うだろうから、再び捕まってしまう可能性も高かった。万一そうなったら悲惨な結果に陥るだろうことは目に見えていた。

結局、彼はそんな状況のもとで次々詐欺行為に手を貸しつづけるうちに、逃げ出す勇気も、さらには自らが置かれている状況の深刻さを考える気力も薄れ、それから三年間近くも車中生活と贋時計売りの日々を送ることになったのだった。その間に相当数の贋時計を売りまくったらしいのだが、むろんいくら彼が実績(?)をあげても終始無給のままであた。時には警察の警戒網に引っかかり、危ういところで逃走に成功したようなこともあったらしい。

実を言うとWが突然に我が家に姿を現わす数週間ほど前、たまたま私は、新潟地方をはじめとする日本海沿岸地域で大掛かりで組織的な詐欺グループが贋ブランドの高級時計を売り歩き、一帯に大変な被害をもたらしているとの新聞報道を目にしていた。車で機動的に動く複数のグループが存在しているような感じだったが、まさかその一員をWが演じているとは想像だにしてもいなかった。なにげなく読んだその記事のもつ意味がはっきりとわかったのは、彼の話をかなりのところまで聞いてからのことであった。

Wの話によると、彼が贋時計売りのグループから解放されたのは我が家に現れる二、三日前のことだったらしい。新聞報道からも推察されるとおり、実際には捜査当局の追及が厳しくなり、それ以上の仕事は無理と判断した香具師上層部の指示でグループの解散がおこなわれたのではないかと思うのだが、彼が語ってくれた経緯はそれとは少し違っていた。

Wが解放された時、彼らは新潟県のある地方都市近くにいた。その日の朝、突然、リーダー格の男が、「お前も三年近くずいぶんと頑張って売上に貢献したからこのへんで自由にしてやろう」と言いだし、彼は最寄の駅で車から降ろされたのだという。その際、男は、「東京方面に戻るには少しくらい金が要るだろうから、これでも売って金をつくんなよ」と言い添えて、ケース入りの二個の贋時計を彼に手渡してくれたのだそうだ。

人間の心理とは不思議なもので、解放された途端、Wはそれまでの自分の行為がひどく怖くなり、手元に残った二個の贋高級ブランド時計を売り捌いて東京までの旅費を工面することなど、とてもできなくなってしまったのだという。結局、彼はヒッチハイクまがいのことをやり、長距離トラックの運転手らの好意に助けられたりしながら東京に辿り着いたのだった。

三年近くにわたる彼の数奇な体験の証ともいうべき二個の贋時計は、そんな経緯で、いまはもう成人している我が家の二人の子どもたちへの手土産と化したのであった。W時計と呼ばれる奇妙な腕時計がいまもなお我が家の棚に置かれているのはそんな理由からである。あれからもうずいぶんと年月が経過した現在、Wは都内のある書籍流通部門の会社の倉庫で働いている。かつてのように無茶のきく体力は失せてしまったし、香具師グループのカモにされるような年齢でもなくなった。私には彼がその人生体験をそのまま筆に托すだけでもかなり面白い作品ができそうな気がしてならないのだが、周りの勧めにもかかわらず、かつての文学青年Wが筆を執りはじめる気配はまったくない。
2002年1月23日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.