初期マセマティック放浪記より

15.我が原風景の光と影

隣村の知人宅何軒かを訪ねる途中で、遠回りをして上甑島の北部にある長目の浜に立ち寄った。私が小・中学生だった頃は、里村の集落から山越えの細道をたどって二時間ほどはかかったものだが、現在は立派な車道が通じているから二十分もあれば楽に行ける。
長目の浜は甑島版の天の橋立だといってよい。長年にわたる風化や激浪による侵食でいったん海中に沈んだ岩石が、特殊な潮流や北西の季節風による荒波によって複雑な地形の小さな入江の口に運ばれ、少しずつ堆積した。そして、その堆積層が外海と内海によってはさまれる細長い礫堤(れきてい)となって成長し、ついには入江を封鎖した。いっぽう、封鎖された複数の入江は、列をなして並ぶ湖沼群となって残り、現在の奇観を呈するようになった。

礫堤を構成していた岩々は、絶え間なく寄せる激しい波に揺すり洗われるうちに色とりどり無数の玉石と化し、礫堤全体がいまでは美しい浜辺に変貌した。外海と湖沼群にはさまれ全長四キロにわたってのびる天の橋立状のこの特殊地形は、長目の浜と呼ばれ、知る人ぞ知る景勝地になっている。長目の浜と天の橋立との構造上の大きな違いは、前者が大小の玉石から構成されているのに対し、後者は主に砂地からなっていることであろう。

長目の浜に向かう途中、新しくできた鍬崎橋の上から右手眼下に一望する海の色は、昔ながらの美しさだった。青々と澄み輝く水の底にある大小の岩や石それぞれの色と形までが、遠くからはっきりと識別できた。海中深くに差し込んだ秋日が明暗の縞をなしてゆらゆらと揺れ漂う光景も、私にとってはなんとも懐かしいものだった。私というこのささやかな存在は、この海の青さに育まれたといっても過言ではない。遠い時間を引き寄せるように、私はその海の色にじっと見入った。

山の中腹にある展望台からの長目の浜の眺望は、二十数年ぶりの帰省に心ならずも緊張する私の胸の内を安らわせてくれるに十分だった。眼下はるかにのびる細長い浜辺に、無心に遊ぶ昔日の己の幻影を見る想いだった。静まりかえる湖沼群の水面のどこかには、かつて幼い胸に抱いた淡い夢がいまも小さな水紋となって残っているような気がしてならなかった。

展望台から見て一番手前の淡水湖、鍬崎池には昔から大鰻が棲んでいて、たまに捕獲されたものを子どもの頃何度か目にしたことがある。この大鰻は、少年時代にずいぶんと釣った通常の日本鰻とは別種のもので、実際に食べてみた人の話によると、大味であまりおいしくはないとのことだった。かつてあるテレビ局が鍬崎池に水中カメラを持ち込み、二メートルを超えるという伝説の怪物鰻の撮影に挑んだことがあるが、成功はしなかったようである。

中ほどにある貝池もたいへんユニークな特性をもつ。この池は低濃度の塩分を含む汽水湖で、アサリや、地元でカラス貝と呼ぶフランス料理のムール貝によく似た貝も生息している。古来、地元の人々はこの池を二重底であるいって恐れてきたが、その理由は、水深数メートルから下が、上層の淡水に近い澄んだ水層と異なり、赤紫色をした特殊な海水層になっているからだった。水中カメラその他の機材を持ち込んでの近年の科学的調査により、この酸素を含まない赤紫の海水層には、クロマチウムというきわめて珍しい微生物が生息していることが明らかになった。クロマチウムは古生代以前から三十億年にもわたって生きながらえている一種の化石微生物で、この貝池のほかには世界でもパラオ諸島とバルト海沿岸の湖沼だけに現存するといわれている。下層部の赤紫の水の色は、硫化水素を仲立ちに光合成をおこなうこの原始的微生物の生息に起因するものだったのだ。

いちばん北側のナマコ池は湖面の広さも深さも最大で、塩分濃度も海水に近い。塩分濃度が高いのは、大潮の満潮時などに、礫堤基底部の粗い礫のすきまを通ってかなりの海水が流入するからだといわれている。最近はほとんど採取されなくなったが、この池には特産のナマコのほか各種の海魚類、カラス貝などが生息している。薩摩藩の幕府献上物として有名な、薩摩の俵物三品、イリコ(干しナマコ)、明鮑(干しアワビ)、フカヒレの交易に甑島は長年にわたって寄与してきが、その三珍品の一つイリコの生産にこのナマコ池は大きな関わりがあった。

さらにまた、この長目の浜沖をはじめとする甑島一帯の海中には上質のムラサキウニが大量に生息しており、近頃ではそれを原料に上質のウニの瓶詰が生産されている。各漁協が製造にあたっている甑島産ウニの瓶詰は、実に味がよく、私の友人たちの間でも絶品として評判が高い。

意外に思われるかもしれないが、私が子どもの頃までは、他の魚貝類がたくさん獲れたせいもあってか、甑島の人々の間にはウニを食べる習慣はほとんど存在しなかった。地元の方言でドガンスと呼ばれるウニは、当時、そこら中に生息していて、潜り漁や貝採り、魚釣りの際など邪魔者扱いされていたものだ。時折、都会から遊泳にやってきた人々がウニを山のように採って浜辺で食べている様子を見て、なんであんなものを食べるのだろうと、子どもごころに不思議に思ったものである。ウニの瓶詰製造技術が持ち込まれ、それが高価な商品となるということがわかったいまでは、島の人々にとってはウニ様々というわけだが、考えてみると、なんとも面白い話である。

昔は、長目の浜に出るには、現在展望台のあるあたりから、人ひとりがやっと通れるほどに狭い急傾斜の山道を転がるように下ったものだが、いまでは、貝池とナマコ池の境目付近まで車道が通じており、車で楽に行き来ができる。息子と二人で他にはまったく人の気配のない湖畔に降り立ち、子どもの頃泳いだことのあるナマコ池の湖面に見入った。それから、礫堤沿いに繁る亜熱帯性の灌木と喬木の混交林を抜けて長目の浜の海辺に出た。嬉しいことには、青潮の寄せる響きも水中できらめき揺れる大小の玉石の美しい影も幼い日の記憶のままだった。

ただ、浜辺に打ち上げられている漂流物の数々は、大きな時代の変容と環境の変化をはっきりと物語っていた。子どものころ目にした漂流物は樹木類や海草類、漁具や船具の一部、瓶類、魚貝類の死骸などがほとんどだったが、いま目にする漂流物の大半はプラスティック製品を主体とする色とりどりの人工物で、なかでも日用品の廃棄物が大きな割合を占めていた。たぶん、九州本土や韓国などを含む甑島以外の各地から漂着したものなのだろうが、その量は浜辺の景観をこそなうほどに膨大なものだった。

たしか小学五・六年生の頃、この長目の浜に遠足に来たとき、美しい玉石に混じって丸く小さなボール状の物体がたまに転がっているのを発見し、不思議な宝物でも手にしたような気分になって皆ではしゃいだことがある。実をいうと、その球形物体の正体は、タンカーが沖で不法投棄した廃油が海水の働きで固まったいわゆる廃油ボールだったのだが、そんなことなどつゆ知らぬ田舎の学童の間では、それが希少価値を秘めた逸品にも感じられたのだった。今にして思えば、あの頃から、世界の海洋汚染は始まっていたのだろう。

長目の浜をあとにすると、小さな峠を越えて、真珠の養殖などで知られる浦内湾に出た。この浦内湾は、奥部が二つに分かれて深く複雑に上甑島の陸部に入り込む特異な構造をそなえており、その特殊地形のゆえに、戦時中は海軍の秘密特攻基地に、また島津藩政時代は密貿易の格好の拠点として用いられた歴史をもつ。

近年民俗史の研究を通して明らかになってきたことだが、島津藩は、支配下の海商たちの手を借りて、先に述べたイリコ、明鮑、フカヒレの三品や寒天などを中国各地や東南アジア方面へと密輸し、莫大な利益をあげていた。それらの品々は中華料理には欠かせない材料であり、ことに上質な日本産の素材は海外で珍重され、高値で取り引きされたらしい。幕府の目を避けるために、それらの物資を運ぶ密貿易船の秘密の基地や中継地として、浦内湾をはじめとする甑島各地の港が利用されたことはいうまでもない。

驚くべきことに、明鮑と呼ばれた干し鮑は、幕府の監視の目をかいくぐって、奥尻、礼文・利尻などの蝦夷地方面からも大量に甑島へと運びこまれ、地元周辺で産出されたものと合わせて、そのほとんどが、琉球諸島経由で中国、台湾、香港、さらには東南アジア各地へと密輸されたのだという。それを手がけた島津藩御用海商の代表格密輸王は浜崎太平次といい、当時における我が国屈指の豪商であったらしい。三十数隻の大型船を所有してた太平次の本拠地は薩摩半島の先端に近い指宿、山川一帯だった。

瀬上、小島の集落を抜け、風光明美な浦内湾を右手に見下ろしながら、これも新しく設けられた県民リクリエーション村を通過、上甑村の中心集落である中甑に出ると、また何軒かの家に挨拶回りに出向いた。虎屋の羊羮箱の数がさらに減ったことはいうまでもない。羊羮箱というよりは、透明な翼の生えた羊羮鳥とでも呼んだほうがよさそうだった。

この日に中甑で予定した挨拶回りを済ませると、やはり見違えるほどに近代化の進んだ中甑港に出て、そこから海沿いの道を平良(たいら)という小集落のある中甑島に向かって一走りだした。中甑という集落は中甑島にあってよさそうなものだが、そうでないところがなんともややこしい。中甑島にある集落は平良だけで、中甑という中心集落は上甑島に位置している。平良という地名が平家の落人と関係があるとされるのは、ご多分に洩れない話ではあるが、日本国内の僻地という僻地を平家印(?)にしてしまった平一門の落人とは、いったいどういう類の人々だったのだろう。すべてが事実であるならは、そのバイタリティには恐れ入るばかりだが、なかには、素性の確認が困難なことを悪用した「平家の落人もどき」などもずいぶんとあったのではなかろうか。

上甑島と中甑島の間には小さな中の島という島があって、中の島の両端は、奇岩の立ち並ぶヘタの串、中の串という二つの狭い瀬戸になっている。近年、この両瀬戸に橋がかけられたことから、昔は船で渡るしかなかった中甑島の平良集落へも車で渡れるようになった。中の島のヘタの串よりには甑大明神が祀られているが、一説によると、その付近の巨岩の一つが甑(こしき)という古代の蒸し器、ないしは小溶鉱炉の形に似ているために、甑島という名がつけられたということである。しかし、その真偽のほどは定かでない。

秋の西日に輝く東支那海を右手に見ながら、初めてこの二つの橋をわたりしばらく走ると、良魚港に恵まれた平良の集落に着いた。いかにも静かな魚村という感じで、都会から来た旅人にとっては実にいい雰囲気の集落である。この集落からエンジンをうならせていっきに裏手の急峻な道を登ると、そこが帽子山展望台だった。北東方向には夕日に染まる上甑島が、また、南西方向にはどこか神秘的な黒く険しい山容を見せる下甑島の島影が望まれた。また、東から南東方向に広がる海の向こうには、延々と連なり浮かぶ薩摩半島一帯の本土の山並みが遠望できた。

この帽子山展望台の少し南側にある木の口山周辺は、下甑の山稜部と並んで、白地にピンクの鹿の子模様が美しい鹿の子百合の群生地として知られている。開花のシーズンからは時節がはずれていたので、自生種の鹿の子百合が競って木の口山一帯をピンクに染める幻想的な光景を目にすることはできなかったが、種子をはらんだ鹿の子百合があちこちに風に揺られて立っているのは妙に印象的だった。この鹿の子百合の球根は、過去の食糧難の時代は食用となって島民の命をつなぎ、また観賞用植物として戦前戦後の一時期は欧米諸国に盛んに輸出されていた。この鹿の子ユリをもとに交配改良した新種のユリが欧米ではいまも人気を呼んでいるという。

刻々と迫る夕闇に押しなべられるようにして静まる藺牟田の瀬戸方向の海面と、その向こうにあって黒い影をますます深める下甑島の山並みを眺めながら、私は、明日の講演が終わったら無理をしてでも下甑島に渡ろうと思った。私が育った島ではないが、そこのどこかには、私の感性を育んでくれたかつての上甑島の風景に近いものが、いうなれば、私の「原風景」により近い自然の情景が、まだ残されているような気がしてならないからだった。

夜になってからも、お寺などを含めて何軒かのお宅に挨拶回りに出かけた。結局、宿をとってもらっている甑島館に戻ったのは午後十二時近くだったので、九時で営業が終わる宿の温泉にはこの晩もはいれなかった。翌日の講演内容のチェックをしたり、手直しをしたりしているうちに、時計の針はは午前二時を回ってしまった。簡単にシャワーを浴びただけで、ベッドに転がりこんだのは言うまでもない。
1999年1月20日、1月27日

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