初期マセマティック放浪記より

182.旧友定塚さんの退職

四月半ばのこと、北海道から宅急便がひとつ届いた。差し出し人欄に目をやると、そこには旧友定塚信男さんの名があった。何だろうと思いながらすぐに包みを解いてみると、「母・命」というメインタイトルに「五男・60年の軌跡」というサブタイトルのついた著書一冊と二枚のCDが中から出てきた。添付されていた手紙を読むまでもなく、その著書とCDが何を意味しているのかすぐにわかった。ひとかたならぬ感慨を胸中深くに覚えながら、「そうか、定塚さん、定年退職したんだな……」と私は思わず呟いていた。

四十数年の長きにわたる定塚さんと私との風変わりな親交について語り尽くすのは容易でない。世の常識から見てなによりもまず変わっているのは、半世紀にも近い親交であるというのに、その間に直接に会ったのがせいぜい十回程度にすぎないということであろう。それにもかかわらず、「親友」などという言葉から想像される以上の心の通い合いが、我々二人の間にあったことだけは確かである。

――さて、私こと、この度三十七年間にわたる教職生活をこの三月三十一日をもって無事に終えることができました。これも一重に皆様方のお蔭と感謝致しております。これを契機に自分史と記念CDを作成致しましたので御笑納下さい――そう記された定塚さんの挨拶文に目を通す私の脳裏を、懐かしい想い出の数々が走馬灯のように次々とよぎっていった。

六十年にわたる過去の記録を綴った自分史に「母・命」というタイトルをつけたからといって、定塚さんがマザコンだったわけではない。私の知るかぎり、若い頃から定塚さんは責任感と自立心が人一倍強く、まさに「男の中の男」という言葉がぴったりの人物であった。定塚さんが自分史にそのようなタイトルをつけたのは、それなりに理由があってのことだったのだ。

終戦直後の昭和二十一年は国内に赤痢が蔓延した。そして、当時五歳だった定塚さんとその父親の外吉さんもその疫病に感染し、地元の病院に入院した。だが、特効薬の入手など不可能だった当時の事情にくわえ、治療にあたった老若二人の医師の間には療法について意見の相違が生じもし、事態は悪化の一途をたどった。長老の医師のほうは食事をとらせるべきでないと考え、若い医師のほうは体力の消耗を防ぐため食事は取らせるべきだと考えたようである。結局、老医師の方針が選ばれたのだそうであるが、外吉さんのほうはそれからまもなく亡くなってしまった。まだ幼かった定塚さんには、隣のお父さんの顔を覆う白布が何を意味しているのかさえ理解できなかったという。

定塚さんのほうも食を断たれていたため、とにかく腹が減って腹が減ってどうにもならなかったとのことである。どうせ死ぬものなら空腹の吾が子にせめて何かを食べさせてやろうと決意した母親のとめさんは、夜中に医者の目を盗んで、食糧難の当時としては貴重な砂糖のかかった「澱粉かき」を与えたりした。とめさんの苦労の賜物であるその「澱粉かき」の味がいまも忘れられないと定塚さんは語っている。

それからほどなく、医師から息子の死が近いとの宣告をうけたとめさんは、死が避けられないのなら自宅に連れて帰ろうと考えた。伝染病ということもあったので、夜こっそり貨物列車に乗せ、人目を忍んで定塚さんを家へと連れ戻ったのだという。帰宅後も下痢と栄養失調でぎりぎりのところまで体力を消耗したが、懸命の介抱が効を奏し、定塚さんは奇跡的に一命をとりとめた。

また、高校三年の三月、大学を受験したあとの帰りの車中でお腹の調子が悪くなった。帰宅後はかなり熱も出て悪寒がしたので、湯タンポを入れて寝込んでいた。町医者を呼び、血沈を計測したり触診をしてもらったりしたが、それでも病名がわからず、その後もひたすら寝ているばかりだった。

だが、母親ならではの直感で息子の様子が只事ではないと判断したとめさんは、日曜日であったにもかかわらず定塚さんを富良野市の大病院に連れていき、特別に診察を依頼した。当直は産婦人科医だったが、触診するとすぐに虫垂炎が悪化しており一刻を争う状況だと判断、緊急に外科医が呼ばれて手術がとりおこなわれた。患部が破裂寸前で、もうすこし対応が遅れたら落命するところだったという。手術の痕が化膿したたため、三日三晩高熱と痛みにうなされ一睡もできなかったそうだが、この時も母親とめさんの的確な判断が定塚さんの一命を救ったのだった。

この世に生を授かったうえに、その後二度にわたって母親のとめさんに命を救われた定塚さんは、やがて、「自分の命は、母の命そのものだ」と考えるようになり、大学卒業後、天職ともいうべき教職に就くと、全身全霊を傾けて教育の仕事に尽くしてきた。昭和五十六年にとめさんが亡くなったあとも、母からもらった命は自分だけのものではないと自らを戒め、また、「命をかけて他人のために尽くせ」という父、外吉さんの残した教えを守りながら、次々に生じる仕事上の難事に挑み、それに伴う数々の困難に耐えてきた。

三十七年間にわたる定塚さんの軌跡の全容をここで紹介することはできないが、教育者としてのその真摯な道程は唯々敬服に値する。定塚さんと出逢い、教育者としての並びなきその情熱に触れ、生きる勇気をもらったり、なにかと啓発されたりした教え子の数はすくなくないことだろう。

ただ、すぐれた教育者の常として、それを支えた御家族、とくに奥様の苦労は並大抵のものではなかったに違いない。ギリシャ時代のソクラテスにみるまでもなく、古来、献身的な教育者というものは、物心両面で自分の家族にひとかたならぬ苦労をかけるものと相場がきまっているからだ。それでなくても、教師というものは、どんなに献身的に教育に尽くしてもそれは教育者として当然のことだとあしらわれ、少しでも軽率な行為や判断の誤りがあった場合には教育者のくせにと責められる。一口に三十七年間とはいうが、それは長いながい苦悩と葛藤の年月でもあったに違いない。

母、とめさんが亡くなったあと、箪笥の中からは、小学校入学時から大学を卒業し教員生活を送るようになるまでに定塚さんがもらった各種成績表や賞状類などが見つかった。

とめさんが胸中に秘めつづけていた生前の自分への深い思いを想像したとき、定塚さんは、それらを何らかの形で表わし残すことが必要ではないかと考えるようになっていた。そして、この三月の退職を機に、自分史を編纂することによって、長年の懸案を実現しようと決意したのだった。見方によってはちょっと異様にもうつる「母・命」という風変わりなタイトルが選ばれたのは、定塚さん自身にそんな背景があったからだった。

北海道南富良野村在住の定塚信男いう人物の存在を知ったのは、たしか小学館発行の雑誌の読者欄を通してのことだった。当時鹿児島県の離島の小学校に通っていた私は、どこか遠くの地方に住む人と文通をしたいと思い立ち、適当な相手を探しているところだった。東シナ海に浮かぶ孤島の磯辺で遠く遥かな本土の影に憧れる少年だった私にとって、文通こそは、時流とは無縁な僻地の小村と未知のドラマに溢れる広い世界とを繋ぐ最善かつ唯一の手段だと思われもしたものだ。そんな折、自校の校歌について述べた定塚さんの投稿記事がたまたま目にとまったのである。

定塚さんのほうはべつに文通などを望んで投稿をしたわけではなかったのだが、自分よりも一学年うえのこの人のことが妙に気になった私は、たどたどしい文面と筆跡の手紙をもって一方的に文通を申し込んでみた。それが、以後四十数年にも及ぶ親交に発展しようなどとは、むろん、その時には想像もつかないことであった。私はけっして運命論者などではないのだが、人生にはまれに、誰かの手であらかじめ仕掛けられていたのではないかと思いたくなるほどに不思議な出逢いがあることだけは認めざるをえない。

手紙を投函してから何週間かが過ぎ、やはり駄目だったのかと諦めかけた頃になって、ようやく北海道から一通の手紙が届いた。封筒裏の差し出し人名は「定塚信男」となっていた。内心小躍りしながら大急ぎで封を開くと、とても一歳違いの人が書いたものとは思われないほどに整った字体としっかりした文章の手紙があらわれた。手紙には、突然のことで驚いたけれど、文通の件は喜んで了承した旨のことが記され、そのほかに、定塚さんの家族についての簡単な紹介などがなされていた。

あとになってわかったことだが、定塚さんもまた、その頃はまだ知る人のほとんどなかった富良野盆地の一隅にあって、広い世界を密かに夢見る少年だったのだ。奇妙な縁ではあったのだが、ともかくこうして、北の大地のなかほどと南のはての島に住む幼い少年二人の文通が始まったのだった。

それからというもの、定塚さんと私との文通は連綿と続き、いつしか十五年を超える歳月が流れ去った。その間に起こったお互いの驚くほどの身辺の変化については、長年の手紙のやりとりを通して熟知していたが、直接に顔を合わせる機会は依然として一度もないままに時は過ぎていった。初めて手紙を交わしたときには幼い少年だった我々は、もう二十代半ば過ぎの青年へと変貌を遂げていた。すでに地元の北海道で中学教師になっていた定塚さんは、自ら志願して赴任した山間の一級僻地の学校で優れた若手教育者として数々の実践を積み、私はわたしで、かつては遠く無縁の存在にすぎなかった東京の地にあって、ささやかながらも専門研究の道を歩みはじめようとしていた。

その年の五月のこと、長年の夢を実現する絶好の機会が訪れた。定塚さんが結婚するというのである。このチャンスを逃してはならないと思った私は、すぐに出立の準備を整え、結婚式出席のため急遽北海道へと旅立つことにした。かねてから北海道に渡ったあと最初に踏む土は定塚さんの故郷のそれにしようと決めていたから、函館や札幌などには目もくれず、ひたすら列車を乗り継いでまだ見ぬ友の待つ南富良野村幾寅駅へと直行した。

列車が富良盆地に入ると、車窓左手に残雪を戴く雄大な十勝連峰の山並みが見えた。あれが十勝岳かと胸が熱くなるような深い感動を覚えたことをいまもはきりと想い出す。富良野市から少し南に下ったところにある南富良野の幾寅駅に降り立った私は、にこやかな微笑みのなかにも静かな緊張を秘めて駅頭に佇む北の友と、ついに念願の対面を果たすことができたのだった。時に昭和四十四年五月十日――初めて手紙を書いた日から数えてみると、実に十六年もの春秋がとどまるところなく廻り繰り返されていた。

翌日の結婚式の際、司会者や主賓などがその挨拶の中で「じょうづかさん、じょうづかさん」と何回も繰り返すのを聞いても、それが誰のことなのかすぐにはピンとこなかった。お恥ずかしい話だが、私はそれまでの十六年間というもの、「定塚」という姓は「さだづか」と読むものとばかり思っていたので、「じょうづかさん」という名を耳にしても、しばらくはそれが定塚さんのことだとわからなかったのである。前日に定塚さんと対面した直後から、「さだづかさん」を連発していたはずなのだが、遠来の私の気持ちを配慮してのことだったのだろう、定塚さんもその周囲の人々も、なにげない顔をして私の呼び間違いを聞き流してくれていたのだった。
2002年5月8日

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