初期マセマティック放浪記より

9.二十数年ぶりの帰郷

私は横浜生まれだが、様々な事情があって幼児期に鹿児島県の甑島へと移り住み、中学校を卒業するまでの十余年間をその地で過ごした。「甑島」は「こしきじま」と読む。拙著「星闇の旅路」(自由国民社)が刊行されたおり、ある週刊誌の書評欄で紹介されたまではよかったのだが、その書評の冒頭部を読んで、私は思わず苦笑したものだ。

「甑島」をどう読むか、また、その島がどこにあるか知っている人がいったいどのくらいいるだろうか。この紀行の鍵となるその地名は本書のなかに数カ所に出てくる。文中において、薩摩半島西方四十キロのところに浮かぶ離島とその場所だけは説明されてはいるが、読み終えたいまも私にはその地名の読み方がわからない。でも、むしろ、それがいいと思っている。
と書いてあったからである。

東支那海に浮かぶ甑島は、上甑島、中甑島、下甑島の三島からなる長さ四十キロほどの列島で、薩摩半島の付け根にある串木野市の西方四十キロ、天草諸島の南方三十数キロのところに位置している。中核を構成する三つの島の周辺には、その自然美をいちだんと引き立てる小さな無人島が多数散在し、ごく一部の釣りマニアのあいだでは、大物磯釣りの穴場として知られている。私が島にいた頃は、野生のキジが数多く生息していて、冬の狩猟期になると、本土から犬を連れたハンターがよくやって来たものだ。

四つの村からなる甑島はかなり大きな島で、本土の串木野港からはフェリーでほぼ一時間半と、交通の便もそう悪くはないのだが、なぜかその知名度はきわめて低い。種子屋久、奄美、与論、沖永良部、硫黄、喜界といった薩南諸島の島々を知っている人は多いけれども、甑島の名を知る人は百人中に二・三人もあればよいところだろう。鹿児島県人でさえも大半はその存在を知らないくらいなのだから、他県の人がご存じないのはやむをえない。最近たまにテレビや雑誌などで甑島の自然や風物が紹介されているのを目にはするが、知名度が低いという状況には今も昔も大差はない。

もうずいぶん昔のこと、現在の文藝春秋編集長、平尾隆弘さんが、類の会という当時の同人誌仲間数人と拙宅に見えた際、学生時代に甑島に調査に行ったことがあるという話を伺って驚いたことがあるが、平尾さんのようなケースは例外だといってよい。もっとも、民俗学の柳田国男はさすがにその分野の草分けだけのことはあって、甑島を民俗学の宝庫として高く評価し、調査員を何度も島に派遣してその自然や文化、言語など詳しく調査したようだ。いまは亡き書家の町春草は甑島のなかの下甑村の出身で、女優の吉永小百合さんの父君も、実はこの島にゆかりの方である。

肉親縁が薄く、高校進学時すでに天涯孤独の身になっていた私は、日々の生活を送るのが精一杯で、甑島に帰ることはほとんどなくなった。そして、ある恩人の葬儀のために帰島して以来、いつしか二十数年もの歳月が流れ去った。ところが、この夏突然に、私が育った村の教育委員会から講演の依頼状が舞い込んできたのである。正直なところ、私は戸惑った。なんとか体よく断れないものかとも考えた。かつて自分が育った場所での講演ほどやりにくいものはないと思ったからだった。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや

という詩を詠んだ室生犀星の決意の固さほどではないにしても、当時若者だった私もまた、それなりの背景のもと、覚悟を決め半ば故郷を捨てるようにして東京へと旅立ってきた。しかも、近い血縁者は村にはもう誰もいない。都会育ちの方々にはなかなかこの感覚は理解してもらいづらいのだが、心中なんとも複雑だった。

しかし、再三にわたる講演の要請もあって結局は断り切れなくなり、浦島太郎二人分の心境を合わせたような想いを胸に甑島へと帰ることになったのだった。社会学を専攻する息子が、めったにない機会だから自分も同行し甑島というところを一度見てみたいと言い出したため、ポーターおよび緩衝材としての役割を命じることにした。私はアルコールがほとんどだめだが、芋焼酎の本場のことゆえ、容赦ない「芋ジュース」の洗礼が待っているに違いない。息子を緩衝材すなわち盾にして、その強烈な洗礼から我が身を守ろうという魂胆だった。

いざ故郷へ帰るとなるとお土産だけでも馬鹿にならないが、それらを無しですませるわけにはいかない。田舎育ちの方ならわかってくださるだろうが、それなりの数のお土産を用意して帰省するのは、暗黙のルールみたいなものである。ライトエースの後部に虎屋の羊羮三十箱をはじめとする必需品を積み込んで、十月の末の深夜、私たちは鹿児島に向かって出発した。住まいのある東京府中から鹿児島までは高速道路経由で千三百余キロほどあり、高速料金だけで二万七千円ほどかかる。

実を言うと、息子は出発の前日に運転免許を取得したばかりだった。自動車学校で一度か二度名目ばかりの高速教習を受けたにすぎないから、マニュアルのワゴン車で実際に高速道路なんか走ったことがない。その息子に諏訪パーキングエリアあたりからいきなりハンドルを握らせ、鬼の実地トレーニングを課すことになった。最初は相当に危なっかしい運転で、小牧東で車の多い名神高速に合流したあたりでは内心肝を冷やしもしたが、中国自動車道の半ばあたりにさしかかる頃までには、安心して助手席でうつらうつらできる程度にうまくはなった。何事もやらせてみるものではある。

余談になるが、かなり向こう見ずな自分の性分を活かし、過去何度も免許を取りたての知人や友人の運転実地トレーニングに付き合ってきたので、初心者への運転技術伝授にはそれなりの自信がある。秘訣の一つは、助手席で腹を決め、多少危なっかしくても相手の安全感覚と技術の向上を信頼し、少しでもうまくなったらまずは心から褒めてあげることである。この手口で四十を過ぎて免許を取った評論家の米沢慧さんや芹沢俊介さんなどをおだてあげ、中年暴走族にしてしまったのは、ほかならぬ私である。
1998年12月9日

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