初期マセマティック放浪記より

72.遣唐使船の構造的欠陥

遣唐使船をはじめとする古式和船の第一の欠陥は、海水を完全に遮断できる気密甲板を備えもっていなかったことである。甲板に完全な防水処理を施すだけの技術がなかったうえに、積荷の揚げ降ろしを効率よくおこなうことが優先されたから、現代の船のように船倉を気密度の高い甲板で覆うことなどはあまり考慮されていなかった。したがって、ずっとのちの江戸時代の千石船や北前船(弁財船)などでさえも、嵐のときに甲板が激浪に洗われたりすると海水が船倉に流れみ、たちまち転覆の危機にさらされてしまう有様だった。北前船の場合などは、嵐に遭遇して船倉が浸水すると、転覆を避けるために積荷を捨てるという非常手段がとられていたという。

遣唐使船の復原模型を見るかぎりでは一応その船倉は甲板で覆われているが、実際の甲板の構造はせいぜい厚板を密に並べ張った程度のものだったと推測される。耐水能力のきわめて低いそのような和船にとって、小山のごとくに盛り上がり、上方から船を押し潰すようにして甲板に叩きつける暴風時の激浪を防ぎとめることなど、どう考えてみても不可能だったに違いない。かつて東シナ海に浮かぶ離島で育った身ゆえ、近代装備をもつ百トンくらいの船に乗って嵐の海を渡った体験が幾度かあるが、それでさえも風浪との戦いは壮絶なものであった。

古式和船の第二の欠陥は、船底部が竜骨をもたない平底の構造になっていたことである。竜骨とは船底部の基本骨格のことで、その構造が、太い背骨を中心に左右対称に湾曲してのびる恐竜の胸骨の造りに似ているのでその名がある。紀元前の昔から竜骨をそなえていたヨーロッパやアラビア地方の船は、船底部の断面が大きく開いたV字形をしていて浮かんだ時の重心が低く、起き上がり小法師と同じ原理で左右に傾いても復原する力が強かった。また、支柱となる太い竜骨があるために船底部の強度が大きく、激浪に対する耐久性も高かった。嵐の海で船体が激しく海面に叩きつけられたり、高波の直撃を受けたりすると瞬間的に船底や船側、甲板などが歪む。竜骨があると衝撃による歪みは少なくてすみ、その応力(外力を受けたとき物体に生じる抵抗力)によって歪みは修正復原される。

ところが、竜骨がなく、お皿の内側断面にも似た平底の和船の場合は、重心の位置が高く、外部からの衝撃に対しても脆かったから、海が荒れるとたちまち遭難の危機に瀕する有様だった。タライ船を想像してみればわかるように、底の浅い平底船は海面が穏やかなときには横揺れがすくなく安定しているが、いったん海が荒れて大浪に持ち上げられると安定を失って大きく傾き、横転してしまうこともしばしばだった。また、嵐の時など、大波の波頭からいっきに波底に叩きつけられたりすると、竜骨をもたない脆弱な船体はその衝撃に耐えられず、船底や船側が破壊され、浸水してしまうことも少なくなかった。

船舶史を調べてみたかぎりでは、我が国ではじめて竜骨をもつ船が造られたのは幕末期の頃のようである。意外なことだが、千石船などをふくめて、それまでの和船は大型のものでも竜骨を備えもっていなかったのだ。江戸時代末期の思わぬ事件が契機となって竜骨をもつ欧米風の大型船建造技術が国内に伝承されるまで、和船の基本構造は遣唐使船の時代とほとんど変わっていなかったことになる。

一八五四年(安政元年)十一月四日、伊豆下田一帯は、紀伊半島南端沖を震源とする大地震によって起こった大津波に襲われる。下田の町家のほぼ全戸が一瞬にして倒壊流失してしまうほどに凄まじい津波だったらしい。米国のペリーなどと同様に、幕府との開港交渉のためロシアから派遣されていたプチャーチン提督は、下田湾に停泊する軍艦ディアーナ号上にあって、たまたまこの津波に遭遇した。

津波に翻弄されて遭難、大破したディアーナ号は、プチャーチンとの交渉のために幕府の代表として下田に逗留していた幕閣、川路聖謨の気転と配慮で、修理のために西伊豆の戸田(へだ)港へと回航されることになる。六十門もの大砲を備えた二千トン級のこの大型木造帆船には約五百人のロシア人が乗り組んでいたという。ディアーナ号はなんとか戸田湾沖まで回航したが、海が荒れているうえに方向舵の破損とひどい浸水のために航行がままならず、田子の浦に近い宮島村沖(現在の富士市新浜沖あたり)に流され、そこで動きがとれなくなってしまった。

必死の救船作業もむなしく、さしものディアーナ号も沈没の危機にさらされる事態になったため、ロシア人乗組員と宮島村周辺の地元民とは、激しい風浪をついて決死の共同作業を行ない、辛うじて船と浜辺との間に救助用ロープを張ることに成功した。そして、カッターボートやランチに分乗したプチャーチン以下約五百名の船員は、そのロープを命綱に激浪を乗り切り宮島村に無事上陸することができた。そのときに船内の貴重品や資材の一部も陸揚げされたようである。

それから二、三日後のこと、沈没寸前のディアーナ号をなんとか戸田村まで曳航しようということになり、駿河湾周辺の漁船百隻ほどが宮村沖に集結した。蟻のように群がるそれら手漕ぎの小漁船に曳かれて、ディアーナ号は戸田港のほうへと八キロほどジリジリと移動したのだが、そこでまた突然海上に巻き起こった疾風に襲われ、ついに沈没してしまう。それからほどなく、宮島村に上陸したロシア人たちは幕命によって戸田村へと移され、全員の帰国が実現する六ヶ月ほのどの間、彼らは村人と実りある交流を続けながら戸田の集落に滞在することになったのだった。

幸いなことに、遭難したディアーナ号の乗組員の中には、のちに飛行機の設計製作でもその名を知られるようになるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていた。プチャーチンをはじめとするロシア人一行の帰国にはどうしても専用船が必要であったから、必然の成り行きとして、このモジャイスキーの設計と指導のもと、戸田の入江の一隅で八十トンほどのスクナー型帆船が建造されることになった。もちろん、そのための資材や船大工、人夫などは幕府側が提供することになったのだが、すこしも労を厭わずロシア人たちのために十分な便宜をはかり、造船作業の遂行に大きく貢献したのは、有能かつ開明的な人物として名高い、前述の幕閣、川路聖謨であった。

新船建造にあたっては、西伊豆各地の船大工が多数召集された。船匠だけでも四十名ほど、これに幕府の諸役人や村の関係者、人夫を合わせると三百名、さらにロシア人たち五百名が加わったから、総計八百人ほどの人間がこの一大事業に従事したことになる。プチャーチンによって「戸田号」と命名された、三本マスト、全長二十二メートルの本格的なこの洋式帆船は、三ヶ月たらずという当時としては驚異的なスピードで完成された。この一連の作業を通して、日本の船匠たちは竜骨をもつ外洋帆船の建造技術をはじめて実地で学びとったのだった。攘夷派の中心的人物で「ロシア人を皆殺しにせよ」とまで唱えた水戸斉昭までが、最後には家臣やのちに石川島播磨重工の基礎を築いた自藩の船匠らを戸田に送り込み戸田号の建造現場を見学させたというから、相当にセンセーショナルな出来事だったのだろう。

単にそれが造られたというだけの話なら、戸田号が誕生する数ヶ月前に国内で二隻の大型洋式帆船の建造が行われている。大型船の必要を感じて幕府みずからが浦賀で建造した鳳凰丸と、薩摩藩が鹿児島で独自に造船した昇平丸がそれである。だが、両船ともに外国文献を頼りに見よう見真似で建造されたために両船ともに技術的欠陥が多く、昇平丸のほうなどはとくに浸水がひどくて、まったくの失敗作となってしまったという。したがって、戸田号こそは、我が国で初の本格的な竜骨構造をもつ洋式帆船だったと言ってよい。実作業の監督にあたった七人の船大工の棟梁たちは、細大漏らさず船の製作過程の記録をとり、のちのちの洋式帆船建造に備えようと努めたらしい。

もっとも、戸田号の建造に臨んだ日本の船匠たちが、けっして受身いっぽうであったわけではない。全体的な船の骨格造りの段階ではロシア人技師たちの指導が大きな力となったのだが、細部の作業や表面仕上げの段階になると、手先の器用な日本の船匠たちの技術とアイディアが活かされ、その素晴らしさにロシア人たちは皆舌を巻いたという。

面白いことに、戸田号には、日本人船匠らの意見を入れて日本式のオール、すなわち、艪が六丁ほど備えつけられていた。プチャーチンらの乗った戸田号がカムチャッカのぺトロパブロフスク港に近づいたとき、それらの艪が思わぬ威力を発揮する。当時はクリミヤ戦争のさなかだったため、同港一帯はイギリスとフランスの艦隊によって包囲されていた。ところが、たまたまその日は稀にみるようなべた凪であったため、ロシア人たちは備えつけの艪を使い敵艦隊に発見されることなくアバチンスクの入江に逃げ込むことができたのだという。

わずか三ヶ月間の戸田号建造を通じてスクーナー型帆船の製作技術を習得した日本人船匠らは、ロシア人らが帰国したあとも、六隻の同型船を次々に造りだし幕府に納入する。やがて彼らやその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸をはじめとする国内各地の造船所に散り、今日に至る我が国の造船業界発展の礎を築いたのであった。

気密甲板や竜骨を備えもっていなかったことも大きな欠陥であったが、遣唐使船をはじめとする古式和船の最大の弱点はその推進力の要になる帆の構造そのものにあった。一口に言うと、ヨーロッパやアラビアの帆船が、逆風や横風でも進むことのできる揚力利用の帆の原理をすでにとりいれていたのに対し、和船の帆は順風あるはそれに近い風しか利用できない原始的な帆に過ぎなかった。いわゆる「ヨット」と「帆掛け舟」の違いである。

飛行機の翼の断面みたいに表側の面がふくらみ、それに比べて裏面が平らな物体の両面に沿って大気が流れると、相対的に気流の流れが遅い裏面側から気流の流れの速い表面側に向かって揚力という特別な力が働く。飛行機や羽根を広げて大空を滑空する鳥などは、この揚力のおかげで空中に浮んでいるわけだ。ヨットの三角帆(原理的には三角帆でなくてもよい)の断面はやはりいっぽう側(帆の表側)がふくらんでいるため、たとえば帆の真横から風が吹いてきた場合、同じ原理で帆裏から帆表の方向に向かって揚力が働く。この力がヨットを推し進めるわけである。理論上は船の真横方向から風が吹いてくる場合に揚力は最大となり、状況次第では船速が風速を上回ることも可能である。

逆風の場合でも、たとえば船の舳先を風上に対してほぼ右四十五度の方角に向け、帆の角度を風向ラインとなるべく平行になるように調整すれば、揚力が生じる。舵を巧みに調整すれば、その分力を利用して右斜め前方に進むことができる。しばらく進んだら、今度は船の向きが風上に対して左四十五度になるように舵を切り、やはり帆の角度を風向ラインと平行になるようにしてやれば、こんどは左斜め前方に進むことができる。タックと呼ばれるこの操作を繰り返せば、船はジグザグ運動をしながら風上方向へと進んでいけるのだ。

もちろん、順風の場合は風に任せて進めばよいわけであるが、この場合は揚力を利用していることにはならないから、風の速度以上には船速は上がらない。真横や前方寄りの風なら微風でも揚力のおかげでそれ相応には前進できるが、順風でも微風の場合にはヨットといえども思うようには前進できない。

いっぽう、帆の構造上の関係で揚力を利用できない帆掛け舟の場合には、順風ないしはそれに近い後方よりの風でしか前に進めないうえに、風速以上の船速を出すことはできないから、きわめて走行能力が低くなってしまう。しかも、逆風などの場合には帆をたたむしかないわけだし、また、たとえそうしたとしても風下に流されるのを避けることはできない。

遣唐使船は言うに及ばず、江戸時代の千石船や北前船にいたるまで、我が国の船はほとんどが船央付近に帆柱をもつ「帆掛け舟」であったから、行く先々の港で風待ちをしながら順風だけを頼りに進まざるをえなかった。したがって、このような船に乗って安全な沿岸地帯を離れ、風向きの一定しない外洋に出てしまった場合には、風浪に翻弄され、目的地に着く前に難破したり漂流したりしてしまうのがむしろ自然なことであった。

遣唐使船の復原模型をみたかぎりでは、その帆は二枚ともに相当大きな長方形の麻布製で、帆裏には竹材や葦のようなしなやかで強靭な補強材が密に編みそえられてあったようである。迅速に上げ下げするのが難しいこのような重たい帆だと、それでなくても高い船の重心がさらに高くなり、順風であっても強風の時などには帆柱全体に強い力が加わり不安定になってしまったに違いない。しかも、上部になるほど受ける力が小さく風向きに合わせて帆の角度を自由に変えられる三角帆や、上げ下しが容易でマストの先端に近いほど小さくなる洋式帆船の複層帆と違って、下部よりもむしろ上部のほうの幅が広い和船の帆は、力学的にみても相当に無理があった。

たとえ同じ大きさの力であっても、帆柱の先端よりにその力が加わると、テコの原理によって支点にあたるマストの根元付近や船の本体にかかる力は大きくなる。だから、突風や強風に煽られるとマストが折れたり、船が不安定になって傾いたりすることは頻繁に起こったことだろう。

悪名高い倭寇について述べた明時代の文献には、「倭寇の使う船は船底が平で波を切り裂いて進むことができない。その帆布は中心線が帆柱と重なるように張られており、中国船のごとく帆の端線が帆柱と重なるようには張られていないから、順風を使うことしかできない。逆風や無風の状態になると帆柱を倒して艪を使うのだが、思うようには航行できないから、倭寇の乗る船は東シナ海を渡り切るのに一ヶ月余もかかってしまう」といった意味のことが述べられている。

ちなみに述べておくと、四角い帆の左右どちらかの端線が帆柱に重なるように張り止められ、帆のもう一端が帆柱を軸にして風向きに合わせ自由に動かせるようになっていれば、ヨットの三角帆と同じ原理で横風や逆風を利用し進むことができるわけだ。「一ヶ月余もかかってしまう」という記述は、いくらなんでもちょっと大袈裟過ぎるような気もするが、東シナ海の横断にずいぶんと時間がかかったことだけは確かだろう。

ただ、和船にもまったく例外がなかったわけではない。華厳縁起絵巻に見る十二世紀後半頃の大陸渡航船の帆は中国風に端線が帆柱と重なるように張られているし、一六〇四年から一六三五年頃まで続いた御朱印船(荒木船)は三本マストで、中国船と洋式船の折衷型の帆を備えていたようで、舳先にも小さな帆が張れるようになっていた。それらの船のの帆を巧みに使えば、進行方向の調整や逆風の利用も可能だったことだろう。そのあと鎖国の時代に入り、外洋の航海に耐える大型船の建造が禁止されたこともあって、その種の帆は使われなくなってしまったのかもしれない。結局、和船はもとの帆掛け舟状態ににもどってしまいそれ以上発達することがなくなってしまったのだ。海洋国であるにもかかわらず外洋船が発達しなかったのは、原初的な構造の和船でもなんとか間に合う沿岸地域や中国、朝鮮との交流が主で、太平洋の彼方へとの目を向ける必要のなかった我が国の歴史的背景と地理的事情によるものだったのかもしれない。

遣唐使船が東シナ海を渡るのに、大陸方向に向かって南東の季節風の吹き荒れる夏期を選んだのは、すでに述べたように、帆の構造上、順風に頼るしかなかったからである。南東の季節風が吹く時期は、中国大陸に近づくにつれて海が荒れてくる。当時の遣唐使船にとっては季節風のひきおこす荒波を乗り切るだけでも容易なことではなかったのに、この季節は南海で発生した台風が中国大陸よりの海上コースをとって北上する時期にも重なっていた。台風情報などしるよしもなかった当時の状況のもとでは遭難が続出するのも当然だった。

往路も大変だったが、復路はさらに厳しかった。順風を帆にはらんで日本へと戻るには、晩秋から厳冬期にかけて大陸から吹き出す北西の季節風に乗るしかなかったが、まだ季節風が弱い晩秋の頃は台風シーズンと重なって、大荒れになることが多かった。また日本付近が強い冬型の気圧配置に覆われる厳冬期になると、激しい北西の風に煽られ、東シナ海海は四六時中荒れに荒れた。しかも、揚子江下流域や杭州から船出して北西の風に乗った場合、順風とはいっても船は南東方向に流されることになるから、直接九州本土に着岸することは難しかった。だから、たいていの場合には、いったん奄美諸島や沖縄諸島のどこかに辿り着き、そこから天候待ちをしながら黒潮本流や対馬海流に乗って島伝いに北上、太平洋側に流されないように細心の注意を払いながら坊津あたりに着岸するという方法がとられていた。

南東の季節風に乗って中国に向かう往路の場合は、大陸のどこかに着くことができればなんとかなったが、復路にあっては、船体そのものが無傷であっても、太平洋のただなかへと流されてしまう前にどこかの島に到着しなければならなかった。したがって復路の航海はいっそう困難をきわめたわけである。いったん太平洋に流れ出てしまったら、よほどの幸運にでも恵まれないかぎり生還は絶望的だった。「南島路」という言葉にはなにやらロマンの響きさえ感じられるが、実際にはその言葉は「地獄の一丁目」と同義語だったと言ってよかったろう。
2000年3月8日

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