初期マセマティック放浪記より

22.キリシタン殉教の地に想う

甑列島最南端の釣掛崎から眺める海は、唯々広く果てしなかった。海抜一六四メートルの釣掛崎断崖上には明治二十九年に灯台が設けられ、以来、その光は東支那海を航行する船の安全を守ってきた。近年は人工衛星を利用したGPS(全地球位置方位決定システム)の普及がめざましいので、少しずつ灯台の存在価値は失われてきてしまっているが、灯台のある風景が人の心に生みもたらす旅愁の深さにいまも大きな変わりはない。

釣掛崎灯台から少し西にまわったところには「キリシタン殉教地」と刻字された立派な石碑が建っていた。石碑の脇に降り立つと、大串、小串と呼ばれる岩浜や、磯辺に向かって絶え間なく寄せる青潮の動きを一望することができた。この石碑は、甑島では数少ないカトリック信者の方々が、私財を投じて建立したものであるという。

慶長七年(一六〇二年)、下甑村長浜に上陸した五人の宣教たちが元和八年(一六二二年)長崎で殉教したことは前に述べたが、それから十五年後の寛永十四年(一六三七年)には、益田四郎時貞(天草四郎時貞)率いる、史上名高い島原の乱が勃発した。

天草、島原から甑島までは、天候のよい季節なら船でほんの一息に過ぎないから、島津藩が天草、島原方面の信者と甑島内の信者との直接間接の連帯を危惧したことは推測に難くない。翌年の寛永十五年(一六三八年)になると、甑島のキリスト教徒は必然的に厳しい弾圧を受けることになった。捕らえられた島内のキリシタンは、この釣掛崎一帯で斬首などによって処刑されたといわれている。「キリシタン殉教の地」という碑は、その受難の史実を後世に伝えるために建てられた。その苛酷な取り締まりが始まって以降、甑島からは、表向きにはキリスト教徒がほとんど姿を消すことになった。釣掛崎とか手打とかいう変わった地名に、キリスト教徒や一向宗徒の処刑との関わりを読み取る郷土史家もあるというが、そのあたりの関係はいまひとつ定かでない。

それから四年後の寛永十九年(一六四二年)には、ローマのキリスト教本部のルビンをはじめとする宣教師五人と日本人、インド人、ポルトガル人の計八人(ただし、薩隅日地理纂考には「日本人三人ありて、南蛮人六人を擁護し」とある)が大串海岸に上陸、一時的に付近に隠れ棲んだという。島民の通報でほどなく彼らは捕らえられたが、記録によると金一貫七十銭と銀六百三十六銭を所持していたという。ルビンらの一行は長崎に送られ、翌年四月、拷問の末に処刑されている。

この時代になると、宣教師たちのなかには、布教のためというよりは磔刑(十字架を用いたはりつけの刑)に処されることを自ら願ってキリシタン弾圧の厳しい日本へ意図的に潜入する者も現れた。ルビンたちが、「神様に私どもの生命を捧げることは大なる名誉です」という意味の言葉を残して殉教している背景にも、そのような事情が窺われる。異国で殉教することによって聖人に列せられることが、至上の願いとなっていたのだ。

このあたりの裏事情は、日欧比較文化史の異色の日本人研究者で、四半世紀以上ヨーロッパに在住し、ドイツのゲッティンゲン大学において専門研究を重ねた松原久子の著書、「日本の知恵ヨーロッパの知恵」のなかに詳しい。国内ではほとんど無名の松原だが、同書の内容が実に興味深く、しかも説得力に富んでいるのは、著者の視座のとりかたがヨーロッパ一辺倒ではないことにもよるのだろう。むろん、その研究を裏づけているのは、日本人離れした行動力を駆使して集めた膨大な関係資料と卓抜した分析力、さらには透徹した歴史推理能力だ。

イエズス会本部は、キリシタンの取り締まりが厳しくなり、一五九七年、国内外の宣教師や修道士をふくむ二十六人のキリスト教徒の処刑を断行しようとした日本の奉行所に、処刑は普通の刑場ではなく西側に海や港の一望できる丘の上で行うこと、斬首ではなく磔刑(十字架を用いたはりつけ)にすることの二点を申し出、それを承諾させたのだという。裏を返せば、それは信者を鼓舞するためのイエズス会本部による一大演出でもあったらしい。イエスが処刑されたゴルゴダの丘を彷彿とさせる場所での宣教師の磔刑は、キリシタンたちを怯えさせるどころか、逆に彼らを恍惚の境地に導きさえし、教祖イエスのように自分たちも死にたいという殉教熱を高めたのだ。

初期の殉教者の遺体は着衣と共に聖宝として本国へ持ち帰られ、それを契機に聖なる殉教を夢見る宣教師たちがフィリピン方面から続々と日本潜入を図るようになっていった。その殉教熱は一時は病的なまでに高揚したらしい。殉教者は必ず天国へ行けるという教義えのゆえに、取り締りが厳しくなればなるほどに、宣教師たちの間では、殉教の地「日本」への憧れは高まるいっぽうだったという。ヨーロッパを血で染め抜いた宗教戦争や宗教異端弾圧においては、敵対する聖職者は斬首や焚刑で処刑するのが常であり、十字架に磔にして相手に栄光を与えるような馬鹿な真似はしないのが常識だった。だが、国外の事情に疎い当時の日本役人はその点できわめて寛大だったと、松原は述べている。

松原は、ヨーロッパ一円のキリスト教関係の図書館をめぐり、当時日本にいた宣教師たちが教会本部や各国王なとに送った書簡類を探し出し、詳細にその内容を分析している。スペインなどにはイエズス会に託された秀吉の書簡なども残っているらしい。資料の解釈は研究者の立場によっても左右されるので一概に鵜呑みはできないが、松原は当時の宣教師たちの裏の顔を物語るさまざまな文献の存在を指摘している。

ここで詳しくは書かないが、数多くの日本少女の海外への人身売買幇助(ほうじょ)や仏像焼却、寺院破壊の策謀と扇動、政治妨害、母国や所属団体への手の込んだ利益誘導など、聖職者という仮面の陰で彼らが弄した手口は結構なものだったようである。結果的に鎖国政策が我が国の発展を阻害する原因となったのは事実であるし、封建時代の支配者たちが庶民のために善政を敷いたとも思われないが、それでもなお、鎖国令を敷かざるを得なかった当時の為政者たちの苦悩の一端を、それらの史実を通して窺い知ることはできる。

日本布教の父と仰がれ、聖人にも列せられているフランシスコ・ザビエルなども、当時の日本の軍事力の分析や、堺港一帯の経済交易活動の詳細な調査報告書をポルトガル国王に送っている。神の戦士、フランシスコ・ザビエルが書いたレポートの中身はなかなかのもので、武力でいっきにこの国を支配するのは難しいようだという状況分析などもその中においてなされている。いずれにしろ、当時日本にやってきた宣教師たちのすべてが、本来の意味での敬虔な信仰をもつ人徳者であったわけではないことだけは確かなようで、かれらの背後には宗教戦略の本質とでも言うべきものがおぼろげながらも感じ取れる。

現実には、日本人キリシタンたちの信仰のほうが、彼らを導いた宣教師たちのそれよりもはるかに純粋かつ敬虔なものであったとも言えるわけで、権力や権威と結びついた宗教の宿命とも思われるものがそこには見え隠れしているようだ。親鸞を始祖とする浄土真宗、すなわち一向宗の場合などにおいても、時の流れとともに指導者が権威への執着を強め、教義とはまるで矛盾した変容を遂げるようになっていったのはまったく同じだった。

どんな宗教であってもそれを広めていくということになると、ある段階から先は信教の自由を至上の旗印にした勝つか負けるかの組織的な戦いにならせざるを得ないのかもしれない。そして、いったんそうなってしまうと、聖俗あるいは善悪の両面を巧みに織り交ぜながら戦い抜くしかなくなっていくのかもしれない。

日本の大学などで日欧関係やキリスト教などについて講義するときは、秀吉や家康時代の日本人が如何に残虐であったか、宗教の自由や個人の人格についての認識が如何に欠如していたか、どこまで国際性に欠けた偏狭な閉鎖的精神の持ち主であったかを、宣教師たちの殉教に絡めて強調するのが普通である。学生たちも、何の疑いもなくその説明を受け入れ、素直に恥じ入ったりするが、もっと日本人は歴史的想像力を働かせ、国際的視野からその問題の本質を考えてみる必要があると松原は指摘する。歴史を大学受験の道具の一つくらいにしか考えていない学生がほとんどであることを思うと、なんとも耳の痛い言葉である。

日本における宣教師の殉教者数は多く見積もっても数十名程度で、しかも、国外退去命令や布教禁止を受け入れれば処刑されることも迫害されることもなかった。それに較べ、ヨーロッパにおける宗教戦争や異端弾圧の際に殺害された聖職者や一般信者の数は途方もない数にのぼり、その手口も目を覆いたくなるほどに残虐このうえないものだった。日本におけるキリシタン弾圧の程度は、ヨーローロッパならごく限られた地方の宗教弾圧史にさえも取り上げられるかどうかのレベルで、当時のヨーロッパ人のほうがはるかに残虐だったと断定できるとする松原の主張は、なかなかに興味深い。

松原は現地のマスメディアをはじめとする公的な場などに積極的に登場し、かつてのキリシタン弾圧や鎖国政策を含めた日本人の残虐さと狭量さを批判するヨーロッパの学者たちと何度も渡り合っている。そんな時など、数々の資料をもとにヨーロッパの宗教学者や文化史の専門家に反論すると、彼らは返答に窮することが少なくないという。思想史とか文化史上の史実の評価というものは、絶対的なものではなく、きわめて相対的なものであるということが、この話からもよくわかる。

キリシタン殉教の地をあとにした私たちが、さらに先へと林道を辿っていくと、やがて視界が大きく開け、牧山と呼ばれる高原状の牧場地帯へと出た。地図で調べてみると高度そのものは三百メートルをすこし超えるくらいだが、海から一定傾斜をなしてじかにせりあがった地形なので、標高以上に高いという感じがする。南側一帯にのび広がる雄大な緑のスロープと、その向こうに続く東支那海の展望は思った以上に素晴らしかった。南西方向に目をやると、午前中に訪ねた手打湾や手打集落などを遠望することもできた。さえぎるものがないだけに、見上げる秋の空は実に広い。水平線まで一望できるから、空気の澄んだ夜などにここから眺める星空や月景色は最高だろうなと思ったりした。

広い牧場のあちこちでは食肉用の黒和牛がのんびりと草を食んでいた。私が子どもの頃までは、島内のかなりの家で農耕用の和牛が飼育されていた。そして、ときおり生まれる子牛は、ある程度まで成長すると本土からやってきた博労たちによって競りにかけられ、島外へと売られていった。当時の農家にとっては、農耕牛が産む子牛は貴重な現金収入源となっていたのである。いまでは農耕用に牛を飼う家などなくなってしまったから、昔ながらの黒和牛を目にすることができるとは考えてもいなかった。だから、私は、牛たちを眺めるうちにとても懐かしい気分になってきた。そして、集落のはずれの広場で毎年行われていた競り市の様子や、売られた子牛が哀しそうに鳴きながら起重機で空中に吊り上げられ船倉へと積み込まれる光景などを昨日のことのように想い出した。

牧山から西側のひょうたん岳方面へと向かう林道は、静かな木立を縫うとてもよい雰囲気の道路だった。ところどころに乾いた牛の糞が点々と落ちていたりもしたが、逆にそれが妙に味のあるものに見えてきたから不思議なものである。乾いた牛糞というものは、軽くてパサパサしていて手掴みしても汚いという感じはしないし、昔は良質の肥料にもなっていた。悪ガキの頃には、学校帰りなどに道端のあちこにち落ちている牛糞を拾って友だちと投げっこなどをしたものだ。

牧山とひょうたん岳の鞍部を越え片野浦方面へと抜けるひょうたん林道をしばらく走ると、北に向かって続く美しい山並みと西海岸にのびる垂直な断崖線を一望できる場所に出た。甑島案内パンフレットの観光スポットにこそ入れられていないが、実に素晴らしい景観である。視界ぎりぎりのところにあたる断崖線の最端部には、小さくだが有名な瀬々野浦のナポレオン岩の威容が望まれた。

眼下に広がる照葉樹林の絨毯に目を奪われながらいっきに林道をくだっていくと、手打方面から直接に片野浦へと通じる幹線路に合流した。そこから片野浦までは一走りだった。片野浦は岡と浜田という二つの集落に分かれている。今は道路が十分に整備されたので訪ねるのが容易になったが、かつては甑島の秘境の一つとされていたところだった。集落のたたずまいを見ると、いまでも秘境という言葉にふさわしい雰囲気は十分に残っている感じである。

四方をほぼ山に囲まれた感じの静かな岡集落の細い道を抜け、谷川沿いの道をさらにくだると片野浦海岸に面する浜田に着いた。浜田には片野浦キャンプ場なども設けられていて夏場には賑わいを見せるらしいが、いまは人影はほとんどない。片野浦海岸は小湾をなしているのだが、その両側は険しい断崖で、集落のある湾奥の部分だけが浜辺となっている。地形が険しい場所だけに、周辺には奇岩なども数々あって風光明媚だし、釣りや磯遊びに適した岩場や瀬場にも恵まれているから、時間さえあればこの地ならではの様々な魅力を見いだすことはできる。ただ、北西の季節風が吹き荒れる冬場には、この海岸一帯には激浪が押し寄せるに違いない。

片野浦一帯をゆっくり散策したいという思いもあったが、さらなる秘境の瀬々野浦や内川内集落をこの日のうちに訪ねるつもりだったので、海岸周辺をひとわたりめぐっただけで、私たちはともかく先を急ぐことにした。片野浦海岸のある浜田から岡集落まで引き返すと集落なかほどで左に分岐し、下甑島西海岸寄りの急峻な山地を縫って瀬々の浦へと続く西部林道目指して走り出した。

ずいぶん昔のことになるが、いまは亡き作家の堀田善衛は「鬼無鬼島」と題する一篇の小説を書いた。それはある島の孤絶した一小集落に残るクロ宗という秘密結社の人々の生活を描いた小説だったが、堀田が暗にモデルにしたのはこの片野浦の岡集落一帯だったと言われている。堀田善衛はその作品において、クロ宗をその実態がいまだ深いベールに包まれ、その真相は永遠に解明不可能な隠れキリシタンの末裔たちの秘密宗教組織として描いているが、小説はあくまでも小説であり、書かれていることすべてが事実だと考えることは間違いである。ただ、この作品の中には、ある種の偏見や大きな誤解を生み出しかねない誇大な表現なども多々あるので、その内容について詳しく述べることは差し控えたい。

現在はもうその痕跡はほとんど残っていないだろうと思われるが、ずっと昔、この小集落一帯だけに周りからクロ宗と呼ばれる特異な信仰が存在したのは事実のようである。クロ宗とはクロス、すなわち十字架を暗示する言葉であったようだ。事実のほどはともかく、この一帯の神社の鳥居は十字架のイメージを隠しもつ構造になっているとか、トイレの便口が十字型になっているとかいった噂話が、私が子どもの頃までは他の集落の人々の間で折々囁かれていたものである。

上甑の里村在住の郷土史家、塩田甚志氏はその著書の中で、「甑島のクロ宗は、島原の乱のキリシタン残党の末裔ではないかとか、自己防衛のため頑なに秘密主義を通してきた一向宗隠遁者の組織の名残ではないかとか言われてきたが、それ以前の慶長年間に下甑島に上陸したドミニコ会宣教師によって教化された日本人信者の末裔たちが、肥前、肥後、その他の地で残酷な刑に処された宣教師や信者たちのことを知り、人跡稀な辺境の地に世を避けて隠れ住み、信仰を守ってきたのではないかとも考えられる。死者があればまず密かにキリスト教のミサをすませ、その後で浄土真宗の葬儀を公然と行ったと言う地元の人の話からは、五島などに残っていた隠れキリシタンとも相通じるものが強く感じられる」という主旨のことを述べている。

キリスト教のミサをすませたあとで浄土真宗の葬儀を公然と行ったという話が事実だとすれば、おなじ禁制令の対象であっても浄土真宗のほうはかなり大目に見られていたらしいことが想像され、なかなかに興味深い。

そんな謎の歴史を秘める岡集落を過ぎるとすぐに、道幅は狭まり路面の傾斜も急になった。しかし、舗装はしっかりなされており、対向車もまったくなかったから、ドライブ自体は快適だった。深く広大な照葉樹林の中を左右にうねりながら道はどこまでも続いている。車窓を全開してやると、流れ込む外気に乗って突然、「チューッ、チューツ、チュリューッ、キリッ、キリッ、キリキリキリッ」と鋭い声で鳴く雄のメジロの声が響いてきた。車の速度を落として林の奥を窺うと、綺麗な黄緑色の羽を小刻みにうち振りながら樹々を渡る何羽ものメジロの姿が目にとまった。落ち着いてよく観察してみるとかなりの数の群れである。

数羽が身を寄せ合って木の枝先などにとまっている時に出す「チュチュチュ、ジュル、ジュル、ジュルジュルジュル」というような、囁きにも似た鳴き声もあちこちから聞こえてくる。いわゆる「目白押し」という言葉の語源にもなった様態をメジロたちが見せるときに発する鳴き声だ。敢て断っておくが、目白押しとは、かつて目白にあった政界のドンの豪邸に押しかけていた陣笠代議士先生方の姿ではない。

「チーイッ、チーイッ」という単調な鳴き声は明らかに雌のものだ。「チューウ、チューウ、チュウチュウチュチュチュ」とテンポを急に速めながら高らかな囀りを繰り返しているのは、たぶん群れのリーダー格の雄のメジロだろう。昔メジロをずいぶんと追いかけたことのある私は、あれだけ見事な囀りを見せるメジロなら首から胸にかけでさぞかし見事な金筋をもっていることだろうなと想像しながら、彼らの動きを飽きることなく見つめていた。
1999年3月17日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.