初期マセマティック放浪記より

54.奥の脇道放浪記(10)名勝をめぐり伝承を思う

陸中海岸から平泉中尊寺へ

長岡を出発して八日目にあたる翌朝は午前七時に起床、朝食をすませると直ちに出発した。朝日に輝き浮かぶ八甲田連山の遠景が実に素晴らしい。景色に見とれながら八戸方面へと南下するうちに道路の渋滞がひどくなってきた。そのままだと通勤ラッシュに巻き込まれ動けなくなってしまいそうだったので、八戸市街を迂回して久慈市へと向かい、久慈から小袖海岸方面に進路をとった。

太平洋の荒波を直にうける小袖海岸一帯には大小様々な奇岩が立ち連なっていて、壮観なことこのうえない。岩々を刻むようにして打ち寄せる白浪のむこうには、青潮がゆるやかなうねりを見せながら澄んだ輝きを放っている。兜岩と呼ばれるひときわ大きな奇岩の付近で車を停め、潮の干いた磯辺の水際をのぞくと、ワカメやコンブがいたるところに打ち寄せられているではないか。我々はすぐにビニール袋を取り出して荒磯に降り立つと、大量のワカメやコンブを採取した。見るからに瑞々しくやわらかで実にうまそうである。今夜の味噌汁の具はこれでOKというわけだった。

普代の集落から黒崎方面へとルートをとると、陸中海岸国立公園の一角をなす長大な断崖地帯の上部へと出た。真青に輝く海面から垂直に切り立つ黒崎や北山崎の断崖には、見る者の魂を激しく下方へと引き込むような迫力がある。絶壁のあちこちの岩角や狭い岩棚にすがりつくようにして生息する岩松、シロバナシャクナゲ、さらにはその他種々の灌木類の緑が陽光に映え、サングラスをかけた目にも眩い。巨大な岩屏風の足元を削る青潮の白い牙だけが、この魔性の海の隠しもつ本性をさりげなく語り示しているようだった。

じっと下方を見つめるうちに、この絶壁の上から空中に身を投げ出し、海面に叩きつけられるまでの数秒間の飛翔を楽しむのも悪くないなという思いがしてきた。ここなら、海中に没したあとも水中深くに巻き込まれ、いずれは魚の餌となって二度と人目に触れることもないだろう。実際、過去において突然姿を消した人の中には、いまもこの水底に眠る者が数多くいるに違いない。東に広がる太平洋の彼方から満月が昇る秋の夜などにこの断崖の上に立てば、遠い昔の死霊達が哀しげに訴えかける在りし日の物語が聞けるのではないかという感じさえした。

午前十一時に北山崎を出発、中生代白亜期化石断層で知られる田野畑から内陸を縫う道に入り、岩泉町へと向うことになった。有名な鍾乳洞「龍泉洞」を訪ねるためである。日本では最古の地層の残る岩手県の北上山地一帯は、古生代末期や中生代の化石の産地として名高い。なかでも岩泉町近辺の山々は全体が石灰岩からなっており、その関係で周辺には大小の鍾乳洞が数多く存在している。もう少し北にある安家洞と並んで龍泉洞はその代表格の洞窟なのだ。

龍泉洞には正午前に着いた。この鍾乳洞はアイヌ語で「霧のかかる峰」を意味する宇霊羅(ウレイラ)山の体内深くに葉脈状にのび広がっている。好天のために外は肌が焼けつくほどの暑さだったから、龍泉洞の中から湧き出る清水はなんとも冷たく爽やかに感じられた。洞内は身震いを覚えるほどに肌寒く、外の暑さがうそのようだった。以前は洞内の通路は細く狭く岩角がごつごつしていてずいぶんと歩きにくかったが、現在では板張りの平な歩道に変わりすっかり歩きやすくなっている。奇異な形をした無数の鍾乳石や石筍、石柱などを眺めながら我々は奥へ奥へと進んで行った。歩道の右手や下側を濃紺色の澄んだ水がひそひそと何事かを囁き合うような響きをたてて流れていく。太古から絶えることなく続いてきたこの水の囁きが石灰岩質の厚い地層を徐々に溶かし、不思議な造形物の立ち並ぶこの巨大な洞穴を生み出したわけである。

龍泉洞最大の奇観はその最奥部に眠る大きな地底湖である。第一、第二、第三と三つの地底湖が公開されているが、なかでも深さ九八メートルの第三地底湖は、神秘的なコバルトブルーの水を満々とたたえて、我々の心を無言の言葉で威圧した。水中に何基かのライトが設置されているため、底のほうまではっきりと透き通って見える。背筋がぞくりとするような凄みのある色だった。龍泉洞という呼称の由来はよくわからないが、この地底湖のさらに奥に続く洞窟のどこかに龍が潜んでいたとしても不思議ではない。実際、第三地底湖深く潜りさらに奥に進むと深さ百二十メートルの第四地底湖があるという。その透明度は世界でも有数といわれるが、現在はまだ一般には公開されていない。これまでに知られている最奥部まででも二千五百メートルはあり、千変万化の相貌を秘めた洞窟そのものの全容は奥行き五千メートル以上に達するだろうと推定されている。

第三地底湖からの帰りのルートは、何度も何度もジグザグに折れる急峻な階段の上り道となった。相当に足腰にこたえる上りである。洞内を上へ上へと進むと、先刻の地底湖が足元はるか下方に青々と輝いて見えた。

龍泉洞を出た我々は、龍泉洞新洞のほうも訪ねてみることにした。一九六七年に発見されたこの新洞は、龍泉洞本洞入口の向い側にある鍾乳洞で、現在は科学館をも兼ねている。世界でも珍しい自然洞穴科学館というわけで、鍾乳洞の生成プロセスが実物を事例にして詳細に解説されていた。また、洞穴学、地学、生物学、考古学等の貴重な資料や標本なども陳列公開してあった。洞内から発見された多数の土器や石器類が展示されているところをみると、古代人が昔から中に住みついていたことは明かで、その意味ではこの新洞は「再発見された」と言ったほうが的確な表現なのかもしれない。

龍泉洞前のお店で昼食をすませたあと、我々は海沿いに走る国道四五号線に出て南下、田老町のすこし手前の真崎海岸への道に入り、大きく海に突き出した真崎に立って、眼下に広がる荒磯と太平洋の景観を楽しんだ。

真崎からすこし南に下ったところに国民宿舎三王閣がある。この国民宿舎には以前に一度泊まったことがあったが、「三王閣」という名称のもととなった奇勝「三王岩」はまだ目にしたことがなかった。むろん、見逃すわけにはいかないということで、車から降りた我々は林を抜ける細い道を下り、三王岩展望台へと出た。眼前に現われたのは、罪人を裁く冥界の王たちとまちがうばかりの巨大な三つの岩だった。海中から威丈高にそそり立つ巨岩の中でもひときわ大きなものは、地獄の覇者閻魔大王を想わせた。

折角だから水辺まで降りてこの奇景を楽しもうということになったのだが、道が崩落して危険だから展望台の柵を越えて進むことは禁ずるという警告板が立っている。一瞬顔を見合わせた我々だが、冥土の王たちの招きには抗し難く、すぐに柵を越えて急な細道を下りはじめた。あの世の王たちのお墨付きがあるのだから怖いものはない。急峻な岩道の崩落個所もなんなく通過し、三王岩の足元近くに降り立つと、心地よい潮の香りが鼻をついた。

折からの干潮で一番手前の大岩の広い基底部が水中から露出しているため、磯辺から小さな岩伝いにその巨岩の根元のところまで容易に渡ることができた。あらためて下から見上げると、実に見事な形をした岩である。岩の根元に沿って歩きながら海中をのぞくと、ワカメやホンダワラの林が絶え間なく寄せては引く潮の流れに合わせてゆらゆらと搖れ動いているのが見えた。これだけ海草が繁っていたら、魚貝類もたくさん生息していることだろう。海中を眺めているうちに、ちょっと潜ってみたいという気分になったが、まだ水が冷たそうなうえに、水中眼鏡と海水パンツを車の中に残してきたこともあって、さすがにそれは思いとどまった。

下りとは別のルートをとって急斜面を這い上り車に戻った我々は、田老の町を左手に見ながらいっきに走り抜け、宮古方面へと南下した。次ぎなる目的地は、言わずと知れた陸中海岸随一の名勝「浄土ヶ浜」である。国道から分かれるゆるやかな道を下り浄土ヶ浜駐車場に到着したのは、午後三時四十五分頃だった。

駐車場から林の中を抜けるとすぐ海辺に出た。右手に海を見ながら小さな岬をまわると、斜めから差し込む陽射しをうけて白々と輝く岩々が見えてきた。海上に連なり並び立つ大小の岩々は、ひとつひとつが合掌して瞑黙する仏像か羅漢像のように見える。そして、それらの奇岩群に囲まれるようにして小さな入江があり、その入江の奥に真白な玉石を敷き詰めたような美しい浜辺があった。むろん、浄土ヶ浜である。

この一帯の海岸や沖のほうに並ぶ小島は、すべて純白に輝く石英粗面岩でできている。伝承によると、いまから三百年ほど前に宮古にいた霊鏡和尚という人がここを訪ね、「さながら浄土のようだ」と賛嘆したことから浄土ヶ浜と呼ばれるようになったという。西陽に美しく映える天然の岩仏の群れに心の中で手を合わせながら、石英粗面岩の白い玉石からなる浜辺に大の字になって寝るのは、言葉には尽くし難い快感だった。

午後五時頃浄土ヶ浜をたち、宮古から国道一〇六号を盛岡方面へ向かって走った我々は、川井村の上川井で国道三四〇号線へと左折した。車は深い林の中の峠道をぐんぐんとのぼりつめ、やがて、早池峰山の東側に位置する標高七百メートルの立丸峠に到着した。夕暮特有の深く沈み込むような色を帯びて眼下に広がるのは、伝説と民話の沃野、遠野である。

迫る夕闇と競い合うかのように、我々は遠野への道を駆け下った。遠野盆地北東部の田園地帯に入ると、いかにも伝説に彩られた歴史とロマンの郷らしい雰囲気が漂いはじめた。道路の両側に点々と立ち並ぶ古い家々のたたずまいそのものが、時間を孕んだひとつの物語だといってよい。ぽつりぽつりと灯りはじめた遠くの民家の明かりを眺めていると、柳田国男がこの地を訪れた時代へとタイムスリップしたかのような幻覚に襲われた。

時間が許せばこの遠野で一夜を明かしたい気分だったが、あとに続く行程上の都合もあったので、今回は食料の補給をしただけで遠野の町を通過することにした。遠野盆地をじっと見下ろすように稜線を広げる早池峰山が黄金色の残照に浮かぶ有様は、数々の民話の生まれた背景を我々に納得させてあまりあるものだった。この早池峰山をこよなく愛し、自作の詩の中に早池峰の大自然を詠い込んだ高村光太郎は、戦後まもなくその山麓の村に移り住んだ。戦争礼賛の詩を書いて多くの若い命を戦場へと駆り立てた己の過去への悔悛と、智恵子を狂死へと追い込んだ過酷な運命への抗し難さのゆえの隠遁でもあったという。

山中で修験者に近い生活を送っていた光太郎の山小屋のあった山口というところの近くを過ぎ、北上川の支流猿ヶ石川沿いに北上市方面に向う頃には、すっかり夜も更けてきた。 北上市で国道四号線に合流、水沢市を過ぎる頃になると、さすがにお腹がすいてきた。国道脇のパーキングエリアに駐車し、遅めの晩飯を作って食べたが、陸中海岸で採ってきたばかりのワカメやコンブのお陰で、安上りの割には結構うまい食事だった。晩飯を終え、手際よく炊飯具を片付けると、再び国道四号線を平泉方面に向って走り出した。

すいた夜の国道をかなりの速度で爆走し、平泉中尊寺の駐車場に着いたのは午後十一時頃だった。夜間は自由に利用可能な広い駐車場には、他に車の影はなかった。車を降りた我々は懐中電燈を手に中尊時の参道のほうへと歩きはじめたのだが、そんな姿を誰かが見ていたら、その時と場所をわきまえない野次馬根性に呆れかえったかもしれない。

中尊寺の参道はかなり長い上り坂になっている。夏などに急ぎ足でこの坂道を登ったりすると、息切れがし、汗びっしょりになるほどである。参道の両側には杉の巨木がうっそうと立ち並び昼でも暗いくらいだから、周辺を覆う深夜の闇の濃さはいまさら強調するまでもない。過去に何度も足を運んだ中尊寺だが、深夜ここを訪ねるのは私も初めてである。他に人気のあろうはずもなかったが、逆に、人影の途絶えた深夜だからこその風情や発見があるのではないかという期待はあった。

懐中電燈で足元の闇を切り分けながらゆっくりと歩くうちに眼のほうもかなり暗さになれてきた、肌に触れる夜の空気が思いのほか心地よい。かなり坂道をのぼりつめたところで何気なくうしろを振り返えると、杉木立ちの向うの空が明るくなっている。意外に思って足をとめ、しばらくそのほうを眺めやっていると、下弦の月に近い半月が姿を現わした。そう言えば、中尊寺参道の坂道は「月見坂」という異称をもち、ほぼ真東に向って傾斜している。これまで月見坂というその呼称の意味を深く考えたことはなかったが、しだいに高さと輝きを増す美しい半月を眺めているうちに、なるほどという思いが湧いてきた。空気が澄んでいるせいか、月光は想像していた以上に明るかった。半月でこの光の強さだから、これが満月だったらさぞかし綺麗なことだろう。

想わぬ月光の助けのおかげで参道一帯はずいぶんと明るくなった。もう懐中電燈はほとんどいらない。昼間なら義経が最後の戦いを行なった衣川古戦場が遠望できる高台に立ったが、さすがに衣川の川面を確認することはできなかった。義経の怨霊が立ち現われて、過ぎし日の無念の情を切々と語りかけてくれれば、それにこしたことはなかったが、残念なことにそれらしい気配は全くなかった。この二人を相手に下手に昔物語でもしたら、ねじ曲げられて何を書かれるかわからない、そうなったら悲哀とロマンに満ちた我が歴史伝説もだいなしだと、義経の霊が敬遠でもしたのだろう。

むろん、時間が時間だったから、伽藍や僧堂内には立ち入ることはできなかったが、それでも我々はたっぷりと時間をかけて、広大な境内の隅々を歩きまわった。月光でほどよく磨きやわらげられた中尊寺全山の霊気が、じわじわと体内にしみこんでくる感じで、なにやら心身の汚れが一掃されていくような思いだった。むろん、国宝の金色堂のそばにも足を運んだが、全体を覆堂ですっぽり包み保護されているその荘厳なお堂本体が見えるわけはなかった。それでも我々は、月光の中に燦然と輝き浮かぶいにしえの金色堂の姿を想像しながら、しばしその前に佇んでいた。

真夜中の中尊寺詣を終えた我々は、車に戻ると、深夜の国道四号線を一ノ関、築館と南下した。そして、築館から花山村方面に向う国道に入り、佐野原で池月、鳴子方面へと分岐する国道四五七号線へと車を乗り入れた。中尊寺を散策中に東の空から昇ってきた半月はさらに高度と輝きを増し、周辺の野山を明るく照らし出している。このまま夜明けまで走り続けようかとも思ったが、鳴子まであと一息という大清水付近に着く頃にはさすがにすこし疲れてきた。時計を見ると午前二時を過ぎている。明朝早く鳴子で温泉にはいるにはこのあたりで野宿したほうがよかろうということになり、道端に車を駐めて眠ることにした。月の光だけが嘯々と降り注ぐ静かな静かな夜だった。
1999年11月3日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.