初期マセマティック放浪記より

74.唐招提寺と鑑真入寂

鑑真が平城京に入った七五四年には、その渡日最初に招請した聖武天皇は孝謙天皇に皇位を譲って法皇となり、時代は天平から天平勝宝に移っていた。鑑真の来朝を長年待ちこがれていた聖武法皇や光明皇后、そして孝謙天皇らは最高の儀礼を尽して彼を迎え入れ、伝法大法師位を勅授した。

「鑑真殿、貴僧は遠い唐の国からはるばる大海を渡り、一命を投じる覚悟でこの国に来てくださいました。それは私がかねがね心から願っていたところで、この胸の内の大きな喜びと深い安らぎは何物にもたとえようがありません。私はこの東大寺を建立するのに十年もの歳月を要しました。またその建立を進めるかたわら、東大寺に戒壇を設け、仏僧の修めるべき真の戒律を国内の諸僧に伝授することができないものかとも考えてきました。日夜その強い思いを忘れることなく時を重ね、こうして今日に至ったようなわけなのです。幸い、世に並びなき高徳として知られる貴僧の来朝が実現し、戒律を伝授して戴けることになりました。今後は授戒伝律の大任をすべて貴僧に委ね、私自らも進んで仏道の戒律を授かろうと深く心に誓うに至りました」

現代語調になおしてしまうとなんとも軽い感じになってしまうが、ともかくもそんな主旨の詔(みことのり)を賜った鑑真は、時を待たずして伝法の師としての大任につくことになったのである。そして、天皇、皇后、皇太子にはじまり、諸僧にいたるまでの多数の仏徒が東大寺大仏殿の前に参集し、導師の鑑真より次々と戒律を授かったのであった。さきに述べた「寄諸仏子 共結来縁」の二句そのままの光景が繰り広げられたわけである。

翌年の七五五年には東大寺戒壇院が設けられ、鑑真はその高徳にあやかることを願って国中から登壇する修行僧に戒律を伝授するかたわら、いまでいう医学や薬学をはじめとする諸技術や諸知識を広く教え説いたと言われている。目が見えなくなっていたため、各種の薬草などは嗅覚や触感でその真贋や薬効を判断し、しかもほとんど誤ることがなかったというのだから、その異能たるや恐るべきものであったというほかない。

七五六年に鑑真は大僧都に任じられるが、その二年後の七五八年には大僧都の官位を辞し、大和上の尊号を下賜された。そして、その翌年には新田部親王の旧宅が特別に寄進され、その地に唐律招提、すなわち現在の唐招提寺の原寺となった律宗寺院が創建された。また、平城宮の改修が行われた七六〇年(天平宝宇四年)には、その東朝集殿が同寺院に移築寄贈され、戒律教授の講堂として用いられるようになった。鑑真のもとにはその知徳を慕って国内の津々浦々から修学僧たちが集まり、互いに切磋琢磨しながら戒律をはじめとする諸学の修得に努めたという。

修学のため多数の帰依者が鑑真のもとに参集していたことはわかるが、その講説風景はいったいどのようなものであったのだろう。超人的な能力をもつ鑑真であったとしても、渡日した年齢その他の状況から推測すると日本語の会話はできなかったと考えるのが自然だろう。もちろん、当時の教養人の読み書きは中国語(漢文)でなされていたから、読解や記述については問題はなかったものと思われる。しかし、鑑真が口述する中国語の講義を聴いて即座にそれを理解したり、中国語で講義内容についての質疑応答したりするとなると話は別だったことだろう。中国と日本との間では、日常の言葉は言うに及ばず、漢字の読み方そのものもすでに大きく異なっていたはずである。

遣唐使団の一員として渡唐の経験のある一部の僧侶たちなら直接に中国語で鑑真と対話することもできただろうが、学僧たちの皆が中国語の会話に堪能だったとは思われない。「椅子に座る鑑真の講説に耳を傾ける俗僧たち」などという説明のついた古図などを眺めていると、いささか眉に唾をつけたい気分にもなってくる。おそらくは通詞(通訳)つきの講義がおこなわれていたのだろう。

当時の東アジアにおいては、中国語は国際共通語として現代の英語以上に重要視されていたはずだから、上流知識階級の間では、中国語の「読み書き」も「会話」も国際人の教養として不可欠なものだと考えられていたことだろう。もしかしたら中国語会話塾みたいなものもあったのかもしれない。だが、たとえそうだったとしても、昨今の英会話塾の繁栄ぶりには程遠かったろうから、中国語の会話のできる者が相当数いたとはいっても、修学者の誰もが中国語会話に通じていたとは思われない。

現代なら黒板や白板を使っておこなわれる講義内容の板書などはどういう風になされていたのだろう。黒板や白板に替わる道具が何か存在していたのだろうか。さらにまた、和紙などは大変な貴重品だったその時代、受講僧用のテキストや講義録用ノートなどはどうしていたのだろう。高価な紙が特別に支給されていたのだろうか、それとも麻布か木簡や竹簡のようなものが用いられていたのだろうか。超人的な記憶力の持ち主だけが戒律受講の有資格者だったとも思われないから、なんらかの方法が講じられてはいたのだろう。このあたりの事情についてはその道の専門家に教えを乞うてみるしかない。

並外れた気力と体力を誇った超人も年齢的な衰えだけは隠すことができなかった。七六三年に入ると、強靭をきわめた鑑真の健康状態も大きく傾き、その余命に翳りが感じられるようになってきた。忍基をはじめとする鑑真の弟子たちは師の入滅が近いことを悟り、密かにその高貴な姿を実物大に近い乾漆像にうつしとり、後世に伝え残すことを考えた。いまでも唐招提寺の開山御影堂に安置されている鑑真像はその時に造られたものであるという。この年の五月六日、鑑真は結跏趺坐(けっかふざ)して示寂したと伝えられている。享年七十六歳、渡日を果たしてから十年後のことであった。現在もその内部は当時のままで残されているといわれる唐招提寺金堂は、鑑真が他界した翌年に建立されたものである。
  七七七年に第十四次の遣唐使として中国に渡った佐伯今毛人(さえきのいまえみし)は、鑑真和上の入寂を唐の朝廷に奏上したと伝えられている。また、それから二年後の七七九年には、真人元開(淡海三船)によって、今日にまで伝わる「唐鑑真過海大師東征伝」が著されている。

鑑真記念館の中にある鑑真像の複製乾漆像をあらためて拝観し終えた私は、車に戻ると真昼の陽光を浴びて青く静かに輝く秋目浦をあとにした。変化に富んだ久志浦、泊浦の美しい風景を右手に望みながら南下し、歴史民族資料館と坊津町役場のあるあたりにくると、眼下に坊浦の眺望が開けてきた。遠くのほうに目をやると、鋭く尖った二つの岩が対峙するようなかたちで海中にそそり立っているのが見えた。双剣石と呼ばれるそれら二個の岩はきわめて特徴的な形をしており、岩とその周辺の景観は唐招提寺に納められた東山魁夷画伯の障壁画「濤聲」のモデルにもなった。生前、東山画伯は、鑑真が初めて坊津の地を踏んだのと同じ時節に同地を訪れ、海の荒れる日などを選んでは唐招提寺障壁画の基礎デッサンやスケッチに励んでおられたという。

鑑真ゆかりのこの坊津周辺には、江戸時代末期まで一乗院をはじめとする名刹や古刹がかなりの数存在していた。しかしながら、明治元年三月十七日に神祇事務局から出された神仏判然令を契機とした廃仏毀釈運動のため、それらは無惨なまでに破壊し尽くされた。大政奉還に続く王政復古の号令のもと、祭政一致の政治形態を至上とする時流の暴走が惹き起こした一大愚行で、いまとなってはただ残念の一語に尽きる。

王政復古の理念を掲げ長州とともに明治政府樹立の音頭をとった薩摩藩では、島津藩主自らが率先して徹底的に廃仏毀釈をおこなった。明治二年十一月には大竜寺、不断光院、慈眼寺といった藩内の古刹が廃され、最後まで残っていた福昌院、大乗院、昭信院、宝満寺、そして坊津の一乗院もついに廃寺となり、同月二十四日をもって、薩摩藩内には一寺院もなくなってしまったと言われている。廃寺にともない多数の仏像が破壊焼却されたことはいうまでもない。坊津の海岸沿いの場所になんとも哀れな姿に変わり果てた二体の仁王像が立っているが、それらもかつての廃仏毀釈運動の名残なのだろう。

明治九年になって信教の自由が保証されるとその異常な状態は鎮静に向かい、寺院も再建されていくのだが、明治になったばかりの一時期は仏式にかえて神式による葬祭を行うように通達が出される有様だった。薩摩藩で廃仏毀釈が徹底されたのは、政治思想上の理由のほかに、大小合わせ千余寺にのぼる寺院を廃して僧侶を還俗させれば十万石に近い軍費と多数の兵員を捻出できるうえ、梵鐘を武器製造にあてると十余万両もの経費を節約できるという、非常時に備える計算などもあったからだという。

廃仏毀釈の命令に反対する動きが少なかった理由としては、薩摩藩における僧侶の地位が他藩のそれに較べてすっと低く、僧籍を剥奪されることにあまり抵抗がなかったこと、表向きは仏教各宗派に属していた民衆の多くが事実上は禁制の一向宗(浄土真宗)を信仰していたことなどがあげられるという。また、薩摩藩の僧侶は特別な場合をのぞいて士族出身者に限られていたので、還俗者には妻帯を許して一家を構えさせ、もとの士分籍に戻すなどの方策が講じられたのも、廃仏毀釈が急速に進んだ理由であったらしい。

坊の岬へと続く半島状地形の根元付近にある坊の街並みをあとにし、漁業で知られる枕崎市方面へと向ってしばらく走ると、車は耳取峠に差しかかった。いっきょに南側の展望が開け、南方海上はるかに、屋久島のものと思われる特徴的な島影が小さく霞むように浮かんで見えた。眼下の海岸とその島影との間に横たわるのは、坊津秋目到着の直前に鑑真らの乗る船を木の葉のごとく翻弄した海である。この日のように風もなく海も穏やかだと、魔性の牙を剥いたときのその姿などとても想像できないが、もともと海というものは慈悲と残忍さとをあわせもつ古代の神々そのままの超越的な存在なのだ。いつの時代も、人間というものは、ある時はその恵みに浴し、またある時にはその残酷さに耐えながら生きてきた。

突然、前方右手に、海に突き出るかのように聳え立つ美しい山影が浮かび上がった。薩摩半島南端の名山開聞岳である。薩摩富士の名に恥じないその秀麗な山容はいつ見ても素晴らしい。この山もまた、古来、航海の目印となって多くの船人を助け導くいっぽうで、力尽きて海中に果て屍となって荒磯に打ち寄せられる無数の人間をも眺めてきた。大二次世界大戦末期には、数多くの若い命が南の海へと消えていくのを見つめてもきた。北西方向二十キロほどのところにあった知覧の基地を飛び立ち、沖縄の海へと不帰の旅立ちをしていった若き特攻隊員たちを、開聞岳はいったいどんな眼差しで見送っていたのだろう。この歴史の証言者は、コニーデ型火山特有の優美な姿で訪れる旅人を魅了しながらも、かたくなに口をつぐんで自らが目にした過去の想い出をけっして語ろうとはしない。
2000年3月22日

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