初期マセマティック放浪記より

48.奥の脇道放浪記(4) 月山と最上川

絵・渡辺 淳


月山と最上川に魅せられて――越後路から庄内平野へ

地図を詳しく調べてみると、農道ないしは生活道路とおもわれるかなり細い道が、山麓や山間部を縫うようにして山北町方面へとつづいているではないか。朝日スーパー林道のスケールにはおよぶべくもないが、それなりには面白そうな道である。脇道狂の我々には、むろん、もってこいのコースだったから、それを見逃す手はなかった。

布部から中野、黒田、関口、北大平と、小集落をつなぐ高原の道の両側には、牧歌的という言葉がぴったりの風景が広がっていた。車窓をつぎつぎに走り去る緑のいのちの一枚いちまいの輝きが実に美しい。なんでもない小川の水の流れまでが異様なまでに澄みきって見えるのも気のせいばかりではないだろう。北大平を経て川沿いに高根の集落にはいるころには、谷がまたかなり深くなった。

高根から山北町方面へ抜けるには、北へのびる林道伝いに、天蓋山と鰈山の鞍部を越えなければならない。すくなくとも標高五・六百メートルの山越えになることは間違いない。谷筋の道に別れを告げた我々は、急斜面をほぼまっすぐにのぼる林道に入った。その道は途中の天蓋牧場付近までは舗装されていたこともあって、ぐんぐんと高度はあがり、展望がいっきにひらけて、遠くの山並みが美しい一幅の水墨画のように浮かび上がった。こんなところまでわざわざやってくる旅人などまずいないだろうが、それにしても、我々だけで眺めるにはもったいないくらいの景観である。

ところが、そんな快適なドライブもつかのま、またもや、前方左手にぎょっとする立て看板があらわれた。大きな字でこれみよがしに、「このさき工事中につきと車両通行止め」としるされているではないか。結局は村上市街までもどらなければならないというのだろうか………。いったんは諦めに近い気分になりかかったのだが、もしかしたらと気を取り直して、とにかく工事現場まで行ってみることにした。

作業現場は天蓋山牧場からすこし奥に進んだあたりで、かなり大規模な道路拡張工事がおこなわれているところだった。工事現場の手前のほうで仕事中の若い作業員に、おそるおそる、通してはもらえないだろうかと尋ねると、奥のほうにいる責任者にきいてほしいという返事である。どうせ駄目だろうなと観念しながら、車を停めてしばらくためらっていると、作業責任者らしい男がこちらのほうに向かって大きく手招きするのが見えた。どうやら、通してやるということらしいかった。

五月三十一日の祟りもここにきてようやくおさまってきたというわけだ。おまえにはもっと祟ってやりたいが、同乗の渡辺さんを巻き添えにするのは申し訳ないから、このへんで勘弁してやろうということになったのだろうか。勝手にそう納得した私は、ともかくもほっとしたおもいで問題の工事現場を通り抜けた。だが、どうやらその読みは甘かったらしい。ずっとのちになって明らかになるのだが、目に見えない祟りの魔の手は淳さんにもとりついていたらしいのだ。

工事現場を過ぎてほどなく、林道は車一台がやっと通れるほどに細く狭いダートとなった。岩肌のむきでた凹凸のひどい道が峠へとつづいている。「乙女峠」というその名を「意地悪婆さん峠」とでもあらためたほうがよさそうな悪路の峠路をのぼりつめると、東方はるかに、なお冠雪を戴く朝日連峰の山々が望まれた。そのたたずまいはなんとも神々しいばかりである。通行止めをくらって引き返した朝日スーパー林道の走る谷筋は、深く黒ぐろとした切れ込みを見せて南北にのび、一部は霧の下に沈んでいる。幻の怪魚タキタロウで名高い秘境大鳥池を懐深くに抱え込む朝日山系の広大さを、我々はあらためて実感させられるおもいだった。

山北町方面へ向けて林道は下りとなったが、狭い路面は相変わらず凹凸が激しく、ところどころひどくぬかった。車もほとんど通ることがないとみえ、道の両側から樹の枝が路上を覆うようにのびだしているところもある。車ごとそれらを押し分けるようにして進みながら、かなり時間をかけて大毎の集落にでた。大毎で再び国道七号に合流し勝本にでてからは、素直に海岸沿いの国道を北上し、山形県に入ってほどないところにある温海温泉へと向かうことにした。岩崎あたりから東の山間部へ分け入る脇道があるのはわかっていたが、あえてその道は選ばなかった。昨夜は風呂にはいれなかったので、今夜くらいは温泉で旅の汗を流そうとかということになったからである。

山形県に入り、鼠ヶ関の海岸付近にさしかかったときには、夕闇が迫り小雨が降りはじめていた。かの松尾芭蕉は、随行の曽良とともに、いまから約三百年前の元禄二年(一六八九年)の旧暦六月二十七日に、温海から村上方面へ向かってこの鼠ヶ関を通過した。彼らが出羽から越後を経て越中へと北陸道沿いに旅したこの時期は、現在の暦では、七月下旬から八月中旬にかけての猛暑の頃に相当している。

奥の細道の越後路の部分に、「鼠ヶ関を越えるといよいよ越後の地で、気分を一新してさらに歩き続け、越中の国の市振の関についた。この間は九日ほどを要したが、猛暑や悪天候のなかをおしての苦労多い旅だったので、気分が悪く憂鬱で、すっかり体調を崩してしまった。だから、道中のことは書かないで終わってしまった」という意味のことがしるされている。よほど大変だったらしいのだが、その間に吟じたのが「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句だったというのだから、おそれいる。

酒田から親不知の難所でしられた越中市振までの旅をわずか数行の文章でかたづけてしまった背景について、実際は体調がひどく悪かったわけではなく、その時代随一の文人が特筆するに値するような名所旧跡がなかったから簡単にすませたのだとか、芭蕉という人物を理解できる人が越後にはすくなく、なにかと不快な思いをしたから省略したのだという憶説もあるらしいが、ずいぶんと越後の人々には失礼な物言いのようにおもえてならない。実際に旅してみると、越後路は変化に富んでいて美しいし、また、今と昔の違いがあるとはいえ、越後の人々の人情はこまやかそのもので、文化に対する造詣も深いからである。

芭蕉ほどの漂泊の精神の持ち主なら、たとえ名所旧跡として伝わるところがすくなかったとしても、そのぶん、かえって先入観なしに未知の越後路の旅を楽しめたはずである。奥の細道のなかにこそ収められてはいないが、「罪なきも流されたきや佐渡ヶ島」という一句などは、そんな芭蕉の精神をなによりもよく物語っている。また、陸奥への旅立ちに際してその心境を述べた、「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という一文もそのことをはっきりと裏づけている。そもそも、自分を理解してくれる人がいないというだけで気分を害して、その地方の旅の記録をはしょってしまうような人物に、あのような崇高な輝きをもつ一連の紀行文を綴ることができたとはおもわれない。やはり、相当に体調が悪かったか、他にそれなりの事情があったのだろう。

ちなみに、芭蕉一行が通ったとおもわれる鼠ヶ関から市振海岸までの道程の距離数を現在の道路地図をもとに概算してみると、ちょうど三百キロメートルほどになる。芭蕉はその間九日ほどかかったとしるしているが、曽良日記などをもとに詳しく調べてみると、実際には十四日を要している。ただ、村上で二泊、直江津で二泊、高田で三泊しているようだから、越後路の旅そのものに要した日数は十日である。芭蕉の記録と一日のずれはあるが、十日で三百キロを踏破したとすれば、一日平均三十キロを歩いたことになる。平均時速四キロで一日に実質八時間近く歩くというこの旅のペースは、異常なまでの高温多湿にくわえて十四日のうちで九日が雨天だったという事実を考慮すると、なかなかのものである。途中四日の休養は、やはり芭蕉の身体の不調を暗示していると考えてよいだろう。

芭蕉一行よりも二ヶ月近く早い緑も爽やかなこの時節に、文明の利器を操って、彼らとは逆に陸奥へと向かって北上する身には当時の旅の苦労などわかろうはずもなかったが、鼠ヶ関を通過しながら、遠い昔の芭蕉と曽良の炎天下の道行きにそんな想像をめぐらせた我々だった。

鼠ヶ関をすこし過ぎたところで車を停めた我々は、夕潮の騒ぐ近くの磯辺に降り立って晩飯の味噌汁の具の調達を試みた。岩を伝い歩きながら水中をのぞき込むと、「若布(ワカメ)」と称するにはいささか年増な感じではあったが、十分食べられそうな「もとワカメ?」がゆらゆらと揺れている。期待通りのことの運びにニンマリした我々は、ほどよい量そのワカメを採取して車に戻った。

ほどなく激しくなった雨のなかを走り抜け、国道からすこし奥まったところにある温海温泉街に着いたときには、あたりはすっかり暗くなっていた。我々は、給油に立ち寄ったスタンドで紹介された共同浴場を探し当てると、なにはともあれ、一風呂浴びることにした。温海温泉街のなかほどにあるこざっぱりした共同浴場には番台がなく、かわりに、一人二百円ずつの協力金を備え付けの箱に入れてほしい旨の貼り紙がしてあった。ふたりあわせて四百円の協力金を投入し弱塩泉の温泉につかると、旅の疲れと緊張がいっきにほぐれるおもいだった。入浴料がわりの協力金が何千円何万円にも値しているかのように感じられ、なんとも満たされた気分だった。

ところが、浴室を出て身体を拭き衣服を着ているあいだに、あることに気がついた。次々に浴場にやってくる入浴者の誰もが二百円の協力金を払う様子がないのである。どうやら、近隣の人々は皆、非協力的(?)にこの共同浴場を利用しているらしい。すでに十分な協力をしてしまった我々は、お互い顔を見合わせながら、ちょっと複雑な気分になった。さきほど払った四百円の協力金が、だんだんと落としてしまった何千円何万円ものお金にも相当するようにおもわれてきたから、人間なんてなんとも勝手なものである。

ともかくも旅の汗を流しおえてさっぱりした我々は、国道筋にはもどらず、温海川に沿って谷をのぼり、温海川ダムサイトの駐車場に車をとめた。時刻はもう八時半をまわっていた。

火をおこし大急ぎで調理して食べた晩飯がわりの冷凍鍋焼きうどんは期待以上にうまかった。そして、鼠ヶ関の磯辺で拾ってきた年増ワカメを具にしてつくったワカメ汁も実にいい味だった。だが、このワカメ汁がなまじいい味だったことが、翌日の珍事につながろうとは想像もつかないことだった。

食事をすませ食器をかたづけ終えたあと、明るいランプを灯して、渡辺さんは一日のスケッチの整理に、私のほうは旅のメモのまとめにとりかかった。一段落つけ、車の窓のカーテンをひいて眠りについたのは十一時半頃だったようにおもう。

翌朝は夜半の雨がうそのような晴天となった。簡単に朝食をおえた我々は、すぐに、楠木峠を通る山寄りのルートをとって鶴岡方面へと走りだした。庄内平野に入るとほどなく、前方には残雪をまとい輝く鳥海山の姿が現れ、車窓右手には、やはり残雪の冠を戴いた月山の大きくのびやかな山影が視界いっぱいに広がった。なんとも雄大な風景である。渡辺さんが急いでスケッチブックを開く気配を察知した私は、それに呼応するかように車の速度を落とし、徐行運転の態勢に入った。

全体的に落ち着いた雰囲気の鶴岡市街を抜け、余目方面に向かう広域農道にはいると、一面に田園風景が広がった。米どころ庄内平野は田植えが終わったばかりで、まだ若い緑の稲が涼風に揺れて美しい。前後から我々をはさむようにして大きく迫る鳥海山と月山の姿は圧巻というほかない。爽快な気分でしばらくアクセルを踏み続けると、そこだけ小高くなった最上川の堤にでた。むろん、我々は車から降りて、それぞれに名高い川と平野と二つの山とが織りなすその景観をこころゆくまで楽しむことにした。そして、憑かれたようにスケッチの筆をとる渡辺さんのかたわらで、私のほうは、雪融け水を満々と湛える最上川の水面に見入りながら、久々にささやかな歌を詠み呟いた。

かなしみの雪をばいまは温かく包み融かして最上川ゆく

実をいうと、いまから十七・八年ほど前の八月末の夕方のこと、私はこの対岸の堤沿いの道を、やはり最上川の水面を眺めながら独りあてどもなく旅していた。大きく真っ赤な夕陽がちょうど西の地平線へと落ちていくところで、西の空とそれを映しだす最上川の川面全体がごうごうと音をたてて燃えさかるような感じだった。その凄じいばかりの夕映えは、この世の隅々で生きる人々の無数の悲しみや苦しみが流れあつまってできた煩悩の大河が、いま浄化の海に還るのをまえにして、天地を深紅に染める巨大な火柱となって燃え盛る光景をも連想させた。

天地(あめつち)にたゆたいめぐる悲しみの流れ燃え立つ夕最上川

この歌はそのときに詠んだものだが、それはそれでうつろい揺れる当時の私の心のうちを反映し象徴していたようにおもう。それにくらべると、この旅で出逢った最上川の姿は、なんとも温かく穏やかなものに感じられた。

再び車に戻り、最上川にかかる庄内橋を渡って余目町から松山町にはいるとすぐに、「眺海の森」と記された案内板が目にとまった。眺望絶佳とうたわれている。一瞬、「鳥海の森」の誤記ではないかとおもったが、どうやらそうでもないらしい。これまで耳にしたことのない地名なので、そのうたい文句にちょっと首をかしげかけたが、ともかく、だまされたつもりで訪ねてみようではないかということになった。
1999年9月22日

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