初期マセマティック放浪記より

104.広見町名物芋炊きの果てに

<奈良川河川敷のでの芋炊き談義>

広見町南部を西から東に流れる奈良川沿いの一帯にはかなりの面積の水田が広がっている。どうやらこのへんは鬼北米と呼ばれる地元米の産地であるらしい。成川の集落で左折した車はほどなく渓谷の続く地帯へと差しかかった。車窓の外の雰囲気から察するとその付近から上流の谷筋が成川渓谷のようだった。渇水期には水は伏流となって流れるらしく川床は乾いていたが、長い歳月をかけ水の力によって磨きあげられた川底の岩肌は見るからに艶やかで美しい。

次第に深くなる渓谷をどんどん奥まで遡るうちに再び水流が現れた。そして、我々の乗る車はそこから先は山道をかねた遊歩道という地点で停止した。大きく平らな岩盤が幾重にも小さな段をなして連綿とつらなる広い川床があって、その上を文字通り滑るようにして澄みきった水が流れている。上流から下流に向かって川床がほどよい傾斜をなしているため、清流が花崗岩質の岩肌をそっと撫でるようにして滑り落ちているのだ。もちろん、この水はそのまま飲んでも差し支えないだろう。私は一人川床に降りたって水流に手を差し入れ、その冷たく爽やかな感触をこころゆくまで楽しんだ。渓谷の両側は檜の巨木や各種の広葉樹の繁り聳える森林に覆われており、それらもまたこの渓谷の美しさを演出する重要な要素の一つにになっている。付近にはキャンプ場も設けられていて、そこで夕餉の準備をしているらしい人影もちらほら見うけられた。

この成川渓谷を詰めあげたところには高月山という千三百メートルほどの山があって、その山の向こう側には同じく四万十川の小支流である目黒川が流れている。そして、この目黒川の上流にはやはり美しい花崗岩の川床と清流で知られる滑床渓谷があって、成川渓谷と共に南北両側から高月山を挟むかたちになっている。成川渓谷も滑床渓谷も河床を形成する岩質と岩盤の構造がほぼ同じだから、似たような渓谷になっているのだろう。

我々が車を停めた場所から少し下ったところには広見町営の高月温泉と成川渓谷休養センター(0895-45-2639)があって、宿泊のほかに温泉の日帰り入浴もできるようになっていた。入浴にやってくる町民に混じって我々四人も温泉につかったが、湯加減もよくなかなかに快適でいまにも鼻歌の一つも出てきそうな感じだった。湯船の中に入舩さんと並んですわりながら成川渓谷周辺についていろいろと話を伺ってみたが、意外なことに、かなり温暖そうにみえるこのあたりでも冬場には結構雪が積ることもあるらしかった。成川渓谷周辺では良質の檜材や柚子さらには自然薯なども産出されるということだったが、それらの産物の品質の良さもこの地の特別な地形や気候となにやら関係があるのだろう。成川周辺にかぎらず広見町全域で産出される自然薯は鬼北自然薯といって味と質がとくによいことでも知られているという。

成川渓谷を後にした我々は再び広見町役場へと戻った。そして、役場のすぐ脇を流れる奈良川の河川敷へと案内された。夕暮れの迫ったその河川敷の一角には大きなシートが何枚も並べ広げられ、広見町役場関係者を中心にした三十人くらいの人々が、この地の名物行事である「芋炊き」を行っているところだった。この芋炊きという行事は八月中旬から九月末頃までの間にこの河川敷に地元の人々が思いおもいに集まって催すのだそうで、もっとも盛り上がるのは九月半ばの頃らしい。我々が広見町を訪ねたのは八月下旬の平日のことだったから、この日芋炊きをやっているのは役場関係の人々のグループ一組だけだった。どうやら三嶋さんと私がまたまやって来ているというので、急遽この日の夕方に芋炊きをやろうということになったらしい。

入舩さんによる簡単な紹介が終わったあと、我々二人もそのなかに加えてもらった。ぐつぐつと煮たつ目の前の鍋からはなにやら美味そうなかおりが漂ってきている。三嶋さんのほうはいっきにアルコールシャワーの世界へと突入していったが、アルコールシャワーにあまり耐性のない私のほうの関心は、もっぱら芋炊きのという行事名のもとにもなった鍋の中身のほうへと向けられた。

私は企画調整課所属の岩本純子さんという感じのいい中年女性と隣合わせになった。この岩本さんが小皿にのせてまっさきに出してくれたのは、茹で上がった一匹の美味そうなカニだった。この一帯の清流に多数生息するモクズガニという川ガニらしい。甲羅をはがしちょっと黄色みを帯びた身を口にすると想像以上に美味であった。小振りのカニだが味付けもしっかりしているせいで、細めの足をかじっても口の中にじわっとうまみがしみだしてくる。時期的にはもう少し先のほうが身の入りも味もよくなるとのことだったが、初めて口にする者にとっては十分なうまさだった。

岩本さんが次に取り皿にのせて差し出してくれたのは、芋炊きの真打ともいうべき、サトイモ、コンニャク、タマゴ、カシワ、アツアゲなどの煮物だった。ベースになるのは地元でとれたばかりの新鮮なサトイモと地鶏の肉で、それに皆が持ち寄ったやはり地元産の各種自然食材を加え、その場でじっくりと煮込む。地鶏はよいダシが十分にでる老鶏をつかうのだという。もともとは、地元の人々が各々有り合わせの食材をもって河川敷に集まり、それらを煮込んでつくった熱々の鍋をつつきながら酒を酌み交わし親睦をはかる行事だったようだが、近年は観光客をはじめとする町外の人々の参加も目立つようになってきているらしい。

これまた地元産の各種天然調味料をふんだんに使って煮込まれたサトイモ、コンニャク、アツアゲ、タマゴ、そして地鶏の肉は、いずれ劣らぬうまさであった。その味が抜群に素晴らしかったのは、隠し味としていまひとつ広見町の人々の「人情」という特別調味料が配されていたせいでもあったろう。三嶋さんはとみると、もうすっかり出来上がっている感じである。しらふ時にはそれなりに複雑な三嶋さんの頭の中の人生地図もいまはトポロジイ図形なみに歪み変化し単純化されて、酒印マーク一個のみがかろうじて明滅するだけの状態になっているに違いない。

宵闇が深まるにつれて芋炊きの場は大いに盛り上がり、私は企画調整課長の芝田正文さんのほか、広見町農業公社の設立に関わった高田洋一さん、さらには何人かの若手職員の人たちと共にいろいろな話をすることができた。そのなかで特に心に残ったのは広見町役場の人たちが皆なかなかの識者揃いで、創造力も知的好奇心も学習意欲も大変に旺盛なように見えることだった。また、彼らが真剣に広見町の将来の発展を考え、真に一般町民と一体化した行政の展開を心がけるように努めているらしいこともたいへん印象的だった。この町の具体的な生産事業の展開状況については翌日見学させてもらうことになっていたが、その背景にこれら役場職員の強力なリーダーシップが存在しているだろうことは明かだった。

豊かな自然と営農環境に恵まれたこの広見町でも過疎化が進み、近年の農林業従事者数の減少は著しいという。役場に立寄った時にもらった資料中の産業統計表は如実にその激減ぶりを物語っていた。農林水産業などの一次産業従事者数は、加工業やサービス業などに就いている二次・三次産業従事者を合わせた全産業従事者数の五分の一強に過ぎない。芝田さんや高田さんの話によると、町内で百パーセント営農で生計を立てている農家はいまではわずか数戸なのだという。統計的には農林水産業従事者の数は千二百人を超えているがほとんどが兼業であるらしい。

この町の恵まれた営農環境からすれば、農業によって一戸につき最低でも年間三百万程度の純益は見込めるのだそうだ。都市部と違って住居費や生活費はほとんどかからないから、その気になればそれなりに豊かで安定した生活を送ることができるはずだという。地元で産する肉類や野菜類はむろん、漁港のある宇和島までは車でひと走りだから魚介類だって新鮮で安いものがいくらでも手に入る。したがってとても生活はしやすい。だが、いずこも同じで、いったん離農した人が再び郷里に戻って農業に復帰した例はこれまでのところほとんどなく、農業人口は過去減少の一途をたどってきたのだという。

しかし、いま、入舩さんや芝田さんや高田さんらをはじめとする広見町の人々は、町内の豊かな自然環境を現代的観点から十分に活用することのできる時代に即した新たな農業の展開を立案し、積極的に推進することを考えている。バブルの時代が完全に昔日のものとなり都市集中型の経済や文化の前途に大きな翳りが見えはじめた現在、地方文化や地域経済の復権は絶対に必要かつ必然のことだから、それを先読みした農政や文化行政の実現を目指すのは自分たちの責務だと彼らは熱く弁じ、聞き手の私に強く激しく訴えかけてきた。実際、彼らは、いま少し時代が移れば自然に恵まれた広見町での農業生活の素晴らしさを再認識する人々が増えてくるだろうと確信しているようでもあった。近年、都会生活を捨て田舎暮らしを始める人があとをたたないが、そんな人々にとってはこの愛媛県広見町などは理想的な移住先の候補の一つではないかと思われた。

この芋炊きの席で初めてその存在を知ったのだが、広見町に設立された社団法人広見町農業公社は全国的にもきわめてユニークな存在といってよいだろう。この公社は、過疎化や農業従事者の高齢化に伴う生産活動の停滞や優良農地の耕作放棄、農業後継者不足といった問題の解消、農業機械への過剰設備投資による経営危機農家の救済、食糧の安定的な生産供給態勢の維持、さらには自然環境や生態系の保護などを目指して設立された。具体的には、農作業の受委託や農地の管理保全の代行、農業後継者の育成と研修、農業施設および農業機械の貸し付け、地域資源を活用した農業特産品の開発と販売、都市と農林業地域との交流促進といったような事業をおこなっている。モデルケースとも言うべきこの公社の事業が成功を収めれば、同種の公社の設立と活動が全国的に普及していくことになるだろう。

芋炊きの由来について始まり広見町の農業問題へと移った我々の話は、最後には数学や宇宙論の世界の話題にまで発展していった。しかも、皆が皆、一昔前の未来を夢見る少年たちのようにこのうえなく熱意に満ちみちていた。ムチャクチャと言えばこれほどムチャクチャな話もなかったろうが、これこそが芋炊きというこの地ならではの親睦行事の醍醐味とも言うべきであったのだろう。私自身この芋炊き行事の現場にやってくるまでは、まさか四万十川源流域の河川敷で鍋料理をつつきながら数学や宇宙科学の話をすることになろうとは夢にも思っていなかったから、なんとも不思議な気分であった。ただ、よくよく考えてみると、そんな熱意と思考の柔軟さが町役場の人々の中にあればこそ、この町は他の町村にはあまり類例を見ないような独自の事業展開ができているのではあろう。

<広見町の夜は更けて>

芋炊きの席をあとにした我々は、こんどは広見町北部、広見川沿いの集落にある「吟ちゃん」という小料理屋に場所を移し連チャンの飲み会をやることになった。もっとも、我々とはいっても飲み会で地元酒豪たちとの決闘の前面に立つのは三嶋さんだから、私のほうはその陰に隠れて出される料理などに舌鼓を打っておればよいという寸法だった。アルコールの回っていない私はいったん自分の車に戻り、宇和島市から芋炊きの場に駆けつけてきた上田さんというこれまた三嶋さんの知人のナビゲーションにしたがって目指す小料理屋に移動した。

東京理科大出身で現在宇和島市で製函業を営んでいるというこの上田さんもなかなかにユニークな人物で、広見町の人々との交流もずいぶんと深いようだった。あとになってわかったのだが、すっかり暗くなっていたにもかかわらず、いつのまにか初対面の私の車のタイヤを調べ、その摩滅状態を厳しくチェックしていたらしい。そのなんとも風変わりな視点の取り方にこちらは唯々驚き恐れ入るばかりであった。すっかり正体のなくなっている三嶋さんの四国でのネットワークがどうなっているのかは知らないが、まさに多士済々済というほかはない。

小料理屋「吟ちゃん」の親父さんもまた一本筋の通ったなかなかの人物という感じがした。独自の審美眼と人生観を奥に秘めたこの親父さんも、どうやら三嶋洋ならびに広見町人材ネットワークの有力メンバーであるらしかった。親父さんが生簀の中から取り出したばかりのウナギをさばき、心を込めて作ってくれた蒲焼は美味いばかりでなく、なんともいえない遠く懐かしい味がした。鹿児島の離島での少年時代、ミミズやドジョウを餌にしてウナギの穴釣りをさんざんやり、釣った獲物を自分でさばいて食べていた私は、一瞬昔にワープしたような気分になったからである。

三嶋さんが入舩さんらと底無しの飲み比べを続けている間、私は隣に座った企画調整課長の芝田さんと話し込んでいた。昔私が関わっていたことのあるコンピュータ教育や数学教育がらみの専門的な事柄などを先方から問い求められるままに話していたのだが、芝田さんの熱意と感性の鋭さには内心関心するばかりだった。どちらかというと理知的で抑制のきいたタイプの芝田さんはダイナミックで人情家タイプの入舩さんとは対称的な存在で、よきライバルとも言えるこのお二人の課長さんは、広見町の行政を推進する実質的な両輪に違いないという感じがしてならなかった。

最後に我々は翌朝訪ねる予定になっている安森洞という鍾乳洞の近くにある宿泊所に案内された。人里離れた山奥にある広見町所有の広い一軒家だが、三嶋さんも私も自然が豊かで風変わりなところが好みだというわけで、久しく使われていないらしいこの家屋に泊まらされることになったのだった。宿泊所到着後も三嶋さんは広見町の酒豪連相手に夜明けまで続きそうな勢いで酒闘を繰り広げていたが、午前零時が近づく頃にはさすがに疲れがきたとみえ、そこでようやくお開きとなった。

三嶋さんはすでに前後不覚の状態である。我々二人だけを残して広見町の関係者が皆引き揚げていったあと、私は押入れから適当に布団を引っ張り出して敷き、まずはそこに三嶋さんを寝かせた。彼はもうこのまま翌朝までは正体なく眠り続けるに違いなかった。自分の布団を敷き終えてから私はいったん屋外に出て裏手にあるトイレに入った。そして用足しを済ませたが、困ったことにどう工夫し何度チャレンジしてみても例のモノが流れ落ちてくれない。長い間誰も使っていない関係で便器の調子が悪いのだ。

やむなく私はいったんトイレから出て棒切れを探し出し、もう一度便器に近づいて無理やり目の前の物を穴の中に押し込んだ。見かけ上はなんとか格好がついたものの穴は詰まったままだから、もしもこのあと誰かが使おうとしたら途方に暮れることは請け合いである。トイレが二個あったから、朝目覚めた三嶋さんがその被害者になる確率は二分の一ではあったが、それは彼のウン次第とばかりに素知らぬ顔をして放っておくことにした。

すだく虫の音を聞きながら再び屋内に戻り、歯を磨こうとおもって土間の奥にある流しにいくと、小さなムカデがうごめき、蛾が飛びまわり、蜘蛛が這い回っていた。うーん、なるほどこりゃ確かに自然が豊かだわいなと思いながら、流しの水道の蛇口をひねると排水口の付近でなにやらもの音がするではないか。なんだろうと思って濾過装置部の金蓋をはずして中を覗くと、そこには一匹の大きなトカゲが鎮座ましましていた。人の気配を感じてそこに逃げ込んだはいいものの出るに出られなくなって往生していたところらしい。

じっとその顔をみつめるとなかなかに愛嬌のある顔をしている。昔おまえの同属の尻尾を切って遊んだことがあるから、その罪滅ぼしにここは俺が助けてやるかと、手掴みにして外に出し逃がしてやった。龍之介の蜘蛛の糸の話ではないけれど、ここでトカゲに恩を売っておいたから、先々たとえ地獄に落ちたとしてもトカゲの尻尾切りの恩恵に預かって、閻魔様の追及の手を逃れることができるかもしれない。そんなことを考えながら歯を磨き終えた私は、旅の疲れを癒やし、明日の見学に備えるべくようやく床に就いたようなわけだった。
2000年10月25日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.