初期マセマティック放浪記より

100.奥三面元屋敷遺跡

完成を目前にした最終工事の行われているダムサイドには進むことができないので、ハンドルを右に切り、奥三面の谷間へと降りていく急傾斜の道へと入った。眼下左前方には、ほどなく水底に沈む深々とした奥三面の谷間が広がっている。そしてその谷底の中心部を縫うようにして谷奥のほうへとのびているのが三面川だ。谷底一帯や新たな道路工事が行われている反対側の山腹の高所では、工事用のダンプカーやブルドーザ、クレーン車などがまだ忙しそうに動きまわっているところだった。

谷底のほうへとかなり下っていったところで車を停め、なにげなく左手後方を降り返ると、高さ百十六メートルに及ぶ奥三面ダムの威容が目に飛び込んできた。まだ三面川の水路が閉鎖されてはいないから、全壁面が手前側へと弧状にせりだした放物線型アーチダムの全容が基底部まではっきりと見てとれる。相当に離れたところからダムの大壁面を見上げるようにして眺めているせいでその大きさはいまひとつ認識しづらいが、ダム直下の水路付近で作業をしているダンプカーの大きさと較べるといかに巨大かが実感できる。それにしても、ほどなく水没するはずの巨大ダムの湖底部を直接に目にするというのはなんとも奇妙で複雑な思いのするものだった。

ダム本体を眺め終えると、何台かの工事関係の車とすれ違いながら道なりに谷の底へと降り、いったん三面川にかかる橋を渡ってから上流方向へと車を走らせた。進行方向左手の山腹では新しい道路の建設が進められている。その見上げるような高所を走る新道がやがてうまれる巨大な人造湖の周回道路になるというわけだ。むろん、いま車で走っているあたりは新造湖の最深部になってしまう。

それにしてもなんという変わりようだろう。まだ若かった時代のことではあるが、山歩きが好きだった私は、山形県朝日村や朝日町側から入山し、毛穴山、以東岳から朝日岳へと連なる朝日連峰主稜を越えてこの新潟県岩船郡朝日村奥三面の集落に下山したり、その逆コースをとって山形県側に抜けたりしたことがある。かつてこの奥三面の集落や谷々一帯は、春ならば花の静寂境、夏ならば緑の秘境、秋ならば紅葉の幻想境、そして冬季ならば白銀の魔境とでも呼ぶにふさわしいところであった。三面川を流れる水も、さらにはその主流に向かって四方八方から注ぎ込む大小の渓流も信じられないほどに青く美しく澄みきっていた。その谷ではゆったりと時間が流れ、そこに住む人々は言葉こそ少なかったが心優しく、その一挙一動は不思議な確信にあふれていた。

いまその美しかった谷の両側は奥のほうまで無残に削り取られ、湖底に沈む部分の樹木はほとんど切り尽くされて、昔の奥三面の面影はもはやどこにも残っていない。三面川両岸一帯の河岸段丘上の平地にはブルドーザやキャタピラ車が縦横に走りまわった跡が深々と刻まれ、ダンプを通すための工事用道路が、まるでこの谷の自然の息吹に最後の止めを刺すとでもいわんばかりに刻み設けられている。むろん、あの心優しかった山人たちの姿などどこにもあろうはずはない。

複雑な思いに駆られながらしばらく谷奥へと向かって走ると、左右に道が分岐する地点に出た。左手の道は赤滝や岩井又沢のある三面川源流域方面へ、右手の道は支流の末沢川渓谷沿いに進んだあと、西朝日岳から大きくのびる尾根を越えて小国方面へと続いている。この道路の分岐点の左手河岸段丘上に旧奥三面集落はあったのだが、ブルドーザで削り踏みならされていまではその面影はどこにもない。住民が立ち退いたあと行われた発掘調査により、このあたりからも縄文期の遺跡や遺物が発見されたらしいのだが、もうそれらの出土現場を見ることはできない。時間をかけて周辺を詳細に調査をすれば、もっと様々な発見があるだろうと言われているが、ほどなく水没するとあってはもはやそれも不可能である。

私は左手に分岐して三面川源流方面へと向かう道に入り、今月二十四日までは一般の見学者にも公開されている元屋敷遺跡に向かうことにした。むろん、この一帯の道路も遺跡共々水没し湖底の一部になるわけだから、湛水の始まる今年十月二日以降は当然通行不可能になってしまう。車は頭上はるかなところに架る工事中の大橋梁の下を通りぬけ、特別につけられたダートの道伝いにもう一度三面川を渡り、道の尽きるところにある小高い河岸段丘上の平坦地へと出た。この段丘こそが奥三面で発見された最大の縄文遺跡群のある元屋敷だった。

実を言うとこの日の私には一人の同行者があった。まだ二十代半ばの若い女性のAさんである。ある外資系の会社に勤める彼女は、小柄でとても魅力的な女性なのだが、芯も強く男勝りの行動力とチャレンジ精神を合わせ持っている。近々奥三面に行くという話をすると是非とも同行したいというので、東京からこの地へと向かう途中、那須で彼女を拾ってきた。前日は猛烈な雷雨の中、全身ずぶ濡れになりながらも独りで那須周辺の山歩きを楽しんでしていたというから、なんとも見上げたものである。

我々二人は車から降り、不思議なほどに静まりかえった遺跡の前に佇んだ。すこしばかり前にこの元屋敷遺跡を訪ねたときには、たまたま休日だったせいか相当数の見学者の姿が見られたが、この日は月曜日だったこともあって周辺には我々以外に人影は見当たらなかった。眼下の三面川対岸を走るダートの工事用道路をときおりトラックが騒音をたてながら通り過ぎはしたものの、遺跡群のあるあたりはなんとも静かなものだった。我々が現地を訪ねたのは十月十八日であったが、それから一週間後の二十三日から二十四日にかけて遺跡のライトアップが行われ、専門家たちによる最後の遺跡見学説明会が開かれることになっているという話が信じられないくらいの静けさだった。

ダム工事にともなう発掘調査のために表土を剥ぎ取られて長年の眠りから覚め、それもつかのま、今度は剥き出しのまま水底に没められてこの遺跡は再び永遠の眠りにつく。もしもこの遺跡群の墓所のどこかにいまも古代人の霊が棲み宿っていたとすれば、それら
の魂は身勝手な現代人というものの姿をどのように考えることだろう。

深い想いに耽りながら立ち尽くす我々二人の眼前には、外周を低いロープで無造作に囲われた元屋敷遺跡が、縄文人の無言のメッセージを深く秘め伝えるかのごとくに広がっていた。無数の竪穴式住居跡が、二重三重の複雑な凹凸をなしてどこまでも続いている。縄文期という時代を考えれば、それはまれにみる大集落だったといってよい。青森の丸山三内遺跡に匹敵するくらいの縄文遺跡群だといわれるのもけっして誇張ではないだろう。

おびただしい数の大小の竪穴の縁やその周りの表土には、よく見ると隈なく鋲が打ち込まれていた。むろん、専門家が遺跡調査の際測地の目印として打ち込んだものである。特別な竪穴などは特殊な石膏様のものを用いてその縁をまるく縁取り固めたりしてあった。基底や側面に多数の石が重ね並べられている竪穴もあった。素人の我々にはわからないが、その道の専門家ならこれらの竪穴群の配列や構造を見ただけで当時の集落の様子を的確に想い描くことができるに違いない。水没に先だって詳細な調査が行われ、石器や土器、骨角器などの貴重な出土物が他所に設けられた遺跡調査室に移されているのはせめてもの救いであるといってよい。それらの出土品はいずれ一般公開される予定であるという。

この元屋敷遺跡は河岸段丘の地形に即して大きく二段にわかれている。竪穴式住居群跡の広がる下段と墓所や祭祀跡らしいもののある上段とを隔てる急な崖下の通路伝いに歩いて行くと、いまもなお澄んだ水がこんこんと湧き出している大きな泉のそばに出た。二万五千年以上にわたって湧き続けてきた泉である。水中に緑の水草と水苔の茂るその泉に二人で並んで手をつけると、冷たいなかにも命の鼓動を感じさせる不思議な感覚が伝わってきた。この地に住んだ縄文の人々は、むろんこの泉の水に支えられて生きてきたに違いない。その泉のそばから竪穴式住居群跡のあるほうへと本来の流路とは異なる細い水路が切られているが、どうやらそれが我が国では初めての発見だという古代の河道(水路)付け替え工事の跡であるらしい。

下段の遺跡群を左手に見ながらいちばん奥のほうへと進むと、すぐ脇に「配石墓」と記された立札のある楕円型の穴が現れた。それとはっきりわかるように石膏様のものでやはり穴の周囲が白く縁取り固められている。すぐそばに近づいて中を覗いてみると、楕円型筒状の深い穴の側面は大きめの玉石を丹念に積み上げて造った石壁でしっかりと固められていた。確かに人ひとりが埋葬されるに十分なほどの大きさがある。周辺には同様の配石墓と思われる穴がかなりの数並んでいた。小さめの穴は子供でも埋めた墓跡なのだろうか。少し離れたところには環状列、いわゆるストーンサークルらしいものも見うけられもした。

遺跡の上段部分にのぼってみると、そこには下段の平地以上に広々とした平坦地が広がっていた。典型的な河岸段丘の最上部であることがよくわかる。そこにもかなりの数の配石墓跡、あるいは何かの祭祀跡か貯蔵庫跡かと思われる大小様々な形の穴が相当な数散在していた。調査発掘されたそれらの穴の側面はやはりほとんどが大きな玉石を積んで固められている。もしも大きな穴のほうも配石墓だったとすれば、それは集合墓だったのかもしれない。

上段の平地の端に立って下段の竪穴式住居群跡や配石墓跡を眺めやると、それらが想像以上に大きな遺跡であることもよくわかった。それにしても、縄文集落における住居と墓地とのこの異常な近さはいったい何を意味しているのであろうか。まさに住墓隣接なのである。他界した先祖の霊に対する縄文人の畏敬の念の深さや心的関係の濃密さは、現代人の想像をはるかに超えるものであったのだろう。

かなりの時間が経ったけれども依然として新たに人が訪れてくる気配は感じられなかった。我々はすぐ眼下の遺跡群やその向こうを流れる三面川の流れを見つめながら、しばしそれぞれの想いに耽っていた。

縄文時代の少年たちはどんな未来を夢見ていたのだろう?……この山奥の谷に生まれほとんどはこの谷において生涯を終えていったに違いない彼らにとって、世界とはどのようなものであったのだろう?……他地域の縄文人との交流や交易のためにこの谷を出て行く者はどのようにして選ばれたのだろう?……彼らのうちのどれほどの者が無事に戻ってきたのだろう?……他部族との婚姻はどの程度認められたのだろう?……不思議な時間の流れるこの空間にあって、そして縄文人の誰もがまさか水没するとは想像もしなかったこの聖地の最後を前にして、我々の胸中に渦巻く複雑な想いはとどまるところをしらなかった。

元屋敷遺跡をあとにした我々はすぐ近くの三面川の河原に降りてみた。流域の様子は変わり果ててしまっていたが、黒く艶やかな粘板岩や黄緑色の砂岩質の岩盤からなる川床を流れる水は昔と同じように澄みきっていた。この水はそのままでも飲める。きらきらと輝き揺れる水面に小石を投げて水切りを楽しんだあと、我々は湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作り、コーヒーを入れて簡単な食事を取った。

車に戻った我々は三面川のさらに奥のほうを探索してみることにした。三面川の上流方向左手の岸沿いには細いダートの旧道があって、それはさらに奥のほうへとのびている。工事車専用道の表示があったが、その表示を無視してしばらく走ると川の脇の開けた場所に出た。その地点の少し下流には小さな堰があるため、その上流側は透明な水を満々と湛えた広く大きな淀みになっている。岸辺にはショベルカーで砂を採取した跡があったが、川床は綺麗な砂地になっていて深さもほどよく流れも穏やかだったから、泳ぐ気になればすぐにも泳げる感じだった。むろん付近には岩魚も棲んでいる。

この大きな淀みのすぐそばの高みに三面川を跨いで対岸に通じる一本の木製吊り橋が架っているのだが、現在は廃橋になっており、その渡橋口はススキや蔓草、潅木類などによって深々と覆われてしまっている。もともとは奥三面の人々の生活に欠かせない重要な吊り橋で、知る人ぞ知る存在だったのだが、この廃橋もまたほどなく水没する運命にある。昔この橋を渡ったことのある私は、それが特殊な構造をそなえていて、たとえ男の身であっても渡り切るにはそれなりのコツと度胸が必要であることを知っていた。だから半ば冗談のつもりで、Aさんに向かって「あれを渡って見ようか、あなたなら渡れるかもしれないよ」と誘いをかけてみたのだが、臆すると思いきや、なんと彼女はやるき満々の表情を見せた。こうなったらもうその吊り橋の最後の渡橋者になるべくチャレンジしてみるしかなさそうだった。
2000年9月27日

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