松本市の中心部を抜けて美ヶ原方面へと向かう途中、松本城の近くを通りかかったので、久々にその天守閣に上ってみることにした。今からおよそ四百年前、文禄二年から三年(一五九三年~一五九四年)にかけて天守閣が築造されたという松本城は、姫路城、彦根城、犬山城と並んで国宝に指定されている数少ない城の一つである。小ぶりながら昔のままの平城の構造をほぼ完全なかたちで残しており、歴史的建造物としてのその資料価値はきわめて高い。
頭を梁にぶつけないように注意しながら、ひどく傾斜の急な狭い木造階段を何度も繰り返し上っていくと、厚板張り、方形の見晴らしのいい天守閣へと到る。大気の澄んだ日などには、天守閣の四方の格子窓から、松本の街並みはいうに及ばず、常念岳をはじめとする北アルプスの山々や、鉢伏山、美ヶ原方面の山並みなどを一望のもとにおさめることができる。
戦乱時の篭城をも想定して築造されたこの城の壁面には、鉄砲狭間(てっぽうさま)や矢狭間(やさま)と呼ばれる正方形や長方形の壁穴(銃眼や射矢口)が、各層にわたって多数設けられている。当時すでに火縄銃が主要な武器となっていたこともあって、各階層の壁面は、敵の銃弾に耐えられる厚い塗り込め壁に仕上げられているという。城を取り巻く堀の幅なども当時の鉄砲の性能を考慮して決められているらしい。よくよく考えてみると、たとえどんなに防御に工夫を凝らした城であっても、その防御設備が役立つのは、結局、戦況が城を守る側にとって不利なときである。いったんそんな状態に陥れば、城全体が無傷ですむということはまず考えられなかったことだろう。築城後も直接戦火に巻き込まれることなく、いまもなお昔ながらの姿を留めている松本城は、幸運な城の一つであったと言ってよい。
もっとも、この美しい城にも一度だけ存亡の危機があったらしい。明治維新当時、日本各地で廃城やそれに伴う城の移築解体が相次ぎ、そんな時流の中でこの松本城もいったん民間に売りに出されかけたのだという。幸いなことに、その折、松本市民を中心とする多くの人々の間に熱心な保存運動が起こり、城の保存費用の調達に成功、そのお蔭で松本城は貴重な歴史建造物として現在に至るまでその姿を残し伝えられることになった。
ところで、この松本城内においてはいまひとつ意外なものを目にすることができる。「松本城鉄砲蔵」と呼ばれる、各種の種子島銃並びにそれらに関する貴重な歴史文献のコレクションがそれである。このコレクションを松本市に寄贈した赤羽通重氏の名を冠して、「赤羽コレクション」などとも称されているようだ。松本城の見学者は、城の入口から天守閣へとのぼる途中と、天守閣から出口へとくだる途中で、自然にそれらの展示資料に目を通すことができるようになっている。こんなところで国内でも第一級の種子島銃関係の展示資料を見ることができるとは、初めての訪問者などは想像もしていないから、その見事なコレクションを前にして少なからず驚かされることになる。
久しぶりにこの種子島銃の展示資料を眺め歩くうちに、種子島銃についてはほとんど知識など持ち合わせない身であるにもかかわらず、この日は不思議なほどに想像力を掻き立てられた。個人的な旅と取材を兼ねて種子島宇宙センターを訪ね、そのついでに、初めて我が国に鉄砲を伝えたポルトガル人らの乗る船の漂着した浜辺にも立ち寄ってみたりしたが、これまでその歴史的意義や鉄砲が果たした役割についてあまり深く想いをめぐらすことはなかった。せいぜい、長篠の戦いで三千挺の火縄銃をそなえた鉄砲隊と特殊な構造をもつ野戦陣地を巧みに駆使し、織田、徳川の連合軍が武田の騎馬軍団を打ち破ったという史話を、頭の片隅に辛うじて留めていたくらいのものである。
しかし、どういうわけか、この時ばかりは自分でも意外なほどに連想力がはたらいた。ひとつには、たまたまこの日の見学者が少なかったこともあって、あれこれ想いを馳せながら、じっくりと展示資料を眺めることができたせいでもあろう。これからその折に考えたことを少しばかり書いてみようと思うが、あくまでも素人の想像力と直観に基づくかなりいい加減な推測だから、軽く読み流すつもりでお付き合い願いたい。
種子島の最南端にある門倉岬直下の砂浜(現在は荒磯に変わっている)に漂着したポルトガル人たちによって、初めて我が国に鉄砲が伝えられたのは、天文十二年(一五四三年)のことである。ポルトガル人たちは半年ほど種子島に滞在したといわれているが、領主が彼らから入手した火縄銃を手本に、種子島の刀工、八板金兵衛(清定)は、翌年の天文十三年には早くも自力による鉄砲の製造に成功した。当然、鉄砲伝来の噂は日本本土各地に広がっていったが、驚くべきはその情報伝達の速さと、その直後に各地の刀工たちがみせた鉄砲製造技術の習得における異常なまでの熱意である。
展示されている資料によると、鉄砲伝来のニュースはほとんど時を同じくして堺を中心とした畿内一帯に伝わり、翌天文十三年には、もう、紀州根来寺の刀工芝辻清右衛門や堺の刀工橘屋又三郎が鉄砲製作技術習得のため種子島に派遣されている。その年のうちに根来寺に戻った芝辻は刀工集団を率いて鉄砲の製作を始め、橘屋のほうも鉄砲伝来から二年後の天文十四年には堺に戻り、刀工たちを動員して大量の鉄砲製作に着手している。
種子島領主は、むろん本土の薩摩藩島津家へも鉄砲に関する情報を伝えたようであるが、その情報が薩摩藩内でそれほどに重要視されなかったふしがあるのは、当時の薩摩藩は相次ぐ藩内の内紛を鎮めるのに手いっぱいで、鉄砲どころではなかったからなのかもしれない。武器としての鉄砲の威力というものが、まだ藩の上層部に十分理解されていなかったこともその理由の一つではあったのだろう。
薩摩藩もほどなく領内の刀工たちに命じて鉄砲の製造を行ってはいるが、鉄砲伝来の初期の段階において情報を独占するには至らなかったようだ。のちの徳川時代などにおいては徹底した情報管理で知られた薩摩藩のことである。鉄砲の重要性に対する同藩の認識が不十分であったという背景でもなければ、種子島領主が畿内から鉄砲技術習得にやってくる刀工らを容易に迎え入れたことも、薩摩藩が鉄砲に関する厳格な情報規制を行わなかったことなども、簡単には説明がつかないように思われる。
しかし、たとえそのような背景があったにしても、鉄砲伝来とそれに伴う諸々の技術情報が当時としては異例の速さで近畿一帯に伝わったのは、いったいなぜだっだのだろう。種子島から九州本土各地、さらには中国地方各地を経て畿内へという陸路沿いの長大な伝播ルートをついつい想像してしまいがちだが、当時の交通事情や群雄割拠の状況を考えるといまひとつ腑に落ちない。そんな疑問を抱きながら、その後鉄砲製造の中心地となった地方を示すした日本地図をじっと眺めているうちに、急にあることに思い当たった。
台湾沖から琉球、奄美諸島の東側を進んだ黒潮本流は、種子島南端の門倉岬の沖合いを北東に向かって通過し、太平洋へと流れ込む。鉄砲を伝えたポルトガル人たちの乗る船が、難破寸前の状態になりながらも辛うじて門倉岬付近に漂着したのは、まさに暖流黒潮のおかげだったと思われる。ところでこの黒潮だが、門倉岬を中心とする種子島東南端をかすめるように通過したあと、いっきに紀伊半島の潮の岬沖から熊野灘一帯に到達する。かつて種子島を訪ねたとき、同島東南部にある「熊野海岸」に佇んでその沖合いを流れる黒潮の行方に想いを馳せたことがあるが、地図を見ればすぐわかるように、この熊野海岸から紀伊半島の熊野沖までの直線距離は意外に短い。黒潮に乗ればひといきなのである。
熊野という双方に共通した地名は、黒潮を介して行われた紀伊半島と種子島間の古代からの交流の深さを偲ばせる。遣唐使船関係の文献などを調べてみると、揚子江下流域から出帆し薩摩の坊津を目指した復路の遣唐使船が、嵐に遭って操船不能に陥り太平洋側に流され、紀伊半島の海岸に漂着した事例なども記録されている。もちろん、当時の人々に「黒潮」などという概念は無縁ではあったろうが、少なくとも一部の舟人たちは、うまく潮の流れに乗りさえすれば、種子島から紀伊半島までの船路はひといきに過ぎないことを経験的に知っていたに相違ない。
まして、種子島に鉄砲が伝来した一五四三年頃ということになると、遠洋航海技術はともかくとしても、我が国の沿岸航海技術のほうは相当なところまで発達していたと考えるのが自然である。だから、鉄砲についての情報が、ほとんど間をおくことなく、種子島から海路伝いに畿内一帯へともたらされただろうことは想像に難くない。利に聡く機を見るに敏な根来衆や堺の商人衆が、即刻、種子島に刀工を派遣することができたのも、そのような背景を考えれば納得がいく。
それにしても、鉄砲伝来からの十年間、さらには、それから天正三年(一五七五年)の長篠の戦いに至る約二十年間における異常なまでの鉄砲製造量の増大と、技術の改良発達の歴史をいったいどのように説明すればよいのだろうか。また、雨後の筍のように国中に溢れはじめた鉄砲が、間接的ではあったにしても、あわよくば日本の植民地化をと狙っていたに違いない欧米列強国の侵攻を抑止する力としてはたらいた可能性はなかったのだろうか。そんな疑問などをあれこれ抱くうちに、私の夢想とも言えるつたない想像は、たたら製鉄や玉鋼(たまはがね)に代表される我が国の特殊な伝統製鋼技術と鉄砲製造技術との関係、さらには、のちの鎖国政策をはじめとする海外勢力の締出しに陰で鉄砲が演じた役割などにまで及んでいったのだった。
2000年6月21日