初期マセマティック放浪記より

206.奥の細道・山刀伐峠考

山形盆地を北に向かって走り抜け尾花沢に入ると、そこで国道十三号に別れを告げ、陸羽東線の羽前赤倉駅付近へと通じる県道に車を乗り入れた。お目当ては奥の細道で有名な山刀伐峠(なたぎりとうげ)だった。いまはすっかり拡幅整備されたこの道を、芭蕉一行は現在の羽前赤倉あたりから逆に辿って尾花沢方面へと出た。この県道は近年完全舗装され、旧道の山刀伐峠越えの道を通らず峠下のトンネルを抜けて赤倉温泉方面に通行できるようになっている。そんなわけだったから、しばらく県道を走ったあと、トンネルのすこし手前で右手に分岐する細い旧道に入った。一車線しかない細い道だが一応舗装はなされている。

旧道を上りつめたところにはすこし開けたスペースがあり、そこが小さな駐車場になっている。その駐車場で車を降りて木立を縫う細道をすこし歩くと、芭蕉が通った当時のままの山路がいまもそこだけ残っている本来の峠道のところへ出た。この山刀伐峠には今春も旅の途中で立寄ったのだが、その時はまだ残雪があって寒々としており、しかも夕方の七時近くということもあってあたりは暗く展望もきかなかった。

幸いこの日は天候もよく、また午前中の時間帯ということもあって、尾花沢側の木立の間からは月山連峰の大きな山影が望まれた。木の葉の積もる昔ながらの細い峠道の脇には子持地蔵の祠がひとつあり。その近くには芭蕉翁の顕彰碑が建っていた。この子持地蔵の祠はかなり昔からこの地にあったものらしいから、芭蕉一行がこの峠を越えた時にも、現在のものとおなじではないにしても似たような地蔵像のようなものが祀られていたのであろう。旧山道そのものは細いけれどもしっかりと踏み固められており、カサカサと落ち葉を踏み鳴らしながらその道を辿るのはなかなか気分のいいものだった。

車に戻ると、来たのとは反対側の赤倉温泉方面へと下ったが、こちら側はかなりの急斜面で道もくねくねとうねっており、道路の両側の森林も深々とした感じだった。でもその旧道は走り出してほどなく先刻の県道に合流した。峠の上から県道との合流地点までの高度差は百メートルくらいのものだったろうか。再び県道伝いに羽前赤倉駅方面へと走りだした私だったが、そんななかで突然胸中にある素朴な疑問が湧き上がってきた。奥の細道の道中にあって最大の難所だったとも伝えられ、昔の古典の授業などにおいても芭蕉一行が大変な難儀をして越えたと教えられたこの山刀伐峠の状況について、実際のところはどうだったのかという想いが生じたからである。

奥の細道の本文中にも曽良随行日記にも山越えをした旨の記述があるだけで、具体的にはその名称の記されていない山刀伐峠は、標高八九七メートルの大森山と標高七六二メートルの金山をつなぐ稜線の鞍部にあたり、その高さは海抜四九〇メートルほどである。芭蕉らが逗留したという封人の家のあった堺田付近の海抜高度を地図で調べてみると三、四百メートルほどだから、高度差はせいぜい二百メートルたらずのものだろう。奥の細道の行程記録を調べてみると、芭蕉らは現在の六月下旬頃にあたる時期に、堺田から尾花沢まで約三十キロメートルの道のりを一日かけて歩いている。

堺田と山刀伐峠間十二キロほどの道のうちもっとも高度の低いところは現在の赤倉温泉付近で、海抜三百メートル強のようである。そうだとすれば、芭蕉一行は堺田を出たあとゆるやかな坂道伝いに百メートルほど高度を下げ、それからまた徐々に二百メートルほど高度上げて峠を越え、尾花沢へと下っていったことになる。

実際に自分の目で確かめてみたかぎりでは、このくらいの険しさと高さの峠を越える山路なら当時どこにでもあったに違いないというのが正直な印象だった。むろん、当時はそれなりに淋しいところではあったかもしれないが、地形的にみたかぎりでは、たとえ元禄時代のことではあったとしても、それが想像を絶するほどに峻険な難路だったとは考えにくい。しかし、芭蕉は、「尿前の関」の章のところで次のようなことを述べている。

宿の主人によれば、ここから出羽の国に出る場合、途中に大きな山があって道もはっきりしていないから、道を案内してくれる者を頼み、その者の先導で山越えをしたほうがよいということである。それならばと人を頼んだところ、道案内にはもってこいの頼もしい若者がやってきて、刃の反った山刀を腰に差し樫の杖を手にした姿で我々を先導してくれた。我々は、「今日こそはきっと危ない目に遭うにちがいない」とはらはらしつつ、またそのうえに辛く苦しい思いを重ねながらそのあとについて行った。宿の主の言った通り、その高山は森閑としていて鳥の鳴き声ひとつ聞こえず、樹木が鬱蒼と繁っているため樹下の道はひどく暗く、まるで夜道を歩いているような感じである。「雲端につちふる」という杜甫の詩の一節をも想い出すほどに薄暗くて凄まじい有様で、笹薮の中を踏み分け踏み分け前進し、流れを渡ったり岩に躓いたりするごとに冷や汗で肌身を濡らしながら、やっとのことで最上の庄に出た。案内の男は、「この道を通る時にはきまって困ったことが起こるのですが、今日は無事にお送り申し上げることができ幸いでした」と言い残し、喜んで帰って行った。その言葉を聞いたのは無事に道中を終えてからではあったけれも、胸がどきどきしてならなかった。

堺田から尾花沢方面へと抜けるこの山道一帯がそれほど峻険な地形ではなかったにしても、当時はきわめて人跡稀なところで、深い樹林や藪地、笹山などを掻き分け切り分けしながら進まなければならない状況だったとか、追剥ぎなどが常時出没していて危険このうえなかったというのなら話はわからないでもない。実際、いま紹介した奥の細道の記述をそのまま事実とうけとるならば、芭蕉一行が通った山路はそのような危険かつ困難な状況下にあったようにも思われる。

しかしながら、いろいろ調べてみるとその点についてもいささか疑問が生じてくる。仙台、石巻方面から岩出山、鳴子を経て出羽の舟形や新庄に至る北羽前街道は、元禄時代は言うに及ばず、江戸時代のずっと以前から奥羽地方における重要な交易路であった。尿前の関などが設けられていたことなどもそのことをよく物語っていよう。そうだとすれば、鳴子、堺田、舟形、新庄をつなぐ中山越えの街道はそれなりには通行者もあり、踏み跡もしっかりした道であったに違いない。最高地点でも海抜四百メートル程度で、鳴子の町のあるあたりの高度がすでに二百メートル以上はあるから、現実には難路というほどのものではなかったようである。現代人などよりもはるかに健脚だったと想像される当時の旅人たちにとって、中山越えがそれほど過酷なものだったとはとても考えられないからだ。

堺田の封人の家を出立した芭蕉らは、新庄方面に向かって北羽前街道を六キロほど進み、現在の羽前赤倉駅に近い明神という地名のあたりで左に分岐し、山刀伐峠を越え尾花沢に向かう山道に入ったものと思われる。地図を見れば明らかだか、舟形や新庄に出てから尾花沢方面へと向かうルートをとらなかったのは、尾花沢への直接ルートのほうが半分ほどの行程ですみ、新庄や舟形を迂回するよりずっと近道だったからだろう。いまひとつには、尾花沢から立石寺のある山形方面に南下し、そのあと最上川沿いに舟形、新庄の町を経て、そこからさらに最上川口の酒田へと出ようと考えたからでもあったろう。

芭蕉一行はともかくとしても、当時の行商人その他の旅人なら、鳴子から堺田を経て交易の要衝であった尾花沢へと向かう場合、当然この山刀伐峠越えの山路を辿ったであろうことは想像に難くないし、全体的な状況からしてもこの峠越えルートは相当に古い時代から存在していたと考えるのが自然だろう。そもそも、芭蕉らが山刀峠越えを選んだのも、地元民や行商人らがこの山道を使っていたからに違いない。山刀伐峠には元禄時代以前から地蔵を祀る祠などがあったらしいことも、折々通行者があったことの傍証にはなるだろう。

尾花沢で芭蕉は門下の清風の屋敷に泊まっている。紅花商人でもあった清風は尾花沢の豪商だったから、当然、鳴子、岩出山、さらには石巻、仙台方面の商人たちとも取り引きがあったはずである。むろん、尾花沢はそれなりに栄えていたことだろうから、清風傘下の用人たちをはじめとする尾花沢の商人らは尾花沢と堺田との直接ルートを利用していたに相違ない。そうだとすれば、芭蕉が尾花沢に到着するかなり以前から清風とは連絡がついており、堺田からはこのルートをとるようにとあらかじめ情報が提供されていたと考えるのが自然のことではなかろうか。

もしもそれが実際の状況であったとすれば、なぜ芭蕉はあえて奥の細道という紀行文の中で、あのような大袈裟ともいえる記述をしたのだろう。当然それにはそれなりの訳があったと思われる。芭蕉研究の専門家たちにとっては既に解決済みの問題なのであろうが、私のようなその道の素人にはいささか気になることではあった。その理由なるものにあれこれととりとめもない想像をめぐらしはじめた私は、以前に拝聴したことのあるドナルド・キーン氏の奥の細道をテーマにした講演のことを想い出した。そして、なるほどやはりそうだったのかとその背景を幾分納得した気分になった。そんなこともあって、とにかくこれからすぐに、堺田にいまも残るという「封人の家」を訪ねてみようと思い立ったようなわけだった。「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」の一句で名高い封人の家を訪ねてみれば、あえて誇張ともみえる記述をおこなった芭蕉の真意が、素人の私にもはっきりと理解できるのではないかという気がしてきたからだった。
2002年10月23日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.