初期マセマティック放浪記より

185.仕事場はドトール?

「原稿を書くのはもっぱらご自宅ですか?」と人から訊ねられたときなどは、「いいえ、車の中や街中のカフェなどで仕事をすることが多いです」と答えることにしている。相手は半分冗談だと思うらしいのだが、けっしてその言葉に偽りがあるわけではない。車で取材をかねた長旅に出かけ何千キロも走りまわっているときなどは、愛車というより哀車といったほうがよいかもしれないトヨタ・ライトエースの中で長時間パソコンを叩く。パソコン内蔵のバッテリーだけでは一定時間以上の作業は不可能だから、車の電源の十二V直流を百Vの交流に変換するコンバータを積んでもある。

旅に出ていない場合には、近くのカフェ、たとえば京王線府中駅構内の啓文堂書店脇にあるドトールなどを利用することがすくなくない。もちろん、夜遅い時間帯や、大量かつ詳細な資料をあれこれと調べたりしながら原稿を書かなければならない場合はべつである。そんなときには自宅の書斎やあちこちの図書館などを利用するが、そうでないときは、このところ、しょっちゅうドトールに出かけている。このお店は軽い食事もとれて便利だし、お客に対する配慮もこまやかで、料金も安くサービスもなかなかよい。すぐそばに書店があるから、ちょっとした事柄を調べたりしたいきには、一時的に席を立って関連書籍を立ち読みしたりすることもできる。客の出入りの激しいカフェなどは、人の観察をするのにも都合がよい。物書きにとって人間の観察は欠かせないことのひとつだからだ。

書斎で仕事をすると言えば聞えはよいが、一日中家の書斎にこもって仕事ばかりしていたら、身体によいわけがない。原稿を書くという作業にはそれなりのストレスがつきものなので、適度の運動や気分転換は絶対に欠かせない。パソコンや必要資料をナップサックに詰め込んで背負い、散歩をかねて外出すれば、それなりに運動にもなって体調を整えることができるし、精神衛生上からしても、外気に触れながら四季折々の風物を気の向くままに楽しむのはけっして悪いことではない。

自宅から駅周辺まで出向くときには、よほどでないかぎり自転車には乗らない。それが習慣になってしまっているから、急ぎの場合などに駅まで自転車に乗って出かけたりすると、帰りには自転車のことなどすっかり忘れてしまう。家に戻ってから、家族のヒンシュクを買うことはもちろんだが、そんな時には、「駐輪場の自転車のことを忘れないで、ちゃんと乗って帰るようになったら、足腰が弱った証拠だぞ。自転車を忘れるってことは、なによりも元気な証拠なんだから!」と屁理屈を並べて開き直ることにしている。

そんなわけだから、近所に住む人々の中には、私が自転車に乗れないものだと思っている者もあるようなのだ。たまに私が自転車に乗っている姿を見かけたりすると、怪訝そうな顔をする人があるのはたぶんそのせいなのだろう。若い頃から運動神経には自信があったから、実際にはちょっとした自転車の曲乗りくらいはいまでも十分できるのだが、仕事柄もあってか世間の人はそんなふうには見てくれないようである。

カフェや車中などでよく原稿を書くと言うと、次にはきまって「そんなところでよく仕事ができますねえ。うるさかったり、落ち着かなかったりしませんか?」と訊ねられる。実を言うと、どんな環境下にあっても集中力を失わず仕事に専念できるのは私の特技のひとつである。たとえガンガンと音楽が鳴り響いていたりしても、客の出入りが頻繁で人々の話し声が絶えなかったとしても、すこしも気になったりはしない。またそれとは逆に、周辺が真っ暗で物音ひとつしない真夜中の深山や、寂しく荒涼とした原野のようなところでも、精神を集中し平気で仕事に向かうことができる。

日々の生活に追われながら学ばねばならなかった若い時代に、やむなくして、どんな悪環境の中でも本を読んだりノートをとったり深い思索に耽ったりするすべを身につけてしまったから、お茶を飲みながら街中の賑やかなカフェで長時間仕事をすることなどヘッチャラなのだ。そんな仕事ぶりを知った友人や知人たちからも呆れられたりはするが、昔の厳しかった状況に較べれば天国みたいなものなので、本人はいたって平気なのである。知人の劇作家の大御所、別役実さんなどもやはり喫茶店を日常的に仕事場にしておられるようだし、明かにプロの書き手と思われる人物がカフェで仕事をしている姿などもよく見かけるから、実際にはそんなに珍しいことではないのではなかろうか。

常々拙稿を読んでくださっている読者の皆さんには申し訳ないが、そのようなわけだから、このところ発表しているエッセイ類のほとんどは「ドトール謹製」、あるいは「トヨタ・ライトエース謹製」ということになる。どうせなら「帝国ホテル謹製」とか「ロールスロイス謹製」といったような一流ブランド製のほうが望ましいのかもしれないが、そういった作品のほうはいまをときめく超一流作家連のほうにお任せするしかないだろう。そもそも、私のような無能な作家が「帝国ホテル謹製」や「ロールスロイス謹製」にこだわろうとしたら、たちまち財政的に破綻をきたしてしまうに違いない。

また、かりに「帝国ホテル謹製」や「ロールスロイス謹製」の原稿を書く環境が整ったとしても、かねがね高級ブランドの世界に関心のない私などは、分不相応な美食や身に余る豪華な部屋をもてあまし、文章を綴るどころではなくなってしまうことだろう。人間というものは、かねがね慣れていないことをしたりするとロクなことはない。コーヒーや紅茶一杯で長時間ねばって周囲から奇異の眼で見られようと、「ドトール謹製」のエッセイ執筆に徹するのが性分に合っているし、いい歳をして車の中で仕事なんかと笑われようと、「トヨタ・ライトエース謹製」の紀行文執筆に専念するほうがこの身にはふさわしい。

さらにまた、帝国ホテルのような一流ホテルの洗練されたホテルマンに気遣いながら、華麗な人々の集う世界について筆をとるより、ドトールのような街のカフェで若くていきのよい学生バイトやフリーターの店員らと言葉を交わしながら、庶民のおりなす世界についての執筆に精を出すほうが気分がよい。高級車に乗って完全舗装道路の走る人工美の世界に感嘆しつつ文章を綴るより、傷だらけのRV車に乗って悪路や隘路の続く大自然の中をめぐり、その苦労のほどや感動の深さを記述するほうが私には合っている。むろん、人にはそれぞれの好みや信条があるわけだから、まったく逆の立場をとる人々も多いことだろうし、また、それはそれで結構なことである。

豊かさに無縁な人間の偏見と言われればそうかもしれないのだが、たとえ偏っていたとしても、そういう視点と視線を通してしか見えない世界が存在することも確かである。そしてまた、そんな世界を描き出した拙い文章を読んでくれる人々がいくらかは存在するのも確かなことのようである。

つい先日のことだが、ドトールで隣り合わせた人が手にする数枚の文章コピーに何気なく目をやった。ところが驚いたことには、なんと、それは永井明さんのメディカル漂流記と私のマセマティック放浪記のコピーだったのだ!――「その文章のライターは……」などと隣から声をかけるのはヤボもいいところなので、素知らぬ顔でパソコンに向かい続けていたのだが、内心嬉しいような恥ずかしいようななんとも複雑な気分ではあった。
2002年5月29日

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