松浦甚一広見町長ら一行と歓談した当日、本間千枝子さんと私とは額装された食の大使の任命証書を町長より直接に授与された。大きな額に入った上質の和紙製の証書には「緑と清流の町、鬼北の里、広見の食文化に造詣が深く、食に精通されている貴殿に『広見町食の大使』の就任をお願い致します」という一文が墨書してあった。証書の上隅には同町特産の雉の絵が描き添えらえてもいた。
過去何度か広見町を訪ね地元の新鮮で豊富な食べ物に舌鼓を打ったのは事実だが、「食文化に造詣が深く、食に精通されている貴殿」ということになると、これはもう赤面ものである。だが、それでも、「食」の字を「色」に変え、「色文化に造詣が深く、色に精通されている貴殿」と持ち上げられるよりもはるかにマシだとはおもったので、とりあえずはそのことには目をつむっておくことにした。そして、真の意味で広見町の食文化に精通するように今後すこしは努力しようとも考えたようなわけだった。
食の大使の認定書とともに箱入りの立派な檜の置物と大きな檜の表札を贈られたのだが、実を言うとそれらの副贈品はたいへんな逸品だったのである。独特の芳しい香りを放つこの檜、そんじょそこらのただの檜とはわけが違ったのだ。贈呈されたこの檜の置物と表札には一九九二年発行の地元紙、宇和島新聞の夕刊記事のコピーと地球科学研究所の作成した年代測定結果表なるものが添付されていた。
「マニアものどから手が……神代檜見つかる」という見出しで始まるその夕刊記事によると、この年、広見町内の田んぼの地下一メートルから四メートルの地中より、長さ九・五メートル、直径六十センチメートルと、長さ六メートル、直径四十五センチメートルの二本の古い檜が発見されたのだという。発見者は同町で工務店を営む清家茂さんで、三年前にも同様の木が見つかっていたことから、付近を探していたとのだそうであった。記事の写真には発見された神代檜と、その大きな根っこの部分に手をそえて立つ清家茂さんの姿が写ってもいた。
推定樹齢四百年以上というそれらの檜は天災などの影響でいっきょに土中に埋まってしまったものだろうと推測され、水分を多く含む粘土質の土壌のおかげで腐ることなく現代まで残っていたものらしいとあった。また、発見当時、表面から深さ三センチくらいまでの部分はスポンジ状になっていたが、芯の部分は堅固なままで青黒い色をしており、いまも檜特有の香りを放っているとも記されていた。そして、埋もれた年代ははっきり分からないものの相当に古いことは間違いなく、マニア垂涎の珍品だけに、何に使うのか町内で話題になっていると結んでもあった。
なんと、私に贈られた檜の置物と表札はそれらの貴重な神代檜でつくられたものだったのだ。何に使うのかと話題になり、マニア垂涎の的であったとかいう「珍品檜様」の御分身が、こともあろうにこのみすぼらしい我が家に鎮座ましまそうというのだから、それはもうたいへんなことだと言うほかなかった。
岩塊のように硬く固まったその檜の古木の表面を撫でながら、いったいどのくらい経っているのだろうとあれこれ想像をめぐらせた。それからおもむろに地球科学研究所による年代測定データ表を開いてみた。そこには放射性同位元素カーボン14の半減期を用いた年代測定結果が記されていたのだが、その数値に目をやった私は驚きのあまり思わず息を呑んだ。
NO.1と資料番号のつている檜の生育しはじめた時代の推定暦年代がなんと紀元前一九一〇年、そしてNO.2の資料番号のついた檜のほうが成育しはじめた時代の推定暦年代は紀元前一七三五年、年代推定誤差はプラス・マイナス七十年と記載されてあったからだ!
今年が紀元二〇〇二年だから、いまから三千九百十二年前と三千七百三十七年前の檜ということになる。何らかの理由でどちらの檜も同時期に地中に埋没したらしいという推定結果も併記されていた。神代檜という表現がけっしてオーバーでないほどの古木だったというわけなのだ。いまからおよそ四千年前といえば、日本の縄文時代の後期に相当しており、エジプトでは中王朝の栄えた時代、中国でいえば殷王朝の成立に何百年も先立つ仰韶文化の盛隆期にあたっている。
檜の置物を居間の一角に据えると部屋いっぱいに芳しい香りが漂いはじめた。なにせ四千年近く以前の香り、より正確にいえば「香りの化石」なのである。全身の皮膚のいたるところから体内深くにしみわたるようなその香りに包まれながら、私はまだこの檜が葉を繁らせていた頃の遠い昔に想いをめぐらせた。この魔法の香りが私を縄文時代へと瞬間移動させてくれるのではないかという気分にさえなっていた。この神代檜を小さく切り分けてマニアに売ればしばし糊口を凌ぐことができるかななどという貧乏人の姑息な想いは、その神聖な香りによってたちまち浄化され、日々の怠惰な生活で弛みはてた心身がなにやらピーンと引き締めなおされる感じでもあった。
分厚く大きな表札のほうもたいへんな存在感を漂わせていた。むろん、まだ名前は表記されておらず、自分で好みの文字を記したり刻んだりすようになっていたのだが、下手にそんなことをやろうものなら、私の軽い名前など表札本体の放つ威光に圧倒され、たちまち吹き飛んでしまいそうなおもいもした。この表札のほうはいまも贈呈されたときのままで大切に保存してあるのだが、これになんとかうまく自分の名前を記して玄関先にに掛けることでもできるようなら、その御利益と御威光を背に何千年も長生きすることがでるかもしれない。
でもまあ、まかり間違ってそんなことにでもなったりしたら、迷惑するのは世の中のほうだから、ここは己の分際をわきまえ自重するのが一番だろう。それでなくても、いまこの国には老醜という表現がぴったりの顔も姿も化け物みたいな老齢議員などがいて、毒気を吐きながら大きな態度で政界を牛耳ったりもしているのだから、これ以上の老害は国の将来にとって迷惑千万なことだろう。化け物退治に神代檜の放つ芳香成分ヒノキチオールが有効なら国会に神代檜の置物をすぐにも送り届けたいところだが、相手もそうそうやわではないから始末が悪い。異形を売り物にあの手この手でくねくねと利権に巻きつくあの連中は、神代藤か神代蔦みたいなものをバックボーンにでもしているのだろうか。
後日、西川さんという広見町役場勤務の女性職員が中心になってデザインした「食の大使」の名刺が手元に届けられた。これまで二、三度お会いしたことがあるのだが、西川さんはたいへんにセンスのある方で、広見町役場にあっては、女性ならではのこまやかさを活かし、町行政全体の流れを巧みに調整コントロールする役職に就いている。
その名刺は近年はやりのトンパ文字(一種の絵文字)を交えてデザインされたなかなか洒落たシロモノだった。左隅上に「食べる」「話す」「贈る」という意味を表わす人形模様の三つのトンパ文字が大きく配され、中央横一列に同じく十二個のトンパ文字が並べられている。その文字の意味するところは、「緑の山、川の水、美しい土地、そこでとれた野菜、果物、雉などの食材――それら豊かな収穫物の味を伝え、それらの食を贈る」というようなことであるらしい。もちろん、広見町のイメージをトンパ文字で表わしたもので、それら十二個のトンパ文字の意味は名刺の裏面に通常の文字で記されてあった。
また名刺の表面の一番下に通常の文字で、「愛媛県広見町食の大使・本田成親」と記されており、裏面のおなじく最下段にごく小さく「〒798-1395 愛媛県北宇和郡広見町大字近永800番地1広見町役場農林課 0895-45-1111」と連絡先が入れられていた。むろん、私はこの風変わりな名刺がとても気に入った。たぶん、本間千枝子さんもそうではないだろうかと思う。どうせなら、私の肩書きを「食の小使」とか「食の浪士」とかしてほしかった。そう表記されていたらもっと気に入ったに違いない。
各種パーティ会場のような大勢の人がたむろすところへ足を運ぶのは元来好きなほうではないのだが、やむなくしてそのような場に顔を出す機会があるときにはこの名刺を携行し、「食の小使」くらいの役割は果たしたいと思っている。広見町の特産物その他に関心のある方は前述の農林課に問い合わせてもよいが、同町の道の駅にある広見町の物産展示販売施設「森の三角ぼうし」にアクセスすればより具体的な情報も得られるし、商品の注文なども可能である。
冷凍雉、雉の味噌漬、雉スープ、雉酒の素、水耕栽培の大粒イチゴ、鬼北自然薯、ウコン及びウコン入り各種加工品、鬼北米、合鴨農法米、名産椎茸「媛王」、精選素材をもとにした柚子ポン酢や柚子飲料、各種生鮮野菜類、さらには、ユリの花や木工製品類など食品以外の特産物――いずれの品も地元の人々が丹精込めて生産したものであるばかりでなく、その販売価格もたいへん良心的である。
広見町の松浦甚一町長は、「広見の特産物販売施設では絶対に本物しか扱わないようにします。本物だけを供給しようとすると、時にはひどい供給不足に陥ってお客様に迷惑をかけることもあります。でもそこで妥協し、一時凌ぎに地元の純生産品ではないまがい物を流通させたりしたら、結局信用を落としすべてが台無しになってしまいますから……」とその決意のほどを語っておられた。私も町長のその言葉と熱意のほどを信じ、ささやかながらも広見町紹介のお手伝いをしていきたいものだと思っている。
2002年11月27日