初期マセマティック放浪記より

175.鈴木問題の本質は?

このところメディア界は鈴木宗男問題で沸きかえっている。国会での証人喚問が終わってからも同議員にまつわる疑惑が次々に浮上し、結局鈴木議員は自民党離党のやむなきに至ったが、この問題に関しては、ひとりの日本人として考えさせられるところが少なくない。鈴木議員の恫喝まがいの行為やその政治資金調達の背景に潜む様々な黒い疑惑もさることながら、それら以上に私が気になって仕方がないのは、この種の問題の根底にある我々日本人の倫理的資質のことである。

人間というものは、その割合はともかくとして、誰もが白と黒の両面を心中に共存させて生きている。いわゆるグレイゾーンなるものものに心の大半を委ねながら、それを当然のこととして生きている人などもあるくらいだ。とくに我が国などにおいては、「清濁相合わせ呑む」という言葉に象徴されるように、白黒両方の要素を超然として内奥に抱えもつことが一種の美徳とも大人物の証ともされ、さらには社会に和をもたらす秘訣でもあるとも考えられてきた。

善と悪との二元論に基づき、世界の国々を白黒どちらかに色分けして考えるアメリカ大統領らの主張に違和感を覚えるのは、我々日本人の心のどこかに、グレイゾーンをそれなりに肯定し、白一色をかならずしも至上のものとは見なさない伝統がなお息づいているからなのだろう。アフガニスタンにみるような複雑な政治問題などにおいては、日本人のもつそのような資質はプラスにはたらきもするのだろうが、鈴木宗男問題のような場合には、その資質は大きくマイナスに作用してしまう。

このような日本的精神土壌の下にあっては、政治家や官僚、企業経営者などの心に巣食う黒い要素の際限なき増殖を未然に防ぐのは難しい。我々日本人には、白の要素がずいぶんと少なくなってしまっても、白の占める割合はなお大きいと過大評価し、黒い要素の占める部分にはひたすら目をつむってしてしまう傾向があるからだ。

そんなわけだから、政治家などの心中に将来異常増殖が予測される真っ黒な芽が生じかけたても、その段階でその芽を摘み取ってしまうことはまずできたためしがない。相手が黒一色に染まりきり、身体中から黒い煙や黒い粉を噴き出すようになってはじめて、我々は事の重大さを認識するのことになるのだが、その時は既に手遅れになっていて、その人物の周辺も社会全体も少なからぬ悪害を被ってしまっている。

鈴木議員にまつわる諸々の疑惑がいま報道されている通りだったとして、同議員がそのような無法きわまりない状態に至るのを、この社会は未然に防ぐことができただろうか。残念ながら答えはノーである。政官民を問わず、我々日本国民はそのような事態を未然に防ぐ方法も倫理的資質も倫理的基準もいまだ持ち合わせていないし、過去の歴史においてそのような問題に対処する実践的なトレーニングを受けたこともないからだ。

いま起こっている一連の事態は、たとえていうなら、「社会」という名の生体内に生じた重度の「生活習慣病」にほかならない。生活習慣病を治癒するには適度な運動や摂生が必要だが、特効薬に似てはいるもののその実は麻薬にも等しい利益誘導型政治におかされ、いまや極度の禁断症状に陥ってしまっているこの社会に、運動や摂生に耐えうるだけの体力と意志の強さが残されているとは思われない。私には、日本人が日本人でなくなったときにしかこの生活習慣病は完治しないようにも感じられてならないのだ。

鈴木議員の業績やその恩恵の大きさを称える地元住民の声はいまもなお少なくない。鈴木議員同様に、与党議員のほとんどは、程度の違いこそあれ、地元選挙区への露骨な利益誘導をおこなうことを自らの至上の任務と信じてきた。そして、それぞれの地域の住民たちはそれをありがたいもの、あるいは当然のものとして受け入れてきた。

それぞれの地域に強引に誘導された社会資本が効率よく循環して有益な資産をうみ、その結果として投入資本の一部や付加的な利潤がバランスよく国全体に流動し還元されているうちはそれでもまだよい。だが、生態系を破壊するばかりで何の生産性にもつながらない無駄で醜悪な公共事業が全国各地でおこなわれ、際限なく投入される公的事業費の一部が特定議員に還流するような構造になると、もはやどんな手だてをもってしても救いようがない。

地域住民は公共事業という名の麻薬の中毒患者になってしまって、当然のようにさらなる麻薬を要求し続ける。いっぽうで、「地域住民のために」という言葉をオウム返しに唱えながら、議員たちはヤクザの親分まがいに大量の麻薬、すなわち公共事業の導入をはかり、それを巧みにばらまいて私腹を肥やし、地域住民を篭絡してゴッドファーザー的な地位と権力を確立していく。

どんなに非生産的で非文化的なものではあっても、公共事業がもたらされると一時的にはその地域は多少とも潤う。だが、そのような生産性も文化的価値もない公共事業が全国各地で大量におこなわれるようになると、国の根幹をなす基本事業や社会保障制度、保険制度、医療制度、研究教育制度など、諸々の行政制度や行政サービスに多大の皺寄せが及ぶことになる。また、公的投資に見合う生産性の向上がなければ、国全体としての経済は疲弊し社会不安は増大する。その結果、公共事業で一時的に潤ったつもりの地域住民は、その何倍もの不利益を別のかたちで被ることになるのだが、困ったことに、公共事業中毒になった人々はそのことをなかなか理解しようとしない。

いまや「害務省」とでも名称をあらためたほうがよさそうな国辱ものの外務省だが、それにしても、鈴木宗男議員はどうしてあれほどに、外務官僚をはじめとする諸官僚たちを意のままに操ることができたのだろう。鈴木議員の恫喝に近い態度に育ちのよいエリート官僚が怯えて言うなりになったなどと報道されたりしているが、私自身はそんなことをそのまま信じる気にはなれない。大声で怒鳴られたくらいで、誇り高い高級官僚たちが揃いもそろっておとなしく言うままになるなどありえないことに思われるからだ。

北方領土訪問時の植樹用苗木の検疫問題で、外務省の課長補佐が鈴木議員から殴る蹴るの暴行を受けたと報じられているが、そこまで異常な行動をとったとしても自らの身は安泰だという絶大な自信はいったいどこからきたものなのだろう。当然、当時の外務省の上層部を意のままに操れるという確信があってのことだったのだろうが、そんなことはよほどの裏付けがなければできないはずなのだ。

これはまったくの個人的な憶測にすぎないが、これまで報道されている以上の何かがこの人の背後には隠されていたのではなかろうか。あくまでも噂の域を出ないものではあるけれども、鈴木議員が秘書を務めていた国会議員中川一郎の縊死事件以来、この人にはある種の暗い影がつきまとっていたとも聞いている。国会議員としてのスタート時点から、尋常ではない不気味な霧のようなものがその背後には流れていたように思われてならない。

鈴木議員を支えたのはロシア通の佐藤優という有能な外交官で、ロシアの極秘情報を入手することにかけてはこの人物の右にでるものはいなかったとも言われている。なにげなく聞き流せば、ノンキャリア組にもそんな優秀な人物がいたのかというだけのことで終わるところだが、よく考えてみると、この話はそう単純なことではないようだ。

ロシアの極秘情報を的確に入手できるということは、その人物が元KBGなどをはじめとするロシア情報機関やロシア政府要人らと特別な関係をもっているということにほかならない。そうだとすれば、ギブ・アンド・テイクが常識のその世界でロシア側から一方的に重要情報が流れていたとは考えにくい。当然、日本側からも国家機密に相当する情報や各種利権、多額の資金などがロシア側に還流されていたと考えるべきだろう。

佐藤優という人物は大局的には日本に有利な仕事をしたのかもしれないが、日ロ間における極秘情報交換のパイプ役として、二重スパイとは言わないまでも、それに近い二重性を帯びて行動していたと推測される。その場合、ロシア側に流れた日本サイドの機密情報源がどのあたりにあったかは言わずとも想像がつくというものだろう。

我が国と関係のある世界の大国が、様々な手段やルートを用いて日本の主要官庁官僚や有力政治家、有名メディア関係者などのなかに自国の親派を育てあげ、その力を借りて極秘のうちに国益につながる外交を展開しようと画策するのは衆知のことである。米国も中国も韓国も北朝鮮も、そしてロシアもその例外ではありえない。そうしてみると、あらゆる政治的謀略のプロ集団であった元KGBの組織などがロシア政府の要請をうけ、鈴木議員をロシア親派として支援しようとしていたということもまんざら考えられぬ話ではない。当人は否定するだろうが、ロシア政府が極秘のうちに鈴木議員やその周辺議員に特別な利益供与をはかっていたという可能性だって完全には捨て切れない。

また、元KGBなどと大袈裟なことなど言わなくても、特別な調査機関などを動かして有力政治家や高級官僚、有力民間企業幹部などのスキャンダルを掴むことなど、鈴木議員のような体質の人物にとっては容易なことであったろう。どんな人間にも他人に知られたくない負の部分があるのは普通のことだから、それをネタにして暗黙のうちに脅迫され、忍従を強要されたら抵抗するのはけっして容易でないだろう。いろいろなかたちでさりげなくお金を握らせ、抜き差しならぬ関係ができたところで相手を意のままに操るということも可能だったに違いない。

いくらなんでもそこまでやったとは思いたくないが、闇の世界の力を借りて自分に不都合な人物に対し生命の危険をもちらつかせる演出をおこない、相手に底知れぬ不気味さを感じさせることによって、その批判を封じ恭順を迫るなどということも、たぶん不可能ではなかっただろう。幸か不幸か、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という文句そっくりの状況になって鈴木バッシングはとどまるところを知らないが、我々国民は自己反省の意味をも込めて、この問題の本質とその対処法についていま一度深く考えなおしてみる必要があるだろう。

次の選挙で鈴木議員の再選がなるかどうかはわからないが、もしも再起がならなかったら、せめて「鈴木宗男回顧録」のようなものでも著し、政界の舞台裏を白日の下に曝してもらえないものかと思う。そうなれば、今回の不祥事はともかく、鈴木議員の存在意義や、同議員でなければなしえない回顧録の仕事に対する評価は大いに高まるに違いない。

それにしても、田中問題や鈴木問題に対する小泉首相の、薄っぺらで逃げ腰な、そして核心をはぐらかすとうな対応ぶりはどうだろう。以前に、いささかの批判をこめながらも、その政治姿勢と表向きの人物像が本物であると信じたいと書いてはみたが、最近では贋物とも受取れる一面が浮かび上がってもきているようだ。

格好よく振舞い、威勢よく断定的な言葉を吐く人物は、一見決断力があり包容力もあるように見えるのだが、心理学の説くところによれば、この種の人物には母子共着、俗な言葉でいえばマザコンの要素をもつ者も少なくないという。その裏の資質は、言葉の軽さ、責任回避、いざというときの弁明保身、自分よりも強い者に対する盲従などであるらしい。首相がマザコンであるなどとは思わないが、いまのような状況が今後も続くと、その資質に首を傾げる人も多くなってはくるだろう。

銀行の不良債権処理などは首相が掲げる当面の急務であるはずだが、この人のこれまでの言動や銀行問題に対するどこか逃げ腰の対応を見ていると、首相の隠れた支持母体が実は有力都市銀行なのではないかとさえ思われてくる。前に進めと声高らかに煽りながら、進もうとする人のスカートを自ら踏むという矛盾した行為が、都市銀行の不良債権処理問題でも起こらないことをひたすら願うばかりである。
2002年3月20日

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