もう遠い昔のことだが、貧乏学生の私は、江東区深川牡丹三丁目の峯木さんという靴屋の二階の四畳半に間借りしてなんとか日々をしのいでいた。狭い自室にはもともと炊事設備などなかったし、かりに炊事ができたにしても冷蔵庫などあろうはずもなかったから、毎食自炊をすることは経費的にも時間的にもロスが多すぎた。だから、当時はどこにでもあった安い定食屋に足しげく通ったものだった。
私が行きつけの「千代」という場末の定食屋の親父さんは、野球評論家の西本さんの風貌をほうふつとさせるような、独特の気品と信念を内に秘めた穏やな人物であった。技師として長年勤めた石川島播磨重工業を退職後、千代さんという女将と老いの駆け落ちに近い状態で深川に移り、町工場の工員や労務者、貧乏学生相手のささやかなお店をその地に開いておられたらしい。何かの話の中で、女将の千代さんもその当時の高名なある俳人の門弟だったと伺った記憶があるから、そこに至るまでのお二人の間には、それなりの深い事情があったのだろう。でもお二人とも息が合い、とても幸せそうに見えた。
ある時、親父さんの実娘とおぼしき中年の女性がお店やってきて千代さんとなにやら談判している場に行き合わせ、さりげなくその話に耳をそばだてたことがある。その時、毅然として、「私は財産が欲しくてあの人と一緒に暮らし始めたわけではありませんから、財産なんかビタ一文もいりません。もちろん、どんなことがあっても最後まで私はあの人に添い遂げ、自分で一切の面倒をみる覚悟です。だから、あなた方に迷惑をかけるつもりなどまったくありません」と言い放った千代さんの姿を私は昨日のことのように思い出す。一時代前の誇り高い辰巳芸者の意地にも似た一途な心の激しさが、そこには感じられたものである。
ともかく、私をはじめとする貧乏学生どもはこの方々にずいぶんとお世話になった。損得抜きでにうまいものを食わせてもらい、そのおかげで私などは栄養失調にならずにすんだくらいである。この時代の深川周辺には東京の下町ならではの人情味がまだあちこちに残っていて、その温かさに助けられた想い出はけっして少なくない。鰐の口よろしくパクパクに爪先部の開いた靴を性懲りもなく履いている私を見かねた靴屋の親父さんから、一足靴をプレゼントされたこともある。この親父さんは、お客が売り物の高い靴を買おうとすると、そんな高価な靴を買うよりもあなたのいま履いている靴を直したほうがずっと安上がりだと言って、その場で相手の靴の修理をしてしまうような人だった。
定食屋の千代さんではマグロのブツ切りをよく食べた。マグロの刺身の値段はマグロのブツ切りの二倍以上もしたのでいつも安いブツばかりを食べていたのだが、これが、量もたっぷりで、実にうまかった。あるとき、たまたまカウンターに並び合わせたお客がマグロの刺身を注文したのに続いて、私のほうはいつものマグロのブツを注文したことがあった。そのあとで何気なく板場に目をやると、親父さんは、まずまずマグロの刺身をこしらえ、まったく同じマグロの肉を使ってこんどはブツを作っているではないか。しかも、ブツのほうが刺身よりも量も多いくらいである。それまで、ブツはマグロの安い余り肉の部分で作っているものとばかり思っていたから、私は、一瞬、我が目を疑ってしまった。どうりでブツうまいはずである。
隣の客が席を立ったあと、すぐに、私は親父さんに、「刺身もブツも材料は同じだったみたいですけど?」と、小声で尋ねてみた。すると、親父さんは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、「刺身とブツとは切り方が違うんだよ!」という粋な応えを返してくれたのであった。
私が九州の島育ちで、魚をさばくのがうまく、頭や鰭、尻尾などのアラが好きだということがわかると、築地の魚河岸に仕入れに行ったついでに身のついた瀬魚のアラを折々持ち帰り、閉店後にそれらのアラを調理場や調理用具ともども無償供与してくれもした。勝手にアラを料理して食べろというわけで、その恩恵に預かり、近くに住む同類の貧乏な友人共一同、アラの手料理に舌鼓を打つことができたような訳だった。
私と友人のほかにはお客のいなかったある晩のこと、たまたま親父さんとの間で中国のことが話題になった。しばし話がはずんだあと、親父さんは、急に思い立ったように、私とやはりこの店の常連だった友人の二人を二階の部屋に招き上げ、小型のダンボール様の箱の奥に大切に保管されたかなりの枚数の写真をそっと取り出した。そして、親父さんは、どこか思い詰めたような表情を見せながら、あらたまった調子で話を切り出した。
「私はねえ、戦時中、陸軍直属の中国語通訳兼報道担当の任務についていてね、南京事件当時現場にいて写真撮影とその処理に立ち会ったんだよ。敗戦後、日本へ帰国する際、それらすべての写真や関係書類は一枚のこらず消却廃棄するように厳命されたんだが、必死の思いで一部を密かに持ち帰ったんだよ。それがこの写真なんだがね……」
親父さんは、そこで息を整えるかのように、いったん言葉を切り、さらに、こう続けた。
「実際それは目にしただけで吐き気をもよおしたくなるような凄惨な光景でね、殺害された無数の人々の間を歩くと膝元近くまである長靴が血の海にずぶずぶとぬかり、長靴の中にまで血がはいってくる有様だったんだよ……。生存者が一人でもいるとまずいからというので、日本兵が銃剣で再度一体一体死体を突き刺しもしていたねえ。あんな愚かなことは二度と繰り返してはならないよ。いろいろと厄介な事情があって、このような写真があることは公表はできないんだけどねえ……」
その静かな口調には、なんとも形容し難い重い響きが感じられた。遠い日の凄まじい情景が、いまも親父さんの心を苛みつづけてきていることは明かだった。
古くなり、かなり変色した白黒の写真ではあったけれども、それらの写真にはおびただしい数の無惨な死体が写っていた。いまあらためて振り返ってみても、そのときの親父さんの真意のほどはいまひとつ掴みかねるのであるが、中国の話をきっかけとするやむにやまれぬ思いに駆りたてられてのことだったのだろう。しばらくして私は深川を離れたが、それから数年後にその親父さんは他界された。直接訃報に接することができなかったので、亡くなってしばらくたってから香典をもってお店に千代さんを訪ねたが、千代さんとお会いしたのもそれが最後になってしまった。
二、三年ほど前、用事があって門前仲町に出かけたとき、ついでにその懐かしい場所を訪ねてみたが、あたりは近代的な街並みに変貌し、昔の街並みのおもかげなどどこにも跡を留めてはいなかった。むろん千代さんのお店が残っていようはずもなかった。
もう三十年以上前のことなのだが、あの写真がその後どうなったのかだけは、いまだに気にかかる。食い気ばかりが先走る若さのゆえに、当時はことの重大についてあまり深く考えなかったのだが、もう少し詳しく親父さんに話を伺っておけばよかったといまは心から後悔してもいる。
南京事件はなかったと主張する人々が多くなってきている昨今だが、もしそうだとすれば、南京事件があったとする主張は、中国側が日本に報復するために捏造した虚偽の宣伝、ないしは一部の国賊的日本人(?)とやらによる妄想だということになるのだろうか?
もしも自分が中国人であったと仮定し、冷静になって考えてみると、たとえ憎い日本人に報復するためとはいっても、実際に存在しなかった大虐殺事件をデッチあげるなんていうことはきわめて不自然かつ無理なことだし、たとえそんな根拠のない主張をしてみても、それが国際的に通用するなどとは考えてもみないことだろう。あの親父さんの言葉や写真に待つまでもなく、南京事件はあったとみなすのがごく自然のことだろう。
殺害された人々の数についての推定値が中国側と日本側とで大きく異なっているという問題はあるだろう。正確なデータや記録が残されていない以上、加害国側は死者の数をなるべく少なく見積もり、逆に被害国側はその数をなるべく多く見積もろうとするだろうし、残虐行為の状況についても日本側は過小に、中国側は過大に考えようとするだろう。しかし、南京事件が実在したかどうかという議論に関するかぎり、死者数の問題や残虐度についての両国の見解の相違は二義的なことに過ぎないと言える。
数学の証明ならば百の事象のうち百すべてが成り立つことが必要だが、社会事象における証明では百のうち七十も成り立てば十分と見なすべきだろう。関係事象を百パーセント立証できなければ証明されたとは言えないとする数学的な考え方を社会事象の証明に適用するのは、所詮、無理かつ無意味なことのように思われてならない。社会事象に関しては、二割や三割程度の未解明、未証明の事象があるからといって、問題となっている物事全体を否定するようなことは慎むようにしなければならない。ましてや、唯一つでも成り立たない事例があればその命題は不成立とする数学的な論法を、物事の真実を隠す意図を秘めて社会的事象の存在否定証明にもちこむなどということは、証明論理の悪用以外の何物でもないと言えるだろう。
己の非は非として潔く認め、そのうえで相手の持ち出す無理難題や過度の責任追究には異議を唱え、的確に外交を進めていくことがこの際必要なのではなかろうか。
2000年4月19日