初期マセマティック放浪記より

25.甑山犬の想い出

西海岸の内川内と東海岸の長浜とを隔てる山岳地帯の山頂には、東支那海一帯を睨む航空自衛隊のレダー・サイトが設けられている。中央の山岳地を越えて東海岸に出るために、私たちはそのレーダー基地のある山頂へと続く月下の山道を走りはじめた。かなり急な道ではあったが、舗装はしっかりとなされているため、月見をしながらのドライブは快適このうえないものとなった。それからほどなく、私たちの車は甑島の最高峰で海抜六〇四メートルの尾岳と自衛隊レーダー・サイトのある山頂との間の鞍部に着いた。

尾岳は標高こそ六〇四メートルにすぎないが、北東側と南西側を海ではさまれた幅二キロ強の陸地上に聳え立っていることから、その斜面は平均勾配で五分の三という大変な急傾斜になっている。そのうえ、海抜〇メートルから六〇四メートルの高さまでがまるまる山の本体だから、標高から想像されるよりもずっと険しい山である。この下甑島の尾岳を中心とする山岳地帯には、かつて甑山犬という甑島古来の野犬が棲息していた。私が中学生の頃までは、下甑島ばかりでなく上甑島においてもかなりの数の山犬が見かけられたものである。

深夜、漆黒の闇を貫いて高らかに響き渡る「ウオ~~ッ、ウオ~~ウォ~~ッ」という山犬たちの遠吠えは、雄々しいなかにもある種のもの哀しさを感じさせた。長くて独特のリズムと抑揚をもつ鳴き声がそう感じさせたのかもしれないが、もしかしたら、やがて滅びゆく自らの運命を彼らはいち早く察知していたのかもしれない。

山犬たちは、キジをはじめとする各種の野鳥やその雛と卵、野ウサギや野ネズミ、イタチ、ヘビ、ジバチの巣などを餌にしていたらしいが、ときには夜陰にまぎれ、群をなして集落の家畜を襲うこともあった。風のように鶏舎や山羊小屋、豚小屋を襲い、人間を嘲笑うかのごとく集落を駆け抜けて山奥へと引き揚げていく彼らの黒く精悍な姿影を、私も何度か見かけたことがある。

もっとも強く想い出に残る山犬との遭遇は、たしか私が小学年生になったばかりの頃のことだった。祖母に連れられ集落の外にある墓地の掃除に行った私は、祖母が掃除に精を出す間、探検家気取りで墓地裏の山の鬱蒼とした薮木立の中に分け入った。昔から山犬の巣があると言われていた、めったに人の近づくことのない場所である。山犬は大木の根っこの空洞や物陰の穴蔵に棲むとは聞いていたが、そのときの私は山犬のことなどまったく頭になく、空想を小さな胸いっぱいに広げながら薄暗い薮の中を歩いていた。

行く手に現れた大樹のうしろ側に回り込もうとした瞬間、すぐ目の前の羊歯の茂みの中からウ~~ッという低い唸り声が響いてきた。はっとして顔を上げると、一頭の大きな犬が、前足を少し開き頭を低く下げた姿勢をとりながら鋭い目でこちらを睨んでいるではないか。ふさふさした焦げ茶の体毛、ピーンと張った両耳、頑丈そうな顎と黒く丸い鼻……まぎれもない甑山犬だった。互いの位置は三~四メートルくらいしか離れていなかったように思う。

あまりに突然のことだったので、怖いなどと思っている暇もなく、こちらも反射的に相手の目を睨みつけ、子どもながらに手にした棒を握りしめ応戦体勢をとったのが幸いした。何秒間かの睨めっこが続いたが、相手の山犬は敏捷な動きで急にくるっと向きを変えると、深い薮の中にその姿を消していった。本気になって襲われていたら、どうなっていたかわからない。

尾と耳をピーンと立て、いかにも野性的な鋭い目をした甑山犬の純粋種は、私が中学生の頃までは上甑、下甑の両島にわずかながら残っていた。口元や姿態がニホンオオカミによく似ており、毛並みが美しく、野生の風格ともいうべき精悍さを具えた甑山犬は、古来、番犬としても重宝されたようである。山犬の棲息していそうな山奥を山狩りしてまだ幼い子犬を奪い取って持ち帰り、それを番犬として育て上げたわけである。さらわれた子犬の哀しそうな鳴き声を聞きつけ、親犬が深夜、漆黒の闇にまぎれて人里に子どもを取り戻しにやってくるなどということもしばしば起こっていたようだ。

本土で薩摩犬と呼ばれている種類の犬は、もともと甑山犬を薩摩地方の各地に持ち帰り、番犬として育て増やしたものだという。そうだとすれば、上野の山の西郷さんが連れているあの犬のルーツは甑山犬だった可能性がきわめて高い。いずれにしろ、度重なる捕獲や島内開発にともなう棲息環境の悪化、餌となる鳥類や小動物の減少などのために山犬の数は激減していった。高校生のときに、たまたま捕らえられた一匹の山犬が当時の総理大臣岸信介に献上されたという話を聞いたのが、私が上甑島の山犬について耳にした最後の消息であったように記憶している。上甑島の山犬はその前後に絶滅したに違いない。

下甑尾岳周辺に終戦直後までかなりの数棲息していたらしい純粋種の山犬は、椋鳩十の童話作品の中に描かれているように意外な展開を辿ることになった。下甑村釣掛崎灯台付近に海軍防衛隊が置き去りにした二頭の大型シェパードは、野生化して甑山犬たちの中に交じり、やがて、そのうちの強くて利口だった雄の一頭が一群の山犬たちの新しいリーダーとなっていった。そのため、当然の結果として甑山犬とシェパードとの間に交配が進み、胸に白毛をもつ雑種の山犬が誕生することになっていった。

山犬たちは勘が鋭いうえになかなかに用心深く、人間が餌を与えても容易には口にしなかったという。また餌を食べ残した場合には、それらに土をかぶせて埋め、二・三日保存しておく習性をもってもいたらしい。昭和四十年頃になると下甑島でも純粋種の甑山犬は完全に姿を消し、その後は島外からの猟犬の流入などもあっていっそう雑種としての交配が進んでいった。そして、雑種となった山犬たちも開発にともなう自然環境の変化とともに次第に姿を消していき、ついにはあの鋭く夜の大気を貫く遠吠えを耳にすることなどできなくなってしまったのだった。

人伝てに聞いたところによると、甑山犬の純粋種に比較的近い犬が現在下甑島の鹿島村で飼われているということだが、体型や毛並みは古来種に近くても育った環境が異なるから、野生の気品とか風格といったものを期待するのは無理なように思われてならない。

尾岳と自衛隊レーダー・サイトのある山の頂上との間の鞍部を越えると、東海岸側の山麓一帯とその向こうに広がる夜の海を望むことができるようになった。満月に近い月の光が青々と澄みわたっているために、夜であるとは信じられないほどに視界がきいた。一昔前ならそんな状況はごく当たり前のことだったが、現代においてはめったに体験できることではない。右手の航空自衛隊のレーダーサイト周辺は重要施設であることもあって、一般人が立ち入ることは許されなかったが、位置的にみて素晴らしく展望がきくことだろうとは想像に難くなかった。夜遅くにもかかわらず明々と照明の灯る駐屯施設を遠くから眺めると、まるで山上に建つ一流ホテルのラウンジかなにかのようにも見えさえした。

私たちはまだ夕食をとっていなかったので、ともかくどこかの磯辺まで下りて、そこで食事を作ろうということになった。距離的には昨日の上陸地、長浜海岸のあたりを目指すのが最短だったが、どうせならもう少し静かで人工の明かりのない浜辺に出たかった。そこで、いろいろと思案したあげく、ほぼ一定の高度を保って南にのびる林道を辿ったあと左に分岐して青瀬という集落に下り、そこから、青瀬海岸の南端に位置する瀬尾集落付近を目指すことにした。煌々と照る月光を路面で弾き返すかのようにしてのびる山道は、のんびりと走っているかぎり、ライトがなくても十分なほどに明るかった。

しばらく走っているとライトの中に動物の姿らしいものが浮かび上がった。タヌキじゃないかと思ったが、なんとそれはかなり大きな一匹の猫だった。下甑島に渡ってから一つだけ気になっていたのだが、集落から遠く離れた山深い林道を走っているとき幾度となく野良猫に遭遇した。目つきが鋭く、動きも敏捷で警戒心が強いそれらの猫どもの様子から判断するかぎりでは、どう見ても飼い猫であるとは考えられない。「甑山猫」がいるという話はさすがに聞いたことがないから、捨てられたかどうかした飼い猫が野生化したものなのだろうが、その厳しい顔つきや均斉のとれた姿態にはなんとも言えない迫力と凄みがあった。おそらくは、鳥類や野ネズミなどを捕って食べているのだろう。険しい斜面の深い薮や林の中に姿を消すそんな野良猫の様子を眺めていると、二度と人間どもに媚を売ることなんかせず逞しく生きろよと、祈らずにはおれない気分になってきた。

青瀬と瀬尾の集落を抜け、青瀬海岸南端に辿り着いたのは午後十時前後だった。まったく人の気配のない防波堤の最端部に車を駐めた私たちは、その向こうに広がる自然石の磯浜に降り立った。そして、絶え間なく降り注ぐ月光を吸って銀白色に輝き揺れる海面と、潮に濡れた波打ち際の無数の玉石の不思議な輝きを眺めながら、心ゆくまでその夜の磯辺を歩いてみた。軽やかに寄せては引く月下の磯波の何事かを囁くような響きとその幻想的な色合いは、私の記憶の底に眠る懐かしい風景と奇妙なまでに共振し共鳴した。

遠くまで海の見渡せる防波堤の一角にシートを敷き、そこで手早く食事の準備を整えると、私たちは夜の島の澄んだ大気の下ならではの明るい月影に見守られながら、遅い夕食を取り終えた。そして、食器や調理器具を車に仕舞い込もうとするときになって、突然、私は高校時代の夏休みに試みたささやかな実験のことを想い出した。それは満月の光のもとで新聞の活字が読めるかという実験だったが、実際に月下の海辺で試してみると予想通りに新聞の記事をを読むことができた。視力の違いなどもあるから幾分個人差はあるかもしれないが、そんなことができるほどに、南の島の海辺に降り注ぐ満月の光というものは明るく美しいものなのだ。

このときには新聞は持ち合わせていなかったのだが、その懐かしい想い出に導き誘われるようにして、私はちょっとした試みを思い立った。あの時とそう変わらない明るさのこの月光の下で、人工の光の助けを借りることなしに、ある方に宛てて一通の手紙をしたためてみようと考えたのである。

たまたまだが、その十一月三日の文化の日は、若州一滴文庫や長野県北御牧村の勘六山荘でなにかと御教示を賜った作家の水上勉先生が文化功労章を受賞された日に当たっていた。近々お祝いの手紙を差し上げねばと思っていた私は、どうせなら潮騒の響きに包まれたこの夜の磯辺で、月明かりだけを頼りに先生宛の手紙を書こうと決めたのだった。

通常の便箋とボールペンを使って私は何枚かの手紙を綴り、ささやかなお祝いの気持ちを水上先生にお伝えした。いささか作為に過ぎるかとも考えたが、折角の機会なので、月下の磯辺でその手紙をしたためているということも申し添えさせていただいた。

手紙を書き終えたときにはすでに午前一時近くになっていた。明朝はもう一度鹿島村藺牟田まで行って、そこからフェリーで上甑島に戻らなければならない。息子はと見ると、いつのまにか車の中で夢の世界を彷徨っているではないか。すべての車窓のカーテンをおろし、私もすぐさま横になったが、カテーテンのわずかな隙から車中に差し込む月光はますます輝きの度合いを増し、青々と冴えわたっていく感じであった。
1999年4月7日

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