<民俗文化財並みの吊り橋>
先に立った私は、手を切らないようにして背丈を超えるススキの葉を掻き分け、蔓草のからむ潅木の藪を圧し踏みながら橋のたもとに近づいた。そして足元を確かめるようにして橋端の右手に取りついた。振り返ると、ちょっと緊張した面持ちでAさんもすぐあとについてきている。普通ならこのような橋の場合、「廃橋で危険につき渡橋禁止」とかなんとか記した警告板が立っているものなのだが、そんなものなどどこにも見当たらない。それがまた、かつては秘境と呼ばれたこの地らしいところでもある。もっとも、そうでなくても見るからにスリル満点で、しかも廃橋となってからはいっそう恐ろしげな雰囲気を漂わせるようになってしまったこの橋を、敢えて渡ろうなど考える人間がいるほうが変なのだから、警告板がなくたって仕方がない。
吊り橋というと、全国的に有名な四国の奥祖谷のかずら橋などを想い出す人が多いかもしれない。あの吊り橋もなかなかに迫力があって、渡るにつれてゆらゆら揺れるし、足元の橋床には一定間隔の隙間があってそこから深い渓谷が見えている。だが、祖谷のかずら橋の場合は橋幅も橋床部の隙間も狭いから、運悪く片足を橋床から踏み外すようなことがあったとしても、そのまま全身まるごと谷底に向かって落下する可能性は少ない。万一両足を踏み外したような場合でも、両手で橋側や橋床のどこかを掴み落ちないようになんとか身体を支えることはできるだろう。
ところがどうだろう、もう誰も渡ることのなくなった橋とはいえ、この三面川の吊り橋ときたら一風変わった構造になっているから、ちょっと間違ったら、はるか眼下の川底へといっきに叩きつけられる。そうなったら一巻の終わりである。
この吊り橋の構造を大まかに理解するには、鉄道のレールと枕木があってその両側にワイヤーロープがレールと平行して何重かに張ってあるといった状況を想像してもらうとよいだろう。枕木にあたるこの橋の橋床(横木)は十センチ角、長さ二メートルほどの角材であるが、横に敷かれた角材と角材の間隔もゆうに二メートルほどはあるから、もちろん、人間が次々にそれを跨いで踏み渡ることは不可能である。オリンピック選手並みの跳躍力とサーカス団員顔負けのバランス感覚を合わせ具えもつ者が危険覚悟で飛び移ればなんとかなるかもしれないが、普通の人間がそれをやったらたちまち眼下の渓谷への転落はまぬがれない。
ところで、その枕木にあたる横木の上にはやはり十センチ角ほどの角材が二列平行して敷き並べられ、ちょうど二本の太目のレールと同じ格好で橋の上を対岸までのびている。そしてその木のレールとレールの間は大人が大股を開くとなんとか届くくらいの幅になっている。それら二本のレールに左右の足先をかけて立った場合、むろん身体の下はスケスケの空間になるわけだから、ちょっとバランスを崩したらその瞬間に「はい、サヨナラ」となってしまうこと請け合いだ。要するに、二本のレールの間には幅十センチの角材を仕切り枠にして、1m×2mほどの長方形の空間が縦方向に幾つも並んでいるのである。むろんそれぞれのレールの外側も0.4m×2mほどの長方形の空間が同様の状態でずらりと並んでいるわけだ。ぽっかりと口を開ける個々の長方形空間の真下には青い水を湛えた渓谷が待ちうけているだけである。高度恐怖症の人などは話を聞いただけで身震いがしてくるかもしれない。
初めてこの橋を目にした人などは、横木と横木の間、木製レールとレールの間をカバーする橋床材がもともとはあったが、それらが失われ現在では渡橋不能になったと早合点してしまうかもしれない。だが、実際にはこの橋はもともとそんな構造になっているのである。たぶん、気象その他をはじめとするこの地の特殊な自然条件や生活条件のゆえに、人々が知恵と工夫を凝らした結果、このような構造の吊り橋が最適とされるにいたったのであろう。
ところでいったいこの橋をどうやって渡るのか?……もちろん、幅十センチほどの木のレールの上を渡るのである。橋側に何本か張られたワイヤーロープの適当なものを片手で軽く掴みバランスを取りながら吊り橋を渡るのだ。中空に何台も並べた平均台の上を渡るようなものである。橋長も三十メートル前後はあるだろう。木製のレール、すなわち二本の平行な細い木道が設けられたのは、かつてこの橋を日常的に利用していた人々が橋上で無理なくすれ違えるようする必要があったからに違いない。心理的にみても一本レールよりは二本レールにしたほうが安定感もあったのだろう。
問題の木製レールの幅はトレッキングシューズの幅より狭いから、左右の足を交互に入れ換えながら進む際、足を滑らせないように細心の注意を払わなければならない。右側のレールに乗った私は、水平方向に張られたワイヤーロープのほどよい高さのものを選んで軽く右手で掴み、バランスを取りながら橋上に踏み出した。橋の真中方向に進むにつれ、久しぶりの渡橋者の姿に歓喜するかのごとく橋全体が軽い軋(きし)みをたてて上下動しはじめた。折からの陽光を浴びて青々と輝く眼下はるかな三面川渓流は、「いつでもこちらにおいでおいで!」と、甘い言葉で誘いかけている。しかし、何物にも換え難いこのスリルこそが吊り橋渡りの醍醐味である。悪ガキの頃、田舎の川にかかる一枚板の橋の真中に立って橋板を思い切り振動させ、川に落ちないように身体ごと共振しながらバランスをとって遊んだ記憶などが、一瞬脳裏に甦ってきた。
もう保守が行われていないせいで、レールーのところどころが腐っていた。さすがにそんなところでは細心の注意を払って足元を確かめはしたが、渡れないというほどのことではなかったので蛮勇をふるって先へと進んだ。左手のレールを渡ってきているうしろのAさんに折々声をかけつつ橋の中央付近に先に到達し、そこで足を止めて後方を振り返ると、彼女はそんなにひるむ様子もなく、むしろ渡橋のスリルを楽しむような足取りで一歩一歩こちらへと近づいてきている。並みの女性ならとてもこうはいかない。むろん、彼女の気性をわきまえている私は、いっさい手助けなどしなかった。それにしても、いったいそのチャーミングでしなやかな姿態のどこにこんな向こう見ずに近い行動力が秘められているのだろう。彼女には女性としてのこまやかな一面が人一倍そなわっていることも知っているだけに、内心私は不思議な感動を覚えながらその姿にしばし見入る有様だった。
吊り橋の真中付近に立って眼下に見おろす三面川の流れは、どこまでも青く澄みきって清らかそのものだった。ほどなくこの橋もろとも一帯が湖中に水没するなんてとても信じられないことである。こんな構造の吊り橋はたぶん国内のどこを探してももう見つからないだろう。なんでもない廃橋に見えはするが、この橋自体が立派な民俗文化財ではないか。そう思うと、なんともやり場のない哀しみが胸の奥に込み上げてきた。
「こんなことやってるところ誰かに見つかったら、危険だって怒鳴られるんでしょうねぇ」
「たぶんね……でも、もうこの橋を見にくる人なんか誰もいないんじゃない」
我々は橋上でそんな会話を交わしながら、いったん対岸へと吊り橋を渡り切った。対岸の橋のたもとからは、もうほとんど利用する者がいなくなった昔ながらの細く急な山道が傾斜の大きな山の斜面を縫って上方へとのびている。そのすぐ左下方には細い沢筋から三面川渓谷本流に向かって流れ落ちる小さな滝があって、爽やかな水しぶきと水音をたてていた。
もう一度橋を渡って戻る途中でせっかくだから写真を撮っておこうということになり、いったん車に戻ってからAさんのカメラを持ってまた橋のなかほどに立った。もともと二人ともチャレンジ精神が人一倍旺盛だったこともあるが、それにしても慣れとはおそろしいもので、いったん橋の振動のリズムをつかみバランスの取り方のコツをおぼえてしまうと、もうかなりの速さで移動しても平気である。大きく両脚を開いて二本のレールに左右それぞれの足先をかけ、両手でカメラを構えてもどうということはなくなった。被写体のAさんのほうも橋上での身のこなしの呼吸をすっかり体得した感じだった。
「こんな写真、親には絶対見せられませんねえ……」
いたずらっぽく微笑みながらそう呟く彼女の声を聞きながら、うーん、恋人やボーイフレンドが見たって卒倒しちゃうんじゃないかなあ、それに、こんな勇猛果敢な一面を目にしたんじゃ並みの男だとしりごみしちゃうかもしれないななどと、半ば冗談まじりで考えたりもした。ただ、状況から判断して、たぶんこの吊り橋を渡ったのは我々が最後だったはずである。その意味からすると、「三面川吊り橋最後の渡橋者」となった彼女の大胆な振る舞いは、十分記念に値するものだったと言えるかもしれない。
<森の古木の運命は?>
車に戻った我々は、さらに上流方向にむかって走り、ススキの穂に覆われた細い旧道を詰めあげた。そして車止めのあるその最終地点で下車すると、簡単な用具だけを入れた軽ザックを肩にしてさらに奥へと歩きだした。道はすぐに細い山路に変わり、ほどなく一面がススキの原になっている場所にでた。おそらく昔は耕作地だったのだろう。ススキの原の向こう側に目をやると、見事な栗林が広がっている。反対側の山の斜面や藪地にもたくさんの栗の大木が生えているのが目にとまった。よく見ると、収穫にはまだちょっと早い感じだが、栗が無数になっている。山栗の一種で実は小粒だがこの手の栗は味がよい。奥三面の集落に人が住まなくなったいまでは、栗を採りにやってくる人もいないのだろう。
試しに道のすぐ脇に落ちていたまだ青いイガだらけの栗を拾って外側の殻を両足で潰し割り、中の実を歯で噛み割って白い中身を生のままかじると、甘くてなかなかいい味がした。山栗はそのままでも結構美味いのだ。ついでだから、向こうの大きな栗林のところまで行ってみようということになり、軍手をはめ持参の鎌を手にしてススキの原に分け入った。だが、密生したススキは背丈をはるかに超え、様々な蔓草や潅木からなる藪は思いのほかに深くて進むのは容易でなかったし、あとから健気についてくるAさんも楽ではない様子だった。
鎌でススキや刺のある蔓草類を切り払い身体中蜘蛛の巣だらけになりならが、それでもなんとか栗林の一番手前のところまではたどりついた。高々と枝を広げる栗の大木を見上げてみると、ふんだんに実をつけてはいるものの成熟するまでにはもう少し時間がかかりそうである。それに、いまでは樹下の一帯が深い藪地に変わってしまっているから、たとえ収穫期になったとしても、落ちた栗を拾うのは容易なことではなさそうだ。おそらく奥三面集落の人々が立ち退いてからは、秋になると無数の実をつけるこの見事な栗林も見捨てられ、このように荒れた状態になったのだろう。しかし、この大きな栗林もほどなく水底に沈んでいく。
それ以上栗林の中へと分け入っても仕方がないと判断した我々は、再び藪を掻き分けて山道へと戻り、さらに渓谷の奥へと向かってあるきだした。しばらくすると、左手の山腹から湧き出た清冽な水の流れる小さな沢にでた。この奥三面の谷には澄んだ水のほとばしるこのような小沢が数多く散在している。もちろんそのまま飲んでも差し支えない。さっそく私は手を洗いついでに口に水を含んでその味を確かめ、それからいっきにそれをごくりと飲み込んだ。
このあたりの沢には清流を好む小型の赤蛙が生息している。この蛙は筋力も抜群で体型も小型で細身だから、その動きは実に素早い。人が近づくと目で追いかけるのが難しいくらいの速さで逃げ出し、手近な穴や岩陰に身を隠してしまう。うまく手で捕まえても、まるでウナギかドジョウのようにするりと抜け出し、あっというまに姿を消してしまうのだ。その赤蛙が、まるで水平飛行する超小型ロケットのような勢いで私の眼前をよこぎっていった。
その沢を横切るとすぐに天然の巨木の生い茂る深い林のなかに入った。そこから先は道幅が急に狭まり、人ひとりがやっと通れるような本格的な登山道となった。この道は三面川のまだずっと奥にある赤滝を経て、朝日山系主稜の一角をなす以東岳方面へと通じている。今回は登山が目的ではないし、それなりに時間的な制約もあったから、四、五十分ほど奥まで歩いてそこから引き返すつもりだった。
この山道は、三十メートルはあろうかとおもわれるブナ、トチ、ホウ、ナラなどの大木が鬱蒼と茂る森の斜面を縫うようにして谷奥へとのびている。右手の斜面は急角度で三面川へと落ち込んでいるが、その斜面一帯に生えているのもいずれ劣らぬブナやトチ、ホウ、ナラなどの巨木ばかりで、まるでそれぞれの木々が何百年間もこの地に根を張り生きながらえてきた誇りを高らかに謳いあげているかのようであった。どのあたりまでが水没ラインかは定かではなかったが、ダムが満水になればこれらの巨木群のうち谷筋に近いところにあるものは皆水没してしまうはずである。
我々は時折立ち止まってはブナやトチの大木の枝先をはるかに眺め上げ、さらにはその太い幹や根を手で撫でたり叩いたりしながら、無言にしてしかも雄弁なこの森の長老たちとの心の対話を楽しんだ。だが、最後に、先史時代以来、絶えることなく数多くの人間たちに命の水を恵んできたこれら森の主たちに生命の危機が迫っていることを伝え、お別れの言葉を告げなければならないことは、なんとも忍びないかぎりであった。
<幻夢の三面川渓谷>
もともとそのつもりはなかったのだが、しばらく山道を進んでいるうちに急に思い立った我々は、比較的傾斜の緩やかな斜面を選んで巨木の密生する林の中を縫い潜り、三面川渓谷の河原へと降りてみることにした。枝木や低木の藪を押し分けて山道から高度差にして少なくとも五、六十メートルは下った頃だろうか、眼前に突如として青々と輝き揺れる三面川の水面が現れた。まるで何物かに誘われるようして谷底へと降りてきたのだが、そこで我々を待っていたのは信じられないような美しい光景だった。
対岸はそそり立つような絶壁になっており、その上部は一面深い樹林に覆われていたが、我々の降り立った側には大小無数の玉石と白い岩肌の岩盤からなるちょっとした河原があった。そしてその河原に寄り添うようにして三面川が流れていた。流水部の川幅は二、三十メートルほどだろうか、川底が一面キラキラと銀白色に輝いている。澄んだ青白色の光を放って揺れ動く透明な水の流れをなんと形容したらよいのだろう。三面川の水の清らかさは昔から有名ではあったが、それにしてもこの水の色は驚愕に値する。私はあらためてその美しさに感動せざるをえなかった。この夏の終わりに私は清流で知られる四万十川源流域を訪ね歩いたが、敢えてこの三面川源流域の限られた一帯だけと比較するなら、こちらのほうが上かもしれない。
川の半ばからこちら寄りは浅瀬になっているが、対岸側の大部分はかなり深い淵になっている。ただそれでも、崖の直下のあちこちには浅いところがあるようだった。上流のほうを見渡すと、そちらは川全体が砂地か玉砂利の浅瀬になっているようで、その気になれば歩いて遡行できる感じだった。下流のほうには浅いがちょっとばかり急流になっているところがあって、そこのところだけはさざ波が起こり、川面全体が純白色に泡立って見える。谷間の上空の雲が切れて青空がのぞき、昼下がりの陽光が燦々と降り注ぎ始めると、流れる水の輝きはただもう幻想的としか言いようのない彩りに変わっていった。
我々はジーンズの裾をたくしあげ、裸足になって川の中に入ってみた。さすがに水は冷たく、しばらく浸かっていると足先がしびれてくる感じだった。だが、不思議なもので、何度か水中に出入りしているうちに身体が水温に慣れてきて、そんなに冷たさを覚えなくなった。Aさんが、水着を持ってくればよかったと言い出したのはその時である。幼少期に川で泳いで育ったという彼女にすれば、こんな澄み切った川を目にすると体内の血が騒ぐのだろう。南海の島育ちのゆえに、綺麗な海を見たらどこであろうと泳ぎたくなる癖のある私には、その気持ちはよくわかった。
だが、そもそも道もないこの河原に降り立ったのは偶然の成り行きだったわけだし、私が一人のときならともかく、若い女性を案内している最中に三面川で泳ごうなどとはさすがに考えてもみなかった。だから、車には常備してある水泳パンツも水中眼鏡も持参してはこなかった。旅先で露天風呂などにはいるときのために彼女も水着は持参していたらしいのだが、むろん車中に残してきたままであるという。
Aさんはしばらく佇んで三面川の川面をじっと見つめていた。それから、「この陽射はまだ翳ることはないですよね?」と尋ねかけてきた。その言葉の意味をあまり深く考えなかった私は、「この天気だったら大丈夫なんじゃないかな」と生半可な返事をした。すると、驚いたことに、次の瞬間、「じゃ、このまま、川にはいります。ちょっとはしたないかもしれませんが、目をつぶってください」と言い残した彼女は、服を着たままザブザブと川の中へと歩き出したのであった。
止める暇もあらばこそ、呆気にとられる私に背中を見せながら、彼女は徐々に水中へと身を沈めていく。人工物のかけらさえない河原、青く煌き輝く清流、渓谷を取り巻く深い森、澄んだ大気と明るい太陽、そして服を着たまま川の深みへと歩いていく後姿の若い女性、それはもう映画の美しいワンシーンそのもの、いやそれ以上の光景であった。三面川の谷奥に棲む聖霊が惜別の情を込めて演出した一篇のドラマだったと言ったほうがよかったかもしれない。いくら行動的な女性であるとはいっても、彼女がそれほどまでにこの川に魅了されたのは、ほどなく沈みゆくこの谷が最後に見せるこのうえなく華麗な装いのゆえだったのだろう。
ついには首まで深々と水中に身を沈めた彼女は冷たいと言って身を震わせながらいったん河原にあがってきた。その姿はなんともいとおしく、しっかりと抱きしめてキスのひとつもしてやりたい気分ではあったが、そこはこちらも紳士(?)の端くれくらいの自制心は持ち合わせているゆえに、ぐっと理性をはたらかせて己の感情を抑え、次に取るべき行動を考えた。この機会を逃したら、水没するこの付近の谷では泳ぐことは不可能だ。そうだとすれば、この際、こちらも一緒にこの場で泳いでみるのがベストだろう。彼女と同様に着衣のままでと決断しかけたが、幸いというべきか、このとき私はたまたま厚手のトランクスをはいていたことを思い出した。
そうとわかったらトランクス一枚になって泳ぐにかぎる。ジーンズとシャツをすぐさま脱ぎ捨てた私は、そのまますぐに水中に入った。確かに冷たい。しかし、意を決して深い淵のほうへと泳ぎ出し、結構速い流れを横切って対岸側に渡ると、もう水の冷たさは感じなくなった。それにしてもほんとうに綺麗な水である。
私の様子を河原の側から見ていたAさんは、浅いところを選んでこちらに向かって泳ぎ出した。ところが、案外流れが速いうえに、上下衣服を着たままときているから水の抵抗がかなり大きい。だから思うようには身体を動かせず、深みのほうへと流されかけた。やばいと思って飛び込みかけたが、懸命に泳いでいる彼女の顔を落着いて見やると、私の立つ淵のところまではなんとかたどりつけそうである。そこで身体が流されないように足を踏ん張って大きく手をのばし、顔を赤くして近づいてくる彼女の手を握り思いきり引き上げた。ちょっとだけ水を飲んだ感じだったが、幸いその身に変わりはないようだった。
いったん河原に戻ったあと、今度は少し上流のほうへと流れの端に沿ってのぼってみた。その一帯は川全体が膝ほどの深さの広い浅瀬になっており、水底は一面がきめの細かい真っ白な砂地で、足裏に伝わる感触の心地よいことはこのうえなかった。いま想い返してみても、それは幻のような出来事としか言い様がない。しばらくそこで遊んだあと、私のほうは流れに乗って深い淵をいっきに泳ぎ下り、もとの河原近くでAさんが戻ってくるのを待った。彼女のほうは上流の浅いところでしばし泳ぎを楽しんでいる様子だった。
陽光を浴びながら身体を乾かしていると、突然、背中や腹部、太腿などに痛痒い感覚が走りはじめた。何だろうと思ってよく見てみると、なんと大小の虻が何匹も皮膚のあちこちに食らいついているではないか。慌てて数匹を叩き落としてはみたが、次から次に新手の虻どもがやってくる。叩き潰すほどにその数が増えるのは、かすかな血の匂いにも彼らの嗅覚が鋭く反応するからなのだろう。かくして私は虻どもとの思わぬ戦いを強いられる羽目になってしまった。考えてみると、朝日山系一帯は虻が多いことで知られている。とくに秋のこの季節に動物の血をどれだけ吸うことができるかによって繁殖力に違いがでるから、虻どもだって必死である。まあ、 自然が豊かなことの証ではあるからやむをえないことなのだが、ここぞとばかりに餌食にされたほうはまずもってたまったものではない。
そうこうするうちに満ち足りた表情でAさんが戻ってきたが、なんと彼女のほうは、濡れた衣服で身体が覆われているせいか虻の洗礼などほとんど受けていないらしい。彼女が少し離れたところにある大きな岩陰に身を隠し、ゆっくりと衣服の水を切ったりシャツを着替えたりしている間に、私のほうも大急ぎで濡れたトランクスを脱ぎ、ジーンズとシャツを着込んだ。これで虻軍団の攻撃を防げると思ったのだが、なんと、いったん味を覚えた虻どもの中にはシャツの上から刺すものまで現れる始末だった。
虻どもによる洗礼は、清らかな三面川を泳いで水を汚したことに対する山の神の懲らしめと考え、その懲罰に甘んじることにしたが、虫刺されには相当強い体質の私でもそのごしばらく身体中のあちこちが痛痒かった。東京に戻ってからじっくりと数えてみたら、なんとまあ、虻に食われたあとが二十数カ所もあった。栄誉の文化勲章ならぬ「泳与の虻禍勲章」といったところである。
Aさんのはくジーンズは濡れたままだったが、彼女はこちらの心配をよそに平然としていた。もっとも、下手に心配したからといって脱いで歩くわけにもいかないだろうから、彼女のほうも毅然として振る舞うしかなかったわけだが、その環境適応能力はたいしたものである。昨今の若い女性には珍しいその自然への対応力に返す返すも私は敬意を表したくなった。
我々は再び谷の斜面を踏み分け登って山道に戻り、そのあと何度か小さな沢を渡りながらさらに奥まで二十分ほど歩を運んだ。そして赤滝のある三面川最奥の沢筋やその向こうに聳える山々の見えるところまで行き、その地点で引き返すことにした。帰り道、長い無数の体毛が銀色に輝く珍しい毛虫を見つけて指差すと、Aさんは細い木の棒を拾ってきてその先で毛虫を軽く突つきながらその様子を興味深そうに観察していた。もしかしたら大型の蛾、シンジュサンかクスサンの幼虫かもしれないと思ったが、いまひとつその正体ははきりとは分からなかった。
無事車に戻り着くと、Aさんはさっさと近くの林の奥へと一人姿を消し、素早く濡れたジーンズを短パンにはきかえて再び私の前に現れた。名残惜しくはあるが、あとは奥三面の谷に最後の別れを告げ、一路東京へと向かうのみである。村上市の郊外にある瀬波温泉に立寄って一風呂浴びてから新潟に出て、関越道経由で夜遅く東京に戻りつくことにした。
三面川渓谷の澄んだ流れよ、美しい河原よサヨウナラ!、水没するブナやトチの大木たちよサヨウナラ!、ナラ林よ、栗林よサヨウナラ!、スリル満点の吊り橋よサヨウナラ!、元屋敷縄文遺跡群よサヨウナラ!、そして奥三面の大きな谷よサヨウナラ!……また会う日までと言いたいが、いま走っているこの道路をはじめ何もかもが皆湖底に沈んでしまうとあっては、もはやそれもかなうまい。ただ、湛水開始まであとわずかしかないというこの日に、ささやかなりともお別れの言葉を伝えにくることができたことだけはせめてもの救いであったかもしれない。
なんともやり場のない思いを胸の内で噛み締めながら、我々は来た時と同じ道を逆にたどり奥三面の谷をあとにした。この日にはもう撤去されてしまっていたが、つい先日までこのダムの工事現場の近くには、「清らかな三面川、事故で汚すなダム仲間」と大書した大きな横断幕が張られていた。誰が考え出した標語なのかわからなかったが、私はその自然讃美の裏側に潜む無神経さに呆れ果て返す言葉もない思いだった。奥三面から朝日スーパー林道方面へと抜ける新設のトンネルを走りながら、なぜかいま一度その珍妙な標語のことを想い出した。たぶん、ここ三十年来の我が国の大規模公共事業と建設行政の実態をこれほどに象徴している言葉はないと感じたからだろう。
湛水が終わって奥三面ダムへの交通規制が解除され、再びこの地を訪れることができるだろう頃には、我々がこの日に目にしたもののほとんどは水底深くに沈んでいる。その時には、奥三面ダムを消滅した美しい谷々の、そしてさらには掛け替えのない民俗文化の墓標と考え、静かに祈りを献げようと思う。また、そのことを通して、ともすれば忘れがちな己の傲慢さを反省し、 自らを含めた人間の卑小さを再認識するように心がけたいと考える。
2000年10月4日