初期マセマティック放浪記より

141.北旅心景・フェリーあざれあ号

六月の夏至の日、私は新潟と小樽を結ぶ日本近海フェリー、あざれあ号のラウンジにあって、前方の海をひとりじっと見つめていた。午前十時半に新潟港を出たあざれあ号は凪いだ日本海を滑るように走り、ひたすら北へと向かっていた。全長百九十五メートルの大型フェリーは少々波があってもびくともしない。まして、このように波の穏やかな日の航海とあっては、微かなエンジンの響きをのぞいて揺れらしいものはまったく感じられなかった。

正午前、船は粟島の西沖に差し掛かった。右舷の展望窓ぞいのシートに移り、細長い粟島の影を眺めやっているうちに、早朝五時に起こされ、宿屋近くの浜辺で食べさせられた同島名物「ワッパ煮」のことを想い出した。そのせいばかりでもなかったろうが、急に空腹感を覚えたので、まずは腹ごしらえをと思い、レストランに入ってラーメンを注文した。それなりの設備をもつ船内レストランゆえ、もうちょっと洒落たメニューもあったのだが、なぜか無性にラーメンが食べたかった。

午後一時半、東方はるかにひときわ大きな山影が見え始めた。まだ残雪を戴いたその美しい山容からして、それは鳥海山に違いなかった。本土より遠く離れた海上から、こうしてその雄大な姿を仰ぎ眺めてみると、いにしえの舟人たちが鳥海山を航海の目印にしてきたことの意味がよくわかる。嵐の日など、ようやくのことで鳥海の山影を視界に捉えた昔の北前船の船乗りたちなどは、これで無事に酒田に入港できると、安堵の胸をなでおろしたことだろう。

右舷前方から右舷後方へとしだいしだいに姿を移してゆく鳥海山を遠望しながら、ふと思い立って、山形県村山市の知る人ぞ知る蕎麦屋、「あらきそば」にお礼の電話をかけてみた。常々ひとかたならぬお世話になっている蕎麦屋さんで、過日、朝日山系を訪ねた帰りにも立ち寄らせてもらい、絶品と評判の高い蕎麦と身欠き鰊とをお腹一杯御馳走になった。そのうえ、お土産にと、地元の無形文化財の方が漉いた楮紙や沢山のサクランボまで頂戴してしまった。当主の芦野又三さん御夫妻も、そして若主人の芦野光さん御夫妻も実に素晴らしいお人柄の方々である。その御人徳もあって、あらきそばを訪ねる人はいまも絶えることがない。

陸地から遠く離れたこんな海上で携帯電話が使えるものかかどうか確信はなかったが、実際にかけてみると、うまく通じた。もしかしたら、その時の船の位置が、鶴岡や酒田といった庄内平野都市部の沖合いであったことも幸いしたのかもしれない。たまたま当主の芦野又三さんが電話に出てくださったので、恐縮しながら鄭重に過日のお礼を申し上げておいたが、山形県庄内平野の西方はるかな沖合いから、月山連峰の向こう側に位置する村山市の芦野さんと話をするというのは、不思議な感じのするものだった。そのあと自宅や二、三の友人にも電話をかけてみたが、やはり音声は明瞭そのものだった。

そうこうしているうちに飛島の影が見えはじめた。細長い台形をしたその島影は、私の心中に棲む旅の虫に無言で何事かを囁きかけているかのようだった。飛島はまだ一度も訪ねたことのない島のひとつである。船が北に進むにつれて、徐々に雲が切れてきて、その合間からところどころ青空がのぞきはじめた。午後六時前後、船は荒磯の露天風呂「不老不死温泉」で名高い黄金崎の沖合いに差し掛かった。その背後に聳えるのは白神山地にほかならない。雪深い白神山地のことだから、山頂に近い一帯ではいまちょうどブナの若葉が艶やかな緑を誇示しながら、美しく芽吹いて

じっと目を凝らすと、本土の海岸線の一角に白く小さな建物の影らしいものが見えた。荒磯の露天風呂の背後には白亜のホテルが建っていたから、たぶんそのあたりが黄金崎に違いない。数年前、私が若狭の画家、渡辺淳さんと黄金崎の不老不死温泉を訪ねた時は大荒れの天候だった。ひどい雷雨の中、湯船のそばまで激しく打ち寄せる荒波を眺めながら、なんと三時間も湯の中につかりっぱなしだったことなどが懐かしく想い起こされた。晴天の日の夕刻、不老不死温泉の露天風呂から望む夕陽は最高だといわれるが、湯船に浸かりながら眺める夏至のこの日の夕陽はどうなのだろうかと、しばし想像をめぐらせもした。

午後六時半頃にレストランに出向き、私としては異例なほどに早い夕食をとった。小皿や小鉢に少量ずつ盛られた一品料理をあれこれと選び合わせて食べたのだが、値段の割にはそれなりに満足のいく食事だった。レストランを出ると、左舷の展望窓ぞいのシートに深々と腰を下ろし、日本海に沈む夕陽に見入ることにした。サンセット・ホリック(?)の身としては当然の行動で、夕食を早目にとったのも日没時刻を計算に入れてのことだった。

ちょうどフェリーが津軽海峡沖に差しかかった午後七時十五分、太陽は西の水平の向こうへと姿を隠していった。一帯の海面から立ち昇る水蒸気は上空で薄雲に変わる。水平線方向ではそれらの雲が折り重なって見えるため、それらの雲に光を遮られ、落日の影そのものをはっきりと望むことはできなかったが、それでも黄昏の空の色は旅愁を包み深めてくれるに十分な美しさだった。気がつくと、左舷展望窓周辺は乗客たちであふれていた。船上から見る夕陽にそれぞれの人生の想いを重ね托しながら、彼らは皆深い感慨にひたっているようでもあった。

ウミネコやケイマフリの繁殖地として知られる松前小島と、そのかなり沖にある松前大島との間に船が差し掛かかる頃になると、右舷側の海上一面に煌々と輝き浮かぶ無数の点光が現れた。一個一個の青白い光は眩いばかりの明かるさである。それらは、最盛期を迎えたイカ漁の集魚灯の明かりだった。昔の漁り火はどこかもの淋しげな赤くはかない色をしていたものだが、現代の漁り火の輝きは強烈なことこのうえない。

しばらく夜のデッキやラウンジを散策したあと、ふと思い立ってビデオシアターに入ってみた。全部で六十席ほどあるそのシアターの観客は私を入れてたった三人という閑散ぶりだったが、上映中のビデオは、黒沢明の「夢」という懐かしい作品だった。黒沢明の分身とでもいうべき男がいくつもの超現実的な空間に迷い込み、そこで目にした世界を並列的に描き語るという設定の映画で、全体的には現代文明への批判が漂い、いくぶん教訓色の滲み出た感じもなくもない作品である。だが、かつての黒沢ファンの一人として初めてこの映画を見たときにはそれなりの感動はあった。しかも、偶然のこととはいえ、そのラストシーンには、忘れられない想い出があった。

シアターに入ったとき、すでに「夢」の上映はかなり進み、残り三分の一くらいのところに差し掛かっていたのだが、久々にそのラストシーンを見てみたいと思い、隅のほうに着席した。ちょうどその時、スクリーンの画像はゴッホの絵の中に描かれているようなオランダの農村風景に変わった。そしてほどなく、その場面は、幻夢の世界に迷い込んだ若い男が、ヴァン・ビンセント・ゴッホその人とおぼしき人物を捜し当て、短い会話を交わすシーンへと移っていった。

自然の中に美しい絵を探すな。もともと自然はどんなものでも美しい。己の心を込めて自然を見つめれば、おのずからそれが絵になってくる――そんな意味のことをゴッホは男に語りかけたかと思うと、たちまち、いずこへともなく姿を消した。黒沢が作品中でゴッホに語らせたその言葉を一度どこかで読んだような気もするから、もしかしたらそれは「ゴッホの手紙」の中の一文をほどよくアレンジしたものだったのかもしれない。いずれにしろ、私は、その言葉を聞いて「我が意を得たり」という思いになった。

このゴッホの言葉の意味するところは、絵画にとどまらず、芸術表現一般に当てはまる。芸術的な表現にはほど遠い下手な紀行文などを綴る私のような人間は、いまどきそんな文などを書いたところで、いったいそれらが何になるというのだろうという思いに襲われることも少なくない。美景や絶景、珍しい諸々の風物などを克明に伝えるだけなら、この現代、ビデオや写真などの映像技術に太刀打ちできるわけもないからだ。実際、一部の人々などからは、テレビやビデオ、写真などでありとあらゆる事物が紹介されているこの時代に紀行エッセイなど書いてなんの意味があるんですか、と問われることもしばしばなのだ。

そんな状況のもとにあって自分にできることがあるとすれば、己の心と感性のかぎりを尽して各地の自然や風物を見つめ、カメラの目では捉え難い心象風景を描き出すことくらいだろう。心奥のレンズを通して眺めると、ごくありふれた風景や風物の中に隠されている感動的な情景がだんだんと見えてくる。心の眼とその対象物とが共鳴作用を起こし、現実とも幻想ともつかないひとつの心象風景が浮かび上がってくるわけだ。そして画家がそれを絵筆に托すように、紀行を綴る人間は筆に托すということになる。ただ、そうは言っても、旅行記などを書く人間にとって容易ならざる時代であることだけは間違いない。

いろいろと思いをめぐらしながらスクリーンを見つめるうちに、「夢」はいつしかラストシーンに入った。長寿の美しい村があり、その村のそばを清らかな水を湛えた美しい川が流れている。川の両岸には花が咲き乱れ、何基もの大きな水車がゆっくりと回っている。この村では、長寿を全うした者が死ぬということは大変にめでたいことだとされる。村人総出の葬儀は、楽隊が先頭に立ち、全身を花で飾った若い女の子たちがにこやかな笑顔で踊りながらそれに続くといった、この村独特のお祭りムードに包まれる。そして、ヤッセー、ヤッセー、バンバカバンという掛け声と楽隊の奏でるリズムに乗って、美しい川伝いにお祭りなみの葬儀の行列が進んでいくところで映画は終わる。

この作品のラストシーンに深い想い出があると書いたのにはちょっとした訳がある。まだこの「夢」という映画が公開される前のことだが、私は、安曇野の一角にある穂高町のJRの駅前で当世稀なる奇人のひとりと偶然に出逢った。石田達夫というその老人(拙稿、「人生模様ジクソーパズル」や「十三日の金曜日に」で取り上げた人物)は、出逢ってすぐ、穂高町の大王ワサビ園の近くにある川のほとりに私を案内してくれた。毒舌の塊のようなその老人は、大王ワサビ園のほうを皮肉混じりにけなしながらも、この川だけは実に素晴らしいと手放しで褒め称えもしたものだった。

その地点でほぼ直角に流路を変えるその川は、澄み切った水がとうとうと流れ、水中では美しい緑の川藻がゆらゆらと揺らいでいた。川の両岸は草花と深い天然の木立に覆われ、それはまるで西洋の風景画そのものような光景だった。いまでもこんな川らしい川があったのかと私は感動したものだが、犀川の支流穂高川のそのまた支流にあたる万水川というこの川こそ、「夢」のラストシーンに登場した川だったのだ。のちになって映画館で「夢」のラストシーン目にしたとき、私は、あっ、あの川だと思わず息を呑んだものだ。

小樽へと向かうこのフェリーの上でまさか「夢」のビデオを見ることになろうとは、さらにまた、それを通して穂高の石田翁のことを偲ぶことになろうなどとは、それこそ夢にも想っていなかった。しかも、石田翁は、戦前の一時期、小樽、天津、基隆を結ぶ三角航路の貨客船に乗っていたこともある人物だったから、私はその不思議な因縁にしばし言葉もでない有様だった。

午後十時頃、あざれあ号は奥尻島と渡島半島との間に差し掛かった。右舷側も左舷側も前方も後方も船の周りはすべて集魚灯で埋め尽くされた感じだった。一帯の海上は一面驚くほどの明るさである。それらの集魚灯群の中を掻き分けるようにしながら、あざれあ号はしずしずと微速前進していった。

それから一時間ほど、左舷の窓ぞいに配置された椅子とテーブルを占拠し、次第に後方に過ぎ行く奥尻島の民家の明かりを遠く眺めやりながら、ノートパソコンを開いて原稿の整理をした。そして、午後十一時半客室の上段ベッドに潜り込み眠りに就いた。小樽到着の予定時刻は翌朝の四時十分だから、わずか四時間足らずの睡眠ではあったが、眠らないよりはましというものだったし、船内ベッドの寝心地もそれなりに快適だった。
2001年7月11日

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