初期マセマティック放浪記より

200.旅の始まりは講演で

八月下旬のある日の午後、茨城県友部町にある同県の教育研修センターへと出向いた。この世の中というものはなんとも気まぐれにできていて、折々、私のようなわけのわからぬ漂流人間の話を喜んで聴いてくださろうという教育関係者があったりもする。今回私が依頼を受けたのは茨城県高等学校長研修会での講演で、同県下の公立高等学校の校長先生方を前にして、「私の歩いてきた道」という演題のもとにあれこれと話をさせられるハメになった。ずらりと居並ぶ高等学校長を相手にそんな演題で無責任な話をするほうもするほうであるが、私みたいないい加減な人間を校長研修会に呼んで、そんな話をしてほしいと依頼するほうも依頼するほうであるとおもわれた。

状況が状況だったので、いつもながらのTシャツにジーンズという出で立ちで演壇に立つのもどうかとおもい、私なりに気を遣って上下のスーツにネクタイという格好で茨城県教育研修センターへと向かった。フリーランスに転じてからは、スーツを着用しネクタイを締めるということなど滅多にないから、全身が硬直した感じになり、このぶんだと自分の吐く言葉の一語一句までがガチガチに固まってしまうのではないかという危惧さえもあった。だが、山内センター所長、小貫センター次長、講演企画担当の永塚教育指導主事、さらにはこのAICの熱心な読者でもあるという松延教育指導主事などの温かい対応もあって、そんな心配はたちまち吹き飛んでしまったのだった。

講演の依頼をうけたとき、プロフィールはどうしますかと永塚指導主事に尋ねられ、「めんどうですから、さすらいの旅人ライターということにでもしておいてください」と半ば冗談に答えておいたところ、研修会参加の校長先生方にあらかじめ配られた資料中においても、私については実際にそういった感じの短い紹介だけがなされていたようである。なるべくアット・ホームな雰囲気のなかで、自然体のままに講演ができるようにとの研修センターサイドの配慮があってのことだったのだろうが、お蔭でこちらも、そんなことならスーツ姿でなんか来るんじゃなかったとおもうほどに気が楽になり、ずいぶんと開き直った感じで当日の話を進めることができた。

その日がたまたま人生の境目ともいえる誕生日の翌々日だったこともあって、この際自分の生き恥を洗いざらい曝してみるのもいいのではないかと思い立ち、それなりに覚悟をきめて演壇に上ったようなわけだった。そして、長年の間胸の奥に封印してきた我が身にまつわる悲喜こもごもな過去の出来事などを教育問題や社会問題などに面白おかしく絡めながら、私なりの思いを喋らせてもらうことになった。長くなるので具体的な話の内容は割愛するが、こちらもすっかり腹をくくり、とても教育的とは言えない体験談などをもあれこれと交えながらの講演となったような次第だった。

ただ、そのことが逆に幸いしたとみえ、会場の校長先生方も皆さん襟を開き、折々笑い声をあげながら私の拙い話に聞き入ってくださった。漫談につぐ漫談だけで通すのもどうかとはおもったので、自分の言語形成や思考形成、さらには思想形成のプロセスなど多少は教育に絡むことなどについても話を広げたのだが、正面きって仰々しくそんな問題だけを取り上げるのではなく、自然な流れをつくってさりげなく話題を深めるように心がけたことが、多少なりとも効を奏する結果にはなったのかもしれない。

会場の空気をなごますために講演の冒頭などで講演者が飛ばすジョークのことを英語でicebreakerなどというが、講演者と聴衆の双方が異様に緊張し冷たい空気の漂う講演会場などにおいては、このicebreakerのはたらきはとくに重要だといってよい。うまくそれを使いこなせるかどうかによってその後のスピーチの成功度が左右されることだってあるだろう。まだまだicebreakerの活用に未熟な私などは、下手なスピーチを続けながら、もっとその使いかたに習熟する必要があると内心で反省もする有様だった。

会場の隅のほうにありながらも、熱心に私の話に耳を傾けてくださっている女性の校長先生方の姿もたいへんに印象的であった。私が高校生の頃までは、公立高校の校長を女性の先生が務めるなどということはほとんど考えられないことであったが、女性の社会進出が目覚しい昨今、我が国の教育界の状況は確実に変化してきているようである。ともすると旧来的な発想に縛られ硬直してしまいがちな教育界に、男性社会の淀んだ空気を一掃する新風が吹き込むのはおおいに歓迎すべきことだと、それら女性の校長先生方の大いなる活躍を心の底から祈らずにはおられない気持ちであった。

――この講演を終えたらすぐに私は駐車場の車に戻り、ネクタイをはずしスーツを脱いでTシャツとジーンズに着替えます。そしてそれから、福島、宮城、山形方面を目指して北上するつもりです。極力経費を節約した車で寝泊りの旅ですから気ままなものなのですが、そのぶん成り行きまかせにもなりますから、実際にこのあと何処をどう旅することになるのかはわかりません。近年は旅というと海外旅行と相場がきまっているようですし、紀行文なども海外ものがほとんどのようなのですが、なぜか私は日本の旅にこだわっています。ひとつには、日本語による表現の対象としてはやはり日本の風土がもっとも相応しいと、かねがね考えてきているからなのかもしれません。また、どんな小さな日本の風景にも世界のあらゆる風景に共通するもの、換言すれば、世界中の風景の縮図とでもいうべきもが秘められているとおもうのです。そんな風景の縮図を見つけ出し、その本質を的確に描写することができないとすれば、結局、私には紀行文など書く資質も資格もないということになってしまうでしょう――最後にそのような意味のことを述べて、私はこの日の講演をなんとか無難に締め括った。

講演が終わるとすぐに、山内洋行研修センター所長と松延和典教育指導主事のお二人の先導で講演会場から車で一走りしたところにある笠間日動美術館に向かうことになった。講師控え室に戻るいとまもないままの移動で慌しいかぎりではあったが、二、三人の女性校長を含む数人の方々の鄭重なお見送りをうけながら、私は茨城県研修センターの玄関をあとにした。

友部町と隣り合う笠間市の一隅に位置する笠間日動美術館では、たまたま富士山をテーマにした写真展が催されていた。展示されている七十余点の作品は皆アマチュア写真家による写真ばかりなのだそうだったが、どれもが偶然と幸運の導きとしか言いようのない一瞬のシャッターチャンスに恵まれなければ到底撮影不可能な、奇跡にも近い素晴らしい作品ばかりであった。案内に立ってくださった同美術館事務局長の中原昭さんの話によると、当初はもっと展示点数を絞り込もうとおもったが、残ったものはいずれも甲乙着け難い感動的な写真ばかりなので、結局それらの作品すべてを展示することにしたのだという。

たとえ狙っていたとしても成功する可能性は極めて低いに違いないこの種の風景写真の撮影は、プロの写真家にとってよりも、むしろ、生涯に一度あるかないかのチャンスに賭けるアマチュア写真家に向いた仕事ではあるのかもしれない。それにしても、おなじ富士山が季節や気象条件さらには時刻の変化などに応じてこれほどに多様な顔や姿を見せるとは、かねがね様々な角度から富士山の眺望を目にしてきている私にとっても大きな驚きであった。

それらの写真を一枚いちまい眺めながら館内をめぐるうちに、これは霊峰富士の隠しもつ内なる世界の果てしなき旅路そのものにほかならないという想いが湧いてきた。講演の結びにおいて、「どんなに小さな日本の風景にもあらゆる世界の風景に共通するもの、換言すれば、世界中の風景の縮図とでもいうべきものが秘められている」と述べてきたばかりだったが、まさにそのことを象徴するような富士山の風景写真展ではあった。一足先にこの写真展会場に足を運び同様の感慨を懐いておられた山内センター所長は、是非その感動を分かち合いたいというわけで、多忙な時間を割いてわざわざ私を笠間日動美術館へと案内してくださったようなわけだった。

この笠間日動美術館の一階展示室の中央奥には外側に向かって三角形状に突き出た空間があって、壁面が全面ガラス張りになっており、そのガラスの壁面の向こうに真竹か孟宗竹とおもわれる竹林を望むことができるようになっていた。また、その三角形の空間の中央にはジャコメッティ作の細長いブロンズ像が一体だけ配置されていた。その洒落た空間の構成と演出に感嘆しながらガラス越しに外の竹林を眺めるうちに、私はかつてよく訪ねた若州一滴文庫の車椅子劇場のことを懐かしく想い出した。車椅子劇場の舞台奥は全面総ガラス張りになっていて、そのガラスの壁面を通して劇場裏手の庭の竹林を望むことができたものだった。両者の特異な空間構成に見られるこの類似性はまったくの偶然なのだどろうかというおもいが、一瞬私の脳裏に浮かび上がったりもした。

富士山写真展の見学を終え美術館脇の駐車場に戻った私たち三人は、近くの自動販売機でそれぞれに缶入りの飲み物を買ってベンチに坐り、それらをお別れのお茶代わりにしてしばしのあいだ話し込んだ。ちゃんとした応接室や喫茶室などではなく、お互いウーロン茶やジュースの缶を手にしたまま何の変哲もない青天井のベンチに坐ってのお別れのお茶というのは、見方によっては粋なことこのうえない計らいでもあった。そして、この柔軟さが茨城県教育界の指導部にあるかぎりは、この県の教育における将来の展望は明るいのではなかろうかとおもわれた。

それからほどなくしてベンチを立った私たちはその場で別れの挨拶を交し合い、先に研修センターへと引き返していく山内所長と松延教育指導主事の乗る車を私は駐車場で見送った。それから車中に戻り、ネクタイをはずしスーツを脱ぐとすぐにTシャツとジーンズに着替え、徐々に夕暮れの迫りはじめた一般国道を水戸方面に向かって走りだした。そして水戸市内で北に進路を変え、海岸線近くを福島方面へとのびる国道6号伝いに、茨城と福島県境の勿来、さらにはその先の小名浜方面を目指して愛車のアクセルを踏み続けた。
2002年9月11日

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